第51話 ティイの遺言

 治世十三年、はアクナテンにとって耐えがたい年であった。

「マルカタのティイ太后様の体調が思わしくないとのことです」

 姉のネフェルティティ王妃の死後、つきっきりでアクナテンの世話をしているムウトベネレトがティイの老執事サフテの手紙を王の寝室に持ってきた。

「お母さまが……まさか、今度もテーベのアメン神官どもが呪術をかけているのではないだろうな」

 惨殺事件以来、アクナテンは神経がすり減って鬱気味になっていた。

 ムウトベネレトは跪いて手を組んで目を閉じた。

 数分間、沈黙した後、ゆっくり目を開ける。

「大丈夫です。お渡ししていた護符の効果でアメンの神官どもも、太后様には手出しできません」

 そういって窓から太陽を見続けるアクナテンに優しく微笑んだ。

「いつまでも寝ているわけにはいかないな」

 アクナテンは体をひねり起き上がろうとする。

「陛下」

 ムウトベネレトは慌てて立ち上がって、アクナテンを支えようと背中に手をまわす。

「ムト、母上のところへ行くぞ」

 気持ちを切り替え、アクナテンは切れ長の目を輝かせた。

「ゼノビア、すぐに陛下の支度を」

 ムウトベネレトの命で、ゼノビアをはじめ、すぐに数人の召使いがやってきてアクナテンの衣装を替えた。

 王の特別な腰布は、緑や黄色の縞柄のもので、細かく襞を取って両の端を丸く断ち落して前垂れを付け、三角形の黄金のプレートを提げた。王の被り物である縞柄の頭巾には黄金のコブラの飾り物を取り付けた。

「すぐにでも出発できます」

 つきっきりで警護している警察長官のマフは、鋭く目を光らせて安全の確認をした。

 アクナテンとムウトベネレト、そして今回はアティとヒラールがティイから呼ばれた。

 ファラオ専用の豪華で巨大な船、輝けるアテン号が護岸からゆっくり離れ、白い大きなマストを広げマルカタへと向かって出発した。


 数時間後、マルカタに近づいた船はゆっくりと人工の湖に入っていき、静かに停泊した。

「お母さま」

 アクナテンは生気を失ってすっかり弱々しくなったティイを見て胸が締め付けられた。

「よく来てくれましたね」

 ティイはベッドから起き上がろうとするが、アクナテンはすぐに止めた。

「無理はしないでください」

 アクナテンはにっこり微笑む。

「この度の事件にわたしはとても心を痛めています。まさか、神に仕える神官が悪魔の手先になろうとは……首謀者はハプセンネブ暗黒司祭です」

「わたしもハプセンネブがこれまでの事件の首謀者であることを突き止めました」

「ハプセンネブと悪魔に魂を売った神官を倒さねばなりません」

「しかし、それはアテン神の意志に反することではないでしょうか」

「息子よ、よくお聞き。あなたの言うことは正しい。なぜならそれが神の意志だから。でもこれまでアメンの神官らが引き起こした疫病や呪術によって、多くの人々が家族を失い途端の苦しみを味合わされました。しかもその原因はアメン神を蔑ろにしたから怒りに触れたのだと言わんばかり。アメン神は災いをもたらすような神ではありません。これは神のしたことではなく人災なのです。人災ならば人間が秩序を取り戻さなければなりません」

 ティイはそこまで言って胸苦しさを感じ深い呼吸をした。

「お母さま、しっかりしてください」

 アクナテンはティイの枕元に跪き母の手をそっと握る。

 死人のように冷たい。

「大丈夫ですよ」

 ティイは微かに笑みを浮かべた。

 アクナテンはムウトベネレトを見あげる。

 ムウトベネレトは呪術ではないという仕草をした。

「マアトの法にしたがって彼らを裁きます」

 アクナテンはきっぱりと言い切った。

「それを聞いて安心しました」

「当然のことです」

 アクナテンは微かに頷く。

「この世は真実が全てです。邪悪な者共は真実を闇に葬りさろうとする。民は真実に基づく公平な裁きを求めています」

 ティイは真剣な眼差しで息子を見つめた。

「アテン神はこの世の全ての暗黒に光をあて、闇の正体をあぶり出しマアトの法に従って公平な裁きを下すでしょう」

「どうか、世界の民に愛と希望の光を届けて下さい」

「はい、お母さま」

 アクナテンはきっぱりと言い切る。

 ティイはアクナテンの顔にいつもの笑顔が戻るのを確かめると、安心したかのように柔らかな眼差しで精神的にもぐっと成長した息子を見つめた。

「アティ」

 ティイはそばに来るよう手招きした。

「太后様」

 アティは間近でティイと話したことがなかっただけに、心臓がドキッとした。

「アティ、これまでよく息子に仕えてくれました。ほんとにありがとう」

 ティイはアティの黒くて美しい手を握る。

「太后様恐れ入ります」

「あなたに大切なお願いがあります」

「な、なんでしょうか?」

「いつかネフェルアテン王女を貴方の国の神、燃える山の神の元へ連れて行って欲しいのです」

「ネフェルアテン王女様を」

「そうです」

「そのようなたいそれた役目……」

「ツタンカーテンは王になる宿命を負わされています。はたして王子にアテン神を一神教を守ることができるのかそれが心配なのです」

「それでネフェルアテン王女様をアシールの神にお導きするのですね」

「そうです。燃える山の神はわたしたちヘブライの神でもあります。神は愛一つの世界を創るよう私たちに命じました。そのことを世界の人々に伝えて行かねばなりません」

「ネフェルアテンなら必ずそれを成し遂げてくれるだろう」

 アクナテンが話しに加わってきた。

「陛下、それでよろしいのですか?」

 アティがアクナテンの顔を見あげる。

「わたしにはこの国を治めるという役目がある。ファラオになる者は皆そうだ。神の手足となってお仕えする事は出来ない。今のままではいつになったら王位を後継者に譲れるのか分からない。だからこそ」

「畏まりました。ネフェルアテン王女様をわたくしアティが必ずやアシールにお連れします」

「ところで陛下にお願いが」

 アティがにっこりする。

「なんだね」

「ヒラールの子を陛下のボディガードとして、お側に」

「ピィィ」

 アティが指笛を吹くと二頭の子狼が部屋に駆けこむ。

「アシールで初めて会った頃のヒラールとそっくりだ」

 アクナテンは童心に返ったように屈み込んで二頭の子狼と戯れた。


「世界の人々が神の愛で一つになればこの世から争いや飢えは消えるのです。わたしからも姉に代わってお願いします」

 それまで三人の話しをじっと聞いていたムウトベネレトがアティの手を握って微笑んだ。

 広く開放的な窓から爽やかな風が吹き込んできた。

 アクナテンは青い空と輝く太陽を見つめた。

「お母さま、良い天気ですね」

「……」

 ティイの返事がない。

 アクナテンは振り返る。

 ティイは眠るような安らかな寝顔で神の元へ旅立った。


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