第45話 太后ティイ

 数日後、マルカタの宮殿にいる太后ティイが前触れもなくアケトアテンのアクナテンのもとを訪れた。

「お知らせくださればお迎えに上がりましたのに」

 ティイの体調が思わしくないと聞いていたので、アクナテンは目の前の元気な姿をみて安堵した。

「敵を欺くには味方からというでしょう」

 ティイは相変わらず茶目っ気たっぷりな笑顔をみせた。

「お体の調子はいかがですか」

 アクナテンはそれでも母の身を案じる。

「わたしは大丈夫よ、それよりネフェルティティ王妃はどうなの?」

「それが……」

 アクナテンが躊躇っていると、

「太后さま! お会いし問うございました」

 ネフェルティティ王妃がゼノビアに伴われて王宮に姿を現した。

「ネフェルティティ、起きていても大丈夫なのか! ゼノビア、どうして王妃をとめなかった」

「申し訳ありません」

「あなた、ゼノビアを叱らないで。あたしが無理を言ったのですから」

「わたしも会いたかったのよ」

 太后ティイは王妃を両腕で強く抱きしめた。

「お母様にお会いできてとても元気がわいてきました」

 ネフェルティティは嬉しそうに目を細め自慢のエクボをつくる。

「おや、もしかしてあなた子できたの」

 ティイはそっと王妃のお腹に手をあてた。

 王妃を抱きしめたとき、お腹に小さな命が宿っているのを感じたのだ。

「は、はい」

 ネフェルティティは初めて子を身ごもった母のように頬をピンクに染めて恥じらう。

「ネフェルティティ、どうしてそれを早く知らせてくれなかったんだ」

 アクナテンは口をポカンと開けてネフェルティティのお腹を見つめる。

 誰よりもびっくりしたのは父親であるアクナテンであった。

「あなたをびっくりさせようと思って」

 ネフェルティティは茶目っ気たっぷりな笑顔をみせる。

「もう十分びっくりだよ」

 アクナテンはネフェルティティの前で跪いて、膨らみかけたお腹に接吻して耳をあてた。「相変わらず仲がいいのね」

 ティイは安心して目を細め二人を優しくみつめた。


 ネフェルティティが主治医のメリトプタハ女医とゼノビアに伴われて寝室に戻っていくのを見守るとティイは、

「あなたとゆっくり話がしたいのです」

 真剣な眼差しで息子を見つめた。

「一体なんですか?」

「時間をくれますか」

「ええ、もちろんですとも……」

「ありがとう」

 ティイとアクナテンがセントラルシティの王宮に戻ってくると、すぐにティイの老執事であるサフテが二人を待っていた。

「お待ちしておりました。船の準備はできております」

 ティイとアクナテンが王族専用の豪華な船に乗り込むと、船は白い帆を広げアケトアテンの港を静かに離れた。


 船はナイルを南に向かって進み翌朝には、ソハーグの東岸から陸にひかれた人工の水路に進んだ。

「アクミームに行かれるのですか?」

「よく覚えていたわね」

「もちろん、お母様の里ですから」

 母子はにっこり微笑む。

 幼い頃、アクミームに連れて行かれ割礼を受けた痛い記憶がよみがえる。

 やがて船は山々の狭間にある秘密の神殿の入り口にたどり着いた。

「ここで待っていなさい」

 そうサフテに命じ、ティイはアクナテンを連れて峡間の神殿に向かって歩いた。

「この神殿は地図上にありませんね」

 どんなに小さな神殿も記憶しているアクナテンだったが、ティイ一族の隠された神殿があろうとは思いもしなかった。

「思い出しませんか?」

 ティイが我が子を見て微笑む。

「来たことがあるというのですか」

 アクナテンはあらためて神殿と周囲を見回した。

 小高い山の裾野にその神殿は鎮座し、アカシア材の塀が神殿の周囲を取り囲んでいた。

 正面の門を通り抜けると、左斜め前に綺麗な水を張った御手洗い場がある。

「ああ、この手を洗うところで記憶がおぼろげながら蘇りました」

 アクナテンは幼い頃母に連れられて、この神秘的な神殿を訪れたことを思い出した。

 二人は手を洗い口すすぐ。

 神殿の正面まで石畳が真っ直ぐ伸びていた。

 ティイとアクナテンを神官らが出迎える。

 神官らは高さ十メートルほどの、金色に輝く神殿本堂の扉を静かに開いた。

「かぐわしい香りですね」

 神殿に閉じ込められていたフランキンセンスの香しい香りが広がった。

 アクナテンが目を閉じると、フランキンセンスの香りが胸いっぱいに広がり、懐かしさがこみ上げてくる。

 母子は、ゆっくり、大きく息を吸う。

「こちらへ」

 二人は大司祭と神官らに導かれ、神殿の中へと足を踏み入れた。 

 本堂の中は壁も天井も床も燭台でさえも、全てが黄金に輝き、沢山の燭台に明かりが灯されている。

 古代エジプトの神殿は、神殿の威厳を高め、神官の権威を高めるための演出として、神殿の奥へ行くほど暗くなるようわざと設計されていた。ところがこの神殿は黄金で明るく彩られ、しかもエジプトのどの神殿にも見られるようなエジプトの神々の派手な色彩の絵やレリーフや石像は一切ない。

