第42話 アクナテンの祈り
ネフェルティティ王妃のかわりに王妃の妹であるムウトベネレトがファラオをサポートした。王妃ネフェルティティの希望だった。本来なら政権移行ための準備として長女のメリトアテンをその任につかせるべきであったが、まだ十五歳と若かったのでメリトアテンとスメンクカーラーによるアテン第二政権へ円滑なバトンタッチするための布石としてムウトベネレトが補佐役に抜擢されたのである。
ある日、ムウトベネレトはアクナテンの執務室に呼ばれた。
ムウトベネレトはたった今、アケトアテン北の王妃の宮殿で姉であるネフェルティティ王妃と話をして中央の宮殿に戻ったばかりだった。
ムウトベネレトが執務室に入るとアクナテンがいつものように、開放された窓の傍の机で長い長い手紙を書いていた。
「お呼びでしょうか」
ムウトベネレトはそっとファラオの前に立ち、王の返事を待った。
アクナテン王の集中力はとても強く、こうしてペンを握っているときはその世界に入り込んでしまう。
「よし、これでいいだろう」
ファラオは満足そうにパピルスの手紙を読み返した。
「ベネ、来ていたのか」
アクナテンは笑みを浮かべ、思い出したようにいう。
「ネフェルティティの様子はどうだった」
ムウトベネレトが執務室に入るや王が尋ねてきた。
「メリトプタハ医師の薬が効いたのか、幾分お加減が良いようです」
そう伝えながら姉の頬がピンクに染まっていたのを思い浮かべる。
「そうであったか」
アクナテンの頬がすこしばかり綻ぶ。
「このまま無理をしないで療養を続ければ病も治るのではないでしょうか」
「うん、きっと治るアテン神が守って下さる」
アクナテンは自分に言い聞かせるように呟いた。
「とても長いお手紙ですね」
長いパピルスは机から床にまでひろがっている。
「ミタンニ王国のトゥシュラタ王へ手紙だ。余に輿入れしたトゥシュラタ王の王女、ギルヘバ王妃が心配らしく、黄金の飾りピン、黄金のイヤリング、黄金のマシュの輪、甘い油を入れた香料入れを送ってきたのでその返礼を書いていたのだ」
アクナテンはパピルスの手紙を丸め外務官僚のツツを呼びその手紙を手渡した。
ツツは外交文書の殆ど全てを管理している有能な官僚である。
「ミタンニ王国へ届けます」
ツツはカエルのように出っ張った下腹をゆっくり揺らしながら部屋を出て行った。
ツツが出ていった後ムウトベネレトが王を振り返った。
「あの者はどうも慇懃無礼で感じが悪いです」
めずらしくムウトベネレトが人の悪口をいう。
「人様々だ。あの者もアテンを信じてこのアケトアテンに来てくれた。彼が外交文書を意図的に選別していることなど承知のことだ。やがてあの男も神の愛に目覚めるときが来よう」
「では陛下はわざとツツを泳がせているのですか?」
「彼が改心するのを待っているのだ。どんなに巧みに人の目を誤魔化そうとしても、必ずどこからか見ている者がいる。人の目は節穴ではない。悪事を永遠に隠しおおせることなどありえないのだよ」
アクナテンはそう言いながら既に次の手紙を書き終えている。
「このお手紙は」
「ヒッタイトのシュピルリウマ王だ」
「ヒッタイトはなんと」
「シュピルリウマは和平を望んでいる。もちろん余もアテンの祝福の元、平和外交を求める旨お伝えするつもりだ」
アクナテンはたんたんという。
「あの国は野心的な国です。すでに多くの工作員をエジプトに送り込んでいるようです」
ムウトベネレトの脳裏に、暗躍するヒッタイト人の姿が繰り返し流れた。
「わかっている。フェニキアの港町がヒッタイトの手に落ちたこと。ヒッタイトの味方になったシリアのアジル王が絶えずエジプトの勢力を脅かしていることも。表向き平和外交を望んでいるヒッタイトのシュピルリウマが、エジプトの友好国を訪れてはエジプトの支配に対する叛乱をそそのかしていることもな。おかげでパアテンエムヘブ将軍から国境の軍事予算を増やして欲しいと矢の催促だ。わたしはすぐにマイアを呼び説明をうけた。予算はマイアにまかせている。彼の説明ならパアテンエムヘブ将軍も納得するであろう」
アクナテンはこの国におきていることを全て知り尽くしていた。
そればかりか全ての部下のこともその知性から性格や人間関係にいたるまで把握していたのである。
「陛下がそこまでご存じなのであれば」
「ベネ、そなたにも苦労をかけるな」
「とんでもありません。わたしの使命は王妃に代わって陛下を守ることですから」
「軍事力の拡大は際限ない。野心ある国はヒッタイトばかりではない。アッシリアをはじめ多くの国が勃興しては、いつかは滅び去ってゆく。エジプトの繁栄も無限ではなかろう。戦乱の世で一番苦しむのは民だ。われわれは第一に民の生活を守らねばならない。ならばどうすればいいのか。マアトの法に守られた戦乱のない世界を創るしかないのだ。それは平和を愛し、神の愛のもと世界を一つにすることだ。だがここで大事なのは決して強制であってはならない。アテンの愛を人々が知り気付くことが大切だ。わたしたちは神を信じ、神に祈り、神の愛を根気よく人々に説いてゆかねばならないのだ」
「まったく仰るとおりで御座います」
ムウトベネレトはアクナテンに近づけば近づくほど、ファラオとしてではなく一人の人間として憧れる心が大きくなる。
「これからもテーベのアメン神官団の妨害が続くだろう。周辺諸国との争いや醜い駆け引きに心かき乱されることもあるかもしれない。だが、目の前の小事に心と目を惑わされてはいけない。私達の使命は神の愛を人々に伝え、神の愛でもって一つの世界を創造することなのだ」
アクナテンは筆を置き、窓際に立って降り注ぐ太陽光線を瞬きもせず見つめた。
やがてアケトアテンの町から死の影は立ち去った。
アクナテンはテーベのアメン神官団の野望を退け、人々を苦しめた疫病を見事に抑え込んだのだ。
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