第5話 父と息子、そしてアリシア

17時31分、ベレスタ市・西住宅街


 ナギが玄関のドアを開けた瞬間、すぐに違和感を覚えた。普段はこの時間、誰もいないはずだが、家の奥からよく知った声が漏れてくる。


 ダイニングに足を踏み入れると、父――リュウジがリンク・パッド越しに誰かと通話しながら、片手で軽食をつまんでいた。ナギに気づくと、視線を向けて小さく手を振る。


「〈アストライア〉の件だが、最終調整は先ほど終わったよ。あとは資料のチェックだけだ。問題ないよ。カーソンの秘書から連絡があった。社長や議員たちも、すでに現地入りしているらしい。――音がしたか? ああ、息子だよ。心配ない」


 リンク・パッドの向こうの声は聞こえないが、明日が新兵器の公開式だと察せられた。


 普段この時間は家にいない父が戻ってきた理由は明白だった。シャワーと食事。それだけのために。

 その証拠に彼の半乾きの黒髪が室内灯に鈍く光り、羽織った水色のワイシャツの袖口がかすかに濡れていた。体を拭く手間さえ惜しんだのだろう。


 ナギは冷蔵キャビンから半透明の容器に入った水を、乾燥機からグラスを、それぞれ取り出す。

 グラスに水を注ぐと、無言で喉を湿らせる。

 喉が渇いていたのかどうか、自分でもよくわからなかった。


 父の通話が終わったタイミングで話を切り出す。


「……父さん」


「ん?」


 リュウジは端末を置き、視線だけを向ける。


「もう3回生の春だから、そろそろ進路のことで話がしたいんだけど……企業によってはインターンの申し込みが始まるし」


 父は笑みを浮かべるが、どこか上の空だった。


「好きにすればいいんじゃないか。……何か困ってるのか?」


「困ってるとか、そういうんじゃなくて。相談……というか、何というか」


 リュウジは首をかしげつつ、笑顔だけは変わらなかった。この人は、いつもこうだ――肝心なことは、受け取ってくれない。


「話してどうする? 決めるのは自分だろ。親がとやかく言うのは好きじゃない。好きにすればいい。いちいち親に相談するような歳でもないだろ」


 大学の専攻を決めるときもそうだった。父はこちらに興味を見せず、干渉もしない。

 ナギは、ついテーブルの隅に視線を落とした。そこには誰も座らない、空いた席がひとつ。


 ――母さんなら、ちゃんと聞いてくれた。


 言葉にはしなかったが、その思いが喉の奥に残ったままだった。

 

 父はその沈黙を埋めるように、少し間をおいて言った。


「……まあ、なんにせよ、自分で決めるのが一番だよ。お前の人生なんだからさ」


 ナギは返事をせず、水の入ったグラスの縁を指先でなぞった。水面は揺れたが、音は立たなかった。


「父さん、関係ないと思うけど、サークルの集まりがこのあとにあるから。今晩は帰りが遅くなると思う」


「そうか、楽しんでくれ。どこに集まるんだ?」


「中心街の東ブロックだよ」


 一瞬の沈黙のあと、リュウジはさらりと言う。


「そうか、研究所に戻るついでに車で俺が送ってやろう」


 ナギは内心で舌打ちした。余計なことを言った――そう思った。一度口に出してしまえば、もう逃げられない。

 父は合理性の化身のような人間で、父は動くと決めたら、相手の気分は考慮しない。拒めば理由を問われる。今のナギにはそのやり取りをする気力がなく、面倒だった。 


「……じゃあ、ありがとう。どのぐらいで出発する?」


「少し書斎でメール対応をしてくる。30分以内には出られるはずだ」


 リュウジはそう言って立ち上がり、手にしていた端末を持ったまま、廊下へと姿を消した。


 父と同じ空間にいても、沈黙がすべてを包んでしまう。その沈黙は落ち着きでも安心でもなく、彼との距離そのものだった。


 ナギは自室へ向かい、上着を羽織った。


 家は最新の全館空調システムが使用されており、快適な温度や湿度を常にAIがモニタリングしている——にもかかわらず昼の講義室と異なり、ナギには室内が少し肌寒く感じた。 


 父を待つ間、ナギは自分のベッドに横になり、リンク・パッドを起動した。暇つぶしにニュースを流す。だが政治家の汚職や戦争報道に興味は湧かない。


 ふとライブ映像のタイトルが目に留まり、タップする。


「ベレスタの沖合でノアリス国籍のコンテナ船が救助信号を出しているのを、航行保安局が確認しました。船の後部からは煙も確認されており、保安局はすでに港から救助船を発進させたとのことです。では、現地上空に向かっている――」


