黄金の視界
■■■は、村人から「勇者様」と呼ばれていた。
――本人にしてみれば、それはどうにも釈然としない呼び名だった。
彼が求めているものは、金や名誉や魔王討伐の勲章でもない。
ただただ「良い景色」を観たいだけなのだ。
朝焼けに染まる湖、風にそよぐ草原、雪解けの山並み――胸の奥が震えるような景色を、もっと、もっと、と欲張るように求め続けている。それが彼の生きる糧であり、冒険を続ける理由だった。
ある日、村の酒場で耳にした話が、彼の心を跳ね上がらせる。
「魔王城からしか見えないという、黄金の輪……金環日蝕さ」
旅商人が酔いに任せて語った与太話。
だが彼にはそれで充分だった。
「決まりだな。次は魔王城だ」
そうつぶやいた瞬間、周囲の村人たちが一斉にどよめいた。
「さすが勇者様!」
「魔王を討ちに行ってくださるのか!」
「我らの希望だ!」
……違う、そうじゃない。
彼が目指しているのは魔王討伐ではなく、「景色」だ。
だが訂正するのも面倒なので、いつも通り曖昧に笑って誤魔化した。
---
彼の旅は、世間の「冒険譚」とはどこか調子がずれていた。
盗賊団に襲われれば、彼は剣を抜くより先に空を見上げて言う。
「おお、ここは月が綺麗だなあ」
ドラゴンに遭遇すれば、炎を吐かれる前に翼の形を褒める。
「ほう、見事なシルエットだ。逆光に映えるじゃないか」
敵は呆気にとられ、次の瞬間には彼の剣に倒れる。
結果として、彼の名は「人々を救った勇者」として広まっていった。
しかし彼にしてみれば、「ああ、ドラゴンの背中越しの夕焼けは最高だった」と感想を呟くことの方が重要なのだ。
---
道中、様々な仲間が一時的に同行した。
勇敢な剣士も、信心深い僧侶も、天真爛漫な少女も。
けれど誰も長続きはしなかった。
理由は単純――彼が「異常過ぎる」からだ。
「ちょっと待って! 敵の陣形を確認しなきゃ!」
「いや、その前にこの夕陽を確認しろ。ほら、雲が裂けて光が滝のように……」
そんな調子で、仲間達に愛想を尽かされてしまうのだ。
だから彼は今日も一人で歩いている。
---
季節がひと巡りしたある夜。
野宿の焚き火の傍らで、ふと彼は星空を仰ぎながら呟いた。
「この世で一番の景色って、どこにあるんだろうな」
そして、酒場で聞いた旅商人の言葉を思い出す。
――魔王城から見える黄金の輪。
太陽と月と地球が重なり合う瞬間。
誰もが畏れ近づこうとしない魔王の城からしか観られないという、奇跡の景色。
「……ああ、やっぱり行くしかないな」
剣を背負い直し、火を消して立ち上がる。
目指すはただひとつ。
景色のためなら、どんな道も彼には冒険になる。
――こうして、勇者と呼ばれる男は魔王城を目指して歩き出した。
彼がまだ知らぬ未来、そこで待つ運命の出会いを胸に秘めて。
◇◇◇◇◇◇
魔王城へ至る道は、誰もが恐れて足を踏み入れようとしない暗黒の大地だった。
地平線の先まで広がる荒野は、かつて緑に満ちていたという。だが、魔王の支配によって瘴気に覆われ、今では岩と砂と毒の沼しか残っていない。
「うわぁ……景色としては最悪だな。いや、ある意味“荒涼美”ってやつかもしれないけど」
■■■は剣を肩に担ぎながら、のんきに口笛を吹いた。
彼にとって重要なのは「そこから先に何が見えるか」であって、道中の危険などは大した問題ではなかった。
瘴気に耐えられず倒れ伏す冒険者たちを横目に、■■■は軽快な足取りで進む。現れる魔獣も次々と斬り伏せ、時には素手で投げ飛ばした。
「勇者の戦い」と呼ぶにはあまりにも軽やかで、本人にとっては散歩の延長にすぎなかった。
だが、魔王城に近づくにつれて、敵は確実に強くなっていった。
炎を吐く竜、石を砕く巨人、影のように現れては消える暗殺者。
その一つひとつが人類の脅威であり、軍勢をもってしても討伐は困難とされていた。
「……ははっ、いいね。強い敵と戦うと、景色がどんどん鮮やかに見える」
剣を振るうたび、■■■の視界は開けていく。
