Phase_02:STURM
《FERRIS:コモンレイヤー》
翌朝。朝と言っても、それを告げるのは時間の表示と、時間経過で色温度が調整される室内LEDだけだ。起床時刻に点灯されたライトによって覚醒が促される。アランは身を起こすと、洗面道具などを手に部屋を出た。
五つ並ぶ部屋の奥から二つ目がアランの部屋だ。奥はヴィクターが使用しているとのことだったので、昨夜食事を共にしていたアラン、ハンスとラビ、ケルビンは残りの四部屋を分け合った。Aブースにエヴァが入っている事は知っていたが、気遣ったわけではなく、何となく四人固まって行動していたが故にBブースを選んで全員入ったのだ。
狭い通路に出ると、最奥に取り付けられた窓から宇宙が見える。窓から外を見た時だけ、ここが宇宙と認識する。そんな生活にも慣れつつあった。廊下で棒立ちのまま外を眺めていると、隣の扉が開く音がして、アランは振り返る。するとちょうど、アランと同じように洗面道具を抱えたラビが部屋から出てきたところだった。
「おはよう、ラビ」
「おはよー」
明らかに寝起きとわかる間延びした声に、アランは苦笑する。
「何そんなところで突っ立ってんの?」
「いや、別に。というか、今日は早いんだな?」
「だって今日はもうエヴォリスに戻る日だから、起床時間は厳守しろってケルビンがうるさいしさあ」
予定では13時にはエヴォリスに戻る行程に入り、向こうで再び船の確認作業を行いつつ夜を待ち、就寝時間に合わせて二度目の冬眠だ。ラビは順応期間で食事の推奨時間を守らないことが度々あったようだったので、ケルビンが口酸っぱく言ったのだろう。
「あと、ここってラボ無いからやる事も無いし」
そう言って通路を進み、ブースの扉に向かうラビにアランは着いていく。細い回廊を進み、洗面室などもあるシャワーブースへと向かう。着いてからそれぞれ別の洗面台につくと、使用した形跡があったので、もう起き出している人間がいるらしい。大体想像はつくと脳内に眼鏡の青年を思い浮かべながら、アランは顔を洗って意識を覚醒させる。それを終わらせると二人は一旦部屋へと引き返し、再び連れ立って今度はカフェテリアへと向かった。
昨夜も使用したカフェテリアは、エヴォリスよりもだいぶコンパクトだ。簡易キッチンとカウンター席のみで、滞在想定人数である十名分のスツールが整然と並べられている。食料もエヴォリスとは違い、完全に保存性が重視されたものしか備蓄されていないので、エナジーブロックやパックが個人に配給されるシステムだ。ドリンクサーバーのディスペンサーも限られている。フードウォーマーで温めなどの準備を済ませてカウンターに座ったアランは、トレーに乗せた朝食を開封しながら、ふと隣を見やった。そこには、お湯で形を成していくフリーズドライ加工された野菜キッシュを凝視するラビの姿があった。まるで実験の一環かのような光景に、笑いが漏れる。
「僕、こういう加水食品ってあんまり好きじゃないんだけど……」
「……そういえば、昨日はレトルトとかナッツ系だったな。あれは大丈夫なのか」
「うん。──こんなふうにさ、形が戻っていく姿を見るのは結構好きなんだけど、過程を見てると食欲が湧かなくなるというかなんというか」
「味は別に普通だぞ?」
「そんなこと分かってるよ。摂取カロリーと栄養バランス的にも、これは食べないとまた小言言われそうだから今闘ってる」
ラビはそう言って、フォークでキッシュを突つく。これもまた、まるでキッシュの反応を観察する実験のようだ。飲み物もフリーズドライ加工で粉末状にされたものじゃなかったか?とアランは苦笑しつつ、ラビのドリンクを確認しようとして目を瞠る。紅茶が入れられているのは、随分と年季の入った陶器のカップだったのだ。自分が利用してるマグネット加工のカップと違い、明らかに私物である。白磁のカップに、少し角の生えたような持ち手が付いている。その持ち手の側面と口縁に蔦のような規則的な模様のラインと、カップの両側面に要点的に描かれた花模様。全てがコバルトブルーの細い筆で描かれたような、繊細な品だった。所々に小さな欠けや、模様の擦れが窺える。アランは思わず、それを指差した。
「それ、君の私物かい?」
ちまちまとキッシュを口に運んでいたラビが、アランの指し示す方を見てから、表情を一転させた。フォークを置いてカップを手に取り、中身を一気に飲み干す