 ティイとアクナテンが本堂の最も奥までやって来ると、香壇が設けられ白い煙が揺らいでいた。香壇の向こう側は少し高い壇になって石段を数歩上がると垂れ幕を隔てたところに至聖所と呼ばれる一辺がおよそ八・七四メーターとする立方体の空間があった。

「よくお越し下さりました」

 大司祭は恭しく頭を下げティイとアクナテンを至聖所へ通した。

 母子が至聖所の中に入ると、ケルビムと呼ばれる智天使の黄金像が部屋の最も奥の左右にそれぞれ立ち、美しい翼を大きく広げて母子を見下ろしていた。部屋の中央には黄金で作られた箱があり、箱の中にはアブラハムが神と契約を交わした石版が納めれていると言われていた。

 箱の蓋には石版を守るように智天使ケルビムの金細工が乗せられ、箱の側面には王家の聖なるシンボルである日輪の丸い紋章が刻まれている。

「ここにはエジプト王家の秘密、神の秘密が隠されているのです」

 ティイはそういって息子を見上げた。

「神の秘密が隠されている?」

「エジプトの本当の姿が隠されています。あなたはその事実から目をそらせてはなりません」

「エジプトであろうとも古代に栄えた文明の英知を引き継いでいるものです。歴史をファラオに都合良く改ざんしてはならないと思います」

「隠されてきたからこそ守られることもあるのです」

「たしかに」

「王家にはアトランティスとシュメールの血が、わたしの一族にはヘブライの血が流れています」

「お母様の一族に」

「わたしの一族はヒクソスがエジプトを統治していた時代に、カナンの地からエジプトに入植してきたヘブライ人でした。ヘブライ人であるヨセフはヒクソス朝のファラオに厚遇され宰相にまで登り詰めました。ヒクソス統治下、エジプトに入植してきたヘブライ人たちはエジプト人より優遇され、役人になった者は高位高官に登り詰め、商業を営む者は厚遇され財を成した。わたしたちの祖先もヘブライ人として財を成した一族。ところがおよそ百年に渡るヒクソスの支配もイアフメス王を中心とするエジプト人の反撃で倒されると、帝国は再びエジプト人の手に戻りエジプト第十八王朝が打ち立てられた。するとそれまで優遇されてきたヘブライ人たちはヒクソスに荷担した民族として冷遇されました。

 多くのヘブライ人が苦難に喘ぐなか、わたしの祖先はエジプト人社会に溶け込み、エジプト人と血縁関係を結びながら新しく出来た第十八王朝の中で着実に地位を築いていったのです。

 そんな中わたしはアクミームで生を受け、アクミームでアメンヘテプ三世に見初められ、結婚した」

「お父様はとてもお母様を愛していた」

「わたしたちは愛情で結ばれた結婚をした。王はとても優しく私は幸せでした。しかし、世継ぎとなる男の子に恵まれなかったのです。このままではアメンヘテプ三世王の弟アアヘベルが王位に就いてしまう。そこでわたしは縋るような思いで男の子がほしいと神にお願いしたのです。そしてトトメスとあなたが生まれた」

「それでアアヘベル叔父上がわたしを憎むのですね」

 アクナテンはアアヘベルから繰り返し命を狙われたのを思い出す。

 だがどんなに危険な目にあっても神のご加護があった。

「アアヘベルは権力に執着するあまり、テーベのアメン神官団や王家の非主流派から利用されているだけです」

 ティイは哀れむように目を伏せる。

「叔父上の心には神の愛がとどかないのでしょうか」

 あれだけ命を狙われたというのに慈悲深いアクナテンである。

「アアヘベルの心次第でしょう」

 ティイは半ば諦めたような表情をしていった。

「ですね」

 アクナテンはそう言って契約の箱に目を移す。

「ヘブライ人が崇めてきた神です」

「存じてます。ですが、神にエジプトの神もヘブライの神もない。在るのは一柱の神のみ」

 アクナテンはそう言って母の返事を待った。

「そのとおり神はみな同じ。神にアテンもヘブライもアメンもありません。神は唯一の存在なのです」

「お母様の仰るとおりです」

「ではなぜあなたはテーベのアメン神殿を閉鎖するときあらゆる祈念碑からアメンの文字を削り取ったのですか? しかも民家に兵を入れアメンの像をことごとく割ったのはなぜなのですか?」

