第20話 アメンヘテプ四世の即位

 アメンヘテプ三世の長男でメンフィスのプタハ神の大司祭をも務めたトトメスは、王位を継承する予定だったが、何者かに暗殺されたため、弟のアメンヘテプ四世が王位を継承することになった。ところが、即位の日が近づくにつれ、王子は一人で書斎に引きこもるか、たまに外に出かけたかと思うと、ぼっと遠くの景色を眺めてばかりいるようになった。

「どこかお加減でも悪いのですか?」

 二人の子を生んですっかり母親らしくなった王妃ネフェルティティが、砂漠の庭園のあずまやに佇む王子を心配そうに見つめる。

「このままでいいのか?」

 王子は、囁くように言う。

「即位のことですね」

 ネフェルティティは夫の迷いに気付いていた。

 王子は優しくガラスのように繊細で愛に溢れている人。政治という汚れた世界に手を染めて生きるよりも、神に仕えて生きる方がより生き生きと人生を全うできるのだと思う。

「神に仕えるため俗世を捨て、心と魂の修行を重ね、少しでも神の愛に近づく事が人生の使命だとわたしは思っていた」

 アメンヘテプはあずまやから出て砂地に腰を降ろす。それから膝を組んで顎を載せ深いため息をついた。

「わたしは神について語るあなた様のお姿が好きです。そんな時のあなたは本当に生き生きとしていらっしゃる」

 ネフェルティティも王子の隣にゆっくりと腰をおろす。

 砂漠の美しい曲線や幾重にも連なった縞が砂風に煽られ、まるで生き物のように刻々と変化する。

「神はもうわたしを愛してくれないだろう」

 アメンヘテプは砂をひと摘まみして手のひらに載せた。

「そんなはずはありません」

 妻は強い口調で否定する。

「なぜそう言い切れる」

「あなたは神に愛されし人だからです」

「仮にそうだとしても、王権を手にしたら罪を犯してアメンの神官のように堕落、腐敗するであろう。神はそのような人間を愛するはずがない」

「アメンの神官たちは初めから神を信じていません。アメン神すら欲望のために利用しているのです。そのような神官たちから民を守るのがあなたの使命だと思います。そのような愛溢れたあなたをどうして神が見捨てましょうか」

 王妃は彼を切れ長の澄んだ瞳で真っ直ぐ見つめた。

「わたしはそんなに強くない」

 王子は目をそらす。

「神はあなたを愛しあなたは神を愛していらっしゃる。それがとても嬉しくもあり寂しくもありました」

 ネフェルティティは深いため息をつく。

 王妃は彼の頑固な性格を知っているだけに、王子に何を言っても聞かないだろうと思うのだ。

「君は愛に溢れ知的で美しい。ぼくは君を愛している」

「わたしもあなたを愛しています」

「だがぼくは君より神を愛している。だから……」

 言いかけてアメンヘテプは押し黙る。

「わたしはあなた様が望むのならとめません」

「では君はどうするのだ」

「わたしも神に仕える巫女となりましょう」

「ネフェルティティ、君は……」

「わたしは、あなたが即位して、お兄様のように命を奪われるのを見たくはありません」「兄上を暗殺した犯人はいまだ捕まってない」

 アメンヘテプは悔しそうに拳を握り締める。

「暗殺者がいつ牙を剥くか、それが恐ろしいのです」

「わたしは暗殺者など恐ろしくない。恐ろしいのは怒りや憎しみに囚われ、自分の心を見失うことだ。憎悪や執着は神の愛を遠ざける暗黒への入り口のようなものなのだ」

 アメンヘテプが握り締めていた右手をゆっくり開く。

 手のひらの砂が風にのってさっと消える。

(執着を手放せば砂のように自由になれるのだ……)

「あなたが決めたことならわたしも従います」

 ネフェルティティは夫の気持ちを変えられないと悟った。いや、むしろ即位しないことを心の底で望んでいたのかもしれない。即位を断れば暗殺者の魔の手から逃れられるのだから。

「ティイ様にはどうお伝えになるつもりですか?」

「母上には、スメンクカーラーを後継者に勧めるつもりだ」

 スメンクカーラーは暗殺された兄トトメスと妻メルティとの間に生まれた男の子だ。

「あの子はまだ九歳ですよ」

 王子の思いがけない提案に戸惑いつつ、彼女は甥っ子のスメンクカーラーと長女メリトアテンがまるで本当の兄妹のように仲好なのを思い浮かべる。

「成人するまで母上に政治を任せればよい」

 アメンヘテプは即位すべきか否かを悩み続けていた。本来なら兄が王位に即くはずだった。そう思うと甥のスメンクカーラーが即位することで兄も安らかに眠れるのではないかと思うのだ。

「ですが……」

 ネフェルティティは太后ティイが王子の申し出を簡単に承諾するとは思えない。なにしろ太后様は高齢だしスメンクカーラーもメリトアテンもまだ子供なのだ。しかも、亡きアメンヘテプ三世王立ち会いの下、アメンヘテプは聖牛アピスの儀式を終えている。テーベでの戴冠式はそれを追認する形式的なものに過ぎない。

「スメンクカーラーはとても聡明で優しく、我が娘メリトアテンとも仲がいい。二人が結婚すればエジプトの未来も神の愛に守られるであろう」

 アメンヘテプはそう言って立ち上がると、青空を見上げ生き返ったように目を輝かせた。


 翌日、マルカタの王宮に太后のかん高い声が響き渡った。

「なんですって!」

 ティイは我が耳を疑った。

 目の前の息子の口から信じられない言葉が発せられたのだ。

「母上、わたしは即位しません。神官となり神にお仕えします。それがわたしの使命なのです」

「王になれるのはあなたしかいないのですよ」

 ティイは唇をわなわなと震わせ、黄金の玉座から立ち上がった。

「いいえ、スメンクカーラーがいます」

 そう言ってにっこり微笑むとネフェルティティとラモーゼが二人の子供をティイの前に連れてきた。

「あなたたちまで」

 ティイは体全身から力が抜け、よろめくように椅子に腰掛けた。

 スメンクカーラーとメリトアテンは、大好きな祖母に会えて嬉しくてたまらないというように瞳を輝かせ、ティイのところに走ってきて抱きつく。

「まあ、まあ、あなたたち」

 さすがの太后ティイも可愛い孫たちの顔を見ると、口元を綻ばせ幸福感で胸が満たされる。

「いいでしょう」

 ティイは孫達の頭を優しく撫でながらアメンヘテプとネフェルティティを涼やかな目で見つめた。

「母上、誠にございますか」

 アメンヘテプはティイの意外な返事に驚きを隠しきれない。

「ただし、この子達が成人するまで王としての責務を果たしてくれませんか」

 そう言ってティイは二人の孫を優しく抱きしめた。

「母上」

 そう言いかけた時、

「お母様、ありがとうございます」

 ネフェルティティが王子の前に進み出て太后ティイの足下に跪き頭を下げた。

「あなたはどうですか」

 ティイは黙って俯く息子に問いかける。

「……わかりました」

 アメンヘテプは躊躇いながらも母の申し出を受け入れた。


 紀元前一三五二年、アメンヘテプ四世もそれまでのファラオの慣例に従い、テーベのアメン神によって即位し王位を継承した。アメンヘテプ四世の名は書記の手でスカラベに記され、内外に知らされた。


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