竜の炎を切り裂けば空が澄み渡り、巨人を倒せば遠くの山脈が見渡せる。
敵を越えるごとに、新しい風景が広がるのだ。
そして――いよいよ魔王城が目の前にそびえ立った。
黒曜石のような漆黒の城壁は、見る者すべてに絶望を与える。
空を覆う瘴気の雲が渦巻き、稲妻が塔を叩きつけている。
普通なら足をすくませるその光景を、■■■はただ一言で片づけた。
「すっげぇ……かっこいい景色だ」
次の瞬間、魔王の軍勢が押し寄せてきた。
無数の魔物、鎧を纏った騎士、そして魔族の将たち。
人類の歴史を覆そうとした悪意の軍勢が、ひとりの人間に牙をむく。
「よし、じゃあ一気に片づけて、最高の観光スポットにしようか」
■■■は剣を抜いた。
その一閃は稲妻よりも速く、流星よりも鋭く――
瞬く間に、魔王城の前庭は血と光に染まった。
◇◇◇◇◇◇
魔王城の巨大な門をくぐった瞬間、■■■の視界は闇に閉ざされた。
光を呑み込むような闇の回廊。無数の蝋燭が炎をあげ、壁に描かれた禍々しい紋章が脈打っている。
そこは、世界そのものを呑み尽くそうとする魔王の心臓部だった。
「ふむ……雰囲気満点だな。まさに“魔王城観光ツアー”って感じ」
足音が響くたび、空気が重くなっていく。
城内を進む■■■に、魔族の兵が次々と立ちはだかるが、そのすべては一瞬の剣閃で斬り払われた。
やがて――玉座の間へと辿り着く。
そこには漆黒の鎧に身を包んだ巨躯の魔王が座していた。
双眸は燃えるような赤で、手に握られた大剣は城そのものを砕くほどの重圧を放っている。
「人間よ。よくぞここまで来た」
「どうも。■■■です。ただの観光客です」
「……観光客だと?」
「そう。いい景色が見たいんだ。君の城からの景色は最高だって聞いてね」
魔王は一瞬言葉を失った。
しかし次の瞬間、空気を裂くような咆哮をあげ、大剣を振りかざした。
「戯言は地獄で言え!」
地面が割れ、黒炎が迸る。
魔王の一撃は天地を割るほどの力を秘めていた。
だが――■■■は笑いながら、その剣を片手で受け止めた。
「おお、すげぇ迫力……でもごめん、僕はもっと景色が見たいんだ」
閃光。
一瞬の斬撃。
魔王の身体はゆっくりと崩れ落ち、やがて黒い霧となって消えた。
玉座の間に響いたのは、■■■の軽い息だけだった。
「ふぅ……ちょっとした寄り道にしては大立ち回りだったな」
あまりにあっさりとした決着。
だが■■■にとっては、魔王を倒すことそのものよりも――その先に広がる景色こそが目的だった。
そして、重厚な扉を押し開け、バルコニーへと出る。
そこから望む空は、赤と金が混じり合い、今にも日蝕の輪を描こうとしていた。
しかし、その景色に心を奪われる前に――倒れ伏す人影が目に入った。
四天王のひとり。深紅のドレスアーマーを纏う少女が、血に塗れて地に伏していた。
「……まだ息があるな」
■■■は迷うことなくポーションを取り出し、その唇へと流し込んだ。
やがて、その戦士の瞳が開く。
その瞬間――■■■は息を呑んだ。
「……っ!」
金環日蝕の光を浴びたその顔は、美しかった。
荒々しい戦場の只中でなお、毅然と輝くような瞳。
■■■はその瞬間、一目で心を奪われた。
◇◇◇◇◇◇
ポーションを飲まされた四天王は、咳き込みながら上体を起こした。
長い髪が赤い月光を受けて煌めき、瞳は驚愕と怒りで揺れていた。
「……なぜ助けた?」
「理由? 君が死ぬ顔より、生きている顔の方が綺麗だからだよ」
■■■のあまりに無遠慮な言葉に、四天王は言葉を失った。
だが次の瞬間、戦士としての本能が彼を立ち上がらせる。
「愚弄するか、人間ッ!」
「いやいや、本気で言ってるんだけどな……まあいい。ここでやるか」
二人は剣を交えた。
その瞬間、魔王城のバルコニーは轟音に包まれる。
四天王の剣技は、魔王軍最強と称されるにふさわしく、斬撃一つで空を裂き、雷を呼び込んだ。
■■■はただ笑みを浮かべながら、その剣を受け、躱し、時に弾き飛ばす。
「君、強いな。戦ってるだけで景色が輝いて見える」
