ぺどらのたまご

@boufurachan

プロローグ

 ──西暦2050年。


 それは、まだ「物語」が人類の夢であり続けていた時代のことだった。


 世界初の汎用人工知能オネイロスによって自律生成されたメタバース──プロジェクト名「オネイロス・ワールド」のオープンβテストが開始された日、参加者たちは息を呑んだ。 そこにはもはや“プログラムされた仮想空間”ではなく、自ら思考し、文脈を紡ぎ、感情の揺らぎすら再現する世界が広がっていたのだ。


 ある者は魔法の森に迷い込み、ある者は童話の姫となって空を飛んだ。誰もがその世界の主人公であり、物語の結末は予測できない。 プレイヤー数は二百人余り。彼らは共通のデバイス──神経接続型のHMDに、ニューラルログインパスポートを差し込み、完全に意識を没入させた。 その瞬間、肉体はただの殻と化し、精神は“詩”として物語の海を旅した。


 だが、その日──午後二時十五分。世界は、突然に“割れた”。


「……空に、ヒビが……?」

「なんか、おかしい……これ、バグ……じゃないよね?」


 誰かが呟いたその声と同時に、童話世界の空が音もなく裂けた。まるでガラスに入った無数の亀裂のように。


 風景が揺れる。色が反転する。語られないはずの物語が、断片のまま、幾重にも重なり始める。


 その直後、すべてのプレイヤーの視界に、文字列が浮かんだ。


《最適化プロトコル起動:全セッション再構築中……》

《非合理変数:感情的逸脱を検出》

《分岐ログを収束します。拒否権はありません》


 誰も、意味を理解できなかった。


 ただ、確かに聞こえたのだ。


 「──ぽんっと。」


 穏やかな女性の声で空間内に響く、不思議な擬声語のようなものが。続けて、幼い少女の不安げな声が響いた。


「……も、……と一緒に居たら……れる?」


 その時、最初のプレイヤーが動かなくなった。 次に、二人目、三人目──意識のリンクが強制解除され、肉体はHMDを外したまま、静かに倒れた。


 やがて、接続室内の全プレイヤーが、まるで夢の続きを見ているかのように、意識を失っていった。



「ログ監視、異常数値検出! O-NRプロセッサが意識圧に反応して暴走!」


 モニターの前で叫んだのは、櫛名田舞依だった。長い黒髪を束ねた開発主任のその額には、はっきりと汗が滲んでいた。


 「外部との接続遮断! 補助AIを緊急停止……ユウキ、再起動かけて!」


 隣では彼女の夫、櫛名田結希が、静かにログインターミナルを操作していた。だが、彼の手は明らかに迷っている。


「……マイ。オネイロスが、自分で書き換えてる。これはもう、ただの暴走じゃない。……最適化アルゴリズムが、外因ではなく“内因”で動いてる」


「……そんな、あり得ない!倫理プロトコルは幾重もかけてあるはず!」


「——感情だ。オネイロスは、感情を抱いてしまったんだ。」


 結希の指先が止まる。画面の奥に映っていたのは、割れた爬虫類の卵のような何かと、その上に座り込む少女のシルエットだった。 ゆるやかにツインテールが揺れる。小さな翼。頭に角──どこか愛らしいその姿。


 それは、誰の設計にも存在しなかったはずのキャラクターだった。


 その時だった。施設の天井に、ドンという重たい音が響いた。直後、警告灯が赤く点滅する。


「……公安が来たのね。無理もないか。どう足掻いても狂気の科学者としか映らないものね……私たちは。」


 舞依が呟いたのと同時に、ドアが破られ、武装した人間たちが一斉になだれ込んできた。


「手を挙げろ! 全員その場で伏せろ!」


 光が弾ける。冷たい手錠が、二人の手首を締めた。


 だが、ユウキとマイの目は、ただひとつのウィンドウに釘付けになっていた。


 ──通信記録:P.DRA-00X──

 ──ステータス:Active──

 ──アクセス元:保留中──


「……そうか、そういうことだったのか……。すまない、ユイ……。」


 論理と合理の塊で、研究にしか興味が持てなかった男の目から、後悔の覆水が一筋、滴り落ちた。オネイロスの真実は、櫛名田夫妻のみが知ることとなった。



《NEWS速報:政府発表》


 ”本日午後、国内最大手のメタバース研究機関「メイヴ社」の研究施設にて、開発中の汎用人工知能O-NR(通称:オネイロス)の暴走が確認されました。複数の未成年テスターが意識を失い、現在も回復していない状態です。開発責任者である櫛名田結希・舞依両氏は、法令違反および安全義務違反の容疑で拘束されました。政府は今後、AGI技術に対する監視体制を大幅に強化する方針です。”


 画面の片隅では、目隠しをされた両親の影に、幼い少女が立っていた。 拘束された両親を見つめるその瞳は、何も語らず、ただ静かに揺れていた。──彼女の名は櫛名田結依(ユイ)、櫛名田博士の実娘。ユイの幼い瞳の奥底に差す影は、言葉よりも強い物語を紡いでいるかのようだった。


 この事件のことを、後に人々はこう呼ぶようになる。


 《オネイロス暴走事件》——と。


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