「それはどういう意味ですか?」

 アクナテンは初めて聞く話だった。

「あなたは知らないのですか?」

 ティイの顔が一瞬にして青ざめる。

「テーベのアメン神官団が疫病の患者を、意図的に次々とアケトアテンに移動させたのです。だからわたしはアメンの神殿を閉鎖し、彼らから全ての権利や権威、財産を剥奪しました。しかしアメンの像や文字の破壊まで命じてはいません。まして民家に兵を入れるなど命じてはいません」

 アクナテンはかたく唇を結び、両手を握りしめ床の一点を沈鬱な面持ちで見つめた。

 太陽の都に裏切り者がいる。

「アケトアテンに権力の乱用をするものがいるようですね」

 いくら宗教革命とはいえ息子があのような、対立を煽る無慈悲な破壊をしたことに心を痛めていたのだが、それが違うとわかって心が少しばかり晴れた。

「あの件はパアテンエムヘブ将軍に頼んだ。彼に調べさせましょう」

 アクナテンはすぐに神官を呼ぼうとする。

「ここは聖域ですよ」

 ティイが慌てて制止する。

「パアテンエムヘブ将軍の腹心にヒクソス系のセティという軍指令がいます。おそらくあの男が手柄を立てたいがためにあのような大それたことをしたのでしょう」

 ティイは既に細かな情報を得ているようだった。

「母上の情報網は相変わらず鋭いですね」

 アクナテンが呆れ顔になる。

「権力が一つに集まれば集まるほど舵取りが難しくなるものです。小さな綻びがやがて巨大な裂け目となることも」

 ティイの目は真剣だった。

「母上、心配しないで下さい」

 アクナテンはティイを伴い王宮に入り母に黄金の椅子をすすめる。

「わかりました。あなたに任せましょう」

 ティイは肘当てに刻まれた黄金のライオンの頭を握りしめた。

「ありがとうございます」

 アクナテンも隣の椅子に腰掛ける。

「ところであなたをここに連れてきた理由だけど」

「ええ、それがずっと気になってました」

「その前にあなたに確かめたいことがあります」

「宗教革命のシンボル、唯一神アテンのことですか?」

「そうです。あなたがアテン神と呼んでいるのは真実の神の名ですか?」

「神の偽りの名前です。プントの燃える山の神に諭されました」

「神の本当の名を知るものはあなたしかいない」

「神の本当の名を口にすることは神によって禁じられています」

「だからあなたは神の仮の名をアテンとした」

「その通りです」

「それを聞いて安心しました」

「母上、今日は一体何を」

「あなたの出生の秘密です」

「秘密」

「あなたが生まれるとき神と交わした約束があるのです」

「神との約束」

 アクナテンの燃える情熱に溢れた黒い目が、ティイの澄み切った瞳に釘付けになる。

「世継ぎとなる男子が欲しいと神におすがりしたときのことです。神の声がして『あなたの願いを叶えてあげましょう。あなたには二人の男の子を授けます。ただし二人の子供はわたしの息子です。必ずわたしに仕える子として育てなさい』と神はわたしに告げたのです」

 ティイは天を仰ぎ見て続けた。

「わたしはすぐに『二人の男の子を必ず神さまに仕える子として育てます』と誓いを立てました」すると神は「約束が守られない時、そなたの子をわたしの元へ呼び戻すであろう」と仰ったのです」

 そう言い終わるとティイは我が子をじっと見つめた。

「まさか……だから兄さんは神様の元へ……」

 アクナテンは下唇を噛んで沈鬱そうに両目を閉じた。

「あなたはアテンの都を築いた。神に仕えるものとなった」

「だがわたしはファラオです。真に神に仕える者ではない」

「テーベのアメン神官団は執拗にあなたの命を狙っています。あなたのことが心配なのです。太陽の都は完成し宗教革命は達成されました。ネフェルティティ王妃の負担を減らすためにも後継者に王位を譲るべきではないでしょうか」

 ティイはこれまで何度も言いかけてどうしても言い出すことができなかった言葉を息子に投げかけた。

「お母様、心配しないで下さい。後継者は兄の忘れ形見であるスメンスカーラーと決めています。メリトアテンと二人でアケトアテンの新しい時代を切り開いて欲しいと願っています」

 アクナテンは周囲に人がいないのを確認すると、王位継承の意思ができていることを母に打ち明けた。

「王位を譲った後、あなたはどうするつもりですか?」

 ティイが恐る恐る聞く。

 アクナテンはずっと前から心に決めていたのであろう、

「わたしは太陽の都を出て神に仕えます。アテン神の教えを世界に説いて回るのです」

 とあっさりこたえた。

「それを聞いて安心しました」

 ティイは両目に涙さえ浮かべ、大きく息を吐いて息子の手を握りしめた。

「母上、ご心配をおかけしました」

 アクナテンはそう言って優しく微笑み、母のしわしわの手を両手で優しく握り返した。


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