「黙れ!」
剣がぶつかるたび、火花が散り、空を舞う。
バルコニーの石床は砕け、壁が崩れ、戦いは夜を徹して続いた。
――一日目。
互いに一歩も引かず、剣と剣が衝突し続けた。
血を流し、息を切らし、それでも両者は笑った。
――二日目。
太陽と月が巡る中、二人の戦いは舞のように続く。
四天王の瞳には次第に怒りではなく、奇妙な感情が芽生えていった。
「なぜ……倒れぬ……!」
「倒れる理由がないからだ。君と戦っている今が、最高の景色なんだよ」
――三日目。
肉体は限界を迎えながらも、心は燃え盛る。
互いの傷は深く、剣は欠け、それでもなお立ち上がる。
それはもはや戦いではなく、魂の交響だった。
そして三日三晩を越えた時――四天王が膝をついた。
「……ぐ……これまでか」
「いや」
■■■は剣を振り下ろす代わりに、よろめくその身体を抱きとめた。
驚愕する四天王の瞳を覗き込み――唇を奪った。
「――っっ!?」
四天王は目を見開き、頬を赤く染め、混乱の声を漏らす。
「な、なにを……している……!」
「結婚してくれ。僕は君に一目惚れしたんだ」
その言葉に、四天王は完全に混乱し、ただ「……は、はい……?」と答えてしまった。
■■■は満足げに微笑む。
「じゃあ、婚約成立だな」
空を見上げると――そこには、金環日蝕が姿を現していた。
「いま手元にはキミに捧げる指輪は無いけど……ほら、空を見上げてご覧」
「……」
「美しい黄金の輪だ。今はこれを指輪としようか」
二人は自然と手を伸ばし、日蝕の光輪を指にかけるように掲げた。
その瞬間――空の黄金の輪は輝きを増し、まるで祝福の指輪となった。
◇◇◇◇◇◇
金環日蝕の光に包まれた二人は、しばし言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
四天王は頬を赤らめ、未だ混乱の渦にいたが――■■■は朗らかな笑顔で彼女の手を握った。
「さあ、最も素晴らしい景色を探しに行こう!」
その声には一切の迷いも打算もなく、ただ純粋な憧れだけが宿っていた。
四天王は息を呑み、そして小さくうなずいた。
――こうして、奇妙な二人の旅が始まった。
彼らは世界の果てへ向かう途中で、あらゆる景色を見た。
氷の大地を越え、炎の海を渡り、雲を貫く塔の頂から世界を眺めた。
四天王は戦士としての誇りを胸に、■■■はただ「美しい」と感嘆を漏らし続けた。
時に争い、時に笑い合いながら、二人は確かに寄り添っていた。
いつしか四天王は、かつての「魔王の忠臣」ではなく、一人の旅人として■■■の隣に立つようになっていた。
「……不思議だな」
「何が?」
「お前と一緒にいると、戦っているよりも心が落ち着く」
「そう? 僕は君と一緒にいると、戦ってるみたいに心が燃えるよ」
互いの違いは、互いを補い合った。
――そして、幾つもの季節が流れた。
数年後。二人は静かな村に根を下ろし、やがて結婚した。
村人たちはかつて「勇者」と「四天王」と呼ばれた二人を祝福し、花を振り撒いた。
婚約の儀式の時、■■■は空を見上げ、微笑んだ。
「なぁ、あの日の景色を覚えてるか?」
「……忘れるわけがない。私の指に今も光っている」
やがて二人は子を授かり、穏やかな日々を過ごした。
だが■■■の旅心は決して消えることはなかった。
「次はどんな景色を見に行こうか」
「……まったく、落ち着きのない奴だな」
「いいじゃないか。一緒に行こう。家族みんなで」
笑い声が響き渡る。
その声は、かつて戦乱の中にあった大地に、確かな平和を刻んでいった。
そして二人の物語は――「黄金の視界」という名の伝説となり、後世まで語り継がれることになる。
それは、景色を追い求めた一人の逸般人が、愛を手に入れた冒険譚。
そしてまた新たな景色を求めて歩き続ける、終わらなき旅の始まりだった。
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