 画面端にコメントが流れている。


『何人死んだの?』

『タイタニックかな?』


 すでに大喜利会場と化していた。ナギは急に興味がなくなって、動画を消した。自分の住む街の近辺で起こった事件だが、数日もすれば誰も覚えていないだろう。


 耳に装着したリンク・パッドを外しながら、ナギはふと天井を見つめる。


「この静けさに慣れる日は、来るのだろうか」


 ふいにアリシアの顔が浮かんだ。



 ***


 ――出会いは1年半前。サークルの集まりがあった日、銀の髪を揺らして彼女は現れた。


 その日は、ミーティングの日だった。しかし集まりは芳しくなく、部屋にいた数人のメンバーは、それぞれ談笑したり、リンク・パッドを弄ったりしながら思い思いに時間を潰していた。


 そんなとき――。 


 女子メンバーの1人が、新人らしき人物を連れて部屋に入ってきた。


「『地球文化研究会』略して『地球研』にようこそー! 全員ちゅうもーく、今日から体験で参加することになった、アリシア・レノックスさんでーす!」


 紹介の声が部屋に響く。


「はじめまして。今月からこの大学に通うことになりました、留学生のアリシア・レノックスです」


 涼やかな声に続いて、丁寧な一礼。その美貌に惹かれ、男女を問わずメンバーが彼女の周囲に集まり出す。ナギも、その流れに合わせて群れの中に加わった。


 アリシアが自己紹介の続きを始めたとき、隣にいたトーマスが、ナギの脇腹を小突いた。


「……めちゃくちゃ美人じゃん。彼女になってくれねーかなー」


 浮かれた声で囁いてくるトーマスに、呆れ顔で皮肉を返す。


「判断を誤ったな、将軍殿。ああいう子には、顔も頭もいい精鋭が群がる運命だよ」


「何だって!? じゃあお前はどうなんだよ?」


「俺は無謀な戦いはしない。戦略的撤退だ」


 トーマスの好きな軍人口調で軽口を交わした後、ナギは群れから離れ、壁際でリンク・パッドを起動する。そして、本を読んで過ごした。


 その日は結局、集まりが悪く、サークル活動は行われなかった。みんなアリシアと一言でも会話しようと彼女にまとわりついていた。

 

 ようやく彼女が解放されたころには、陽が沈んでいた。何人かは帰宅の準備を始めている。

 ナギも帰宅しようとリンク・パッドの画面を切り、トーマスを探そうとしたときだった。こちらに近づく人影があるのに気づく。


「あなたもこのサークルのメンバーですよね。はじめまして――」


「ああ、知ってるよ。君が自己紹介してた時にいたから。アリシアさんでしょ。初めまして、ナギ・レイヴンです。よろしく」


 そっと手を差し出す。彼女はそれに応じて手を握った。すぐに顔を上げ、笑みを浮かべる。


「どうしてこの同好会を選んだの?」


「私の住んでいた国では、地球文化に触れる方法がほとんどなかったので……こうしてセリオンに留学したのを機に、興味のあった分野に触れてみようと思ったんです」


「そっか。それなら、この同好会はちょうどいいと思うよ。みんなで映画を観るときもあるけど、普段はこうして自由に過ごせるんだ。今は席を外してるけど、トーマスってやつは地球の兵器が好きでね。そんなふうに、それぞれが興味のある地球文化を楽しんでる」


「説明ありがとうございます。安心しました。そういえば、私が他の方とお話ししていたとき、リンク・パッドで何かされていましたよね? 映画を観ていたんですか? それとも漫画?」


「いや、地球時代の本を読んでた。カフカの『城』っていうやつ」


「その本はおもしろいのですか?」


 どう返事をするか、顎に手を当て、しばし沈思する。


「おもしろいっていうのとは、ちょっと違うかな。何だか、主人公に共感できる気がしてさ。もしよかったら読んでみてよ。無料で読めるリンク、送るからさ」 


「ありがとうございます。じゃあ、リンクをもらうにはアドレスを交換しないといけませんね」


 思わずはっとした。


 新手のナンパと思われたらどうしようか、という考えがよぎる。だが、ここで変に構える方が相手に警戒される。そう判断して、彼は素直にアドレスを交換した。


 数日後、授業を終えたナギは、理工学棟の廊下でアリシアに声をかけられた。


「同じ学科だったんですね。この前の本、ちょっとずつだけど読み進めてます。不思議ですね……ああいう本、読んだことがなかったので」


 その言葉に、ナギの心にふわりと熱が帯びる。


「ゆっくりでいいよ。結構しんどい内容だし……君が読み始めてくれただけでうれしい」


 そこから自然に会話が増え、学期が進むころには、同じ授業を一緒に受けるようになった。週末に連れ立って出かけることも。


 ***


 ナギは目を閉じたまま、あの光景を胸に浮かべる。


 灯火のような温もり。だがその光はまだ頼りなく、冷たい夜の闇がじわりと広がっていく。


 (アリシアは今、何をしているのだろうか?)


 リンク・パッドの時刻表示を見る。自室に来てから、まもなく30分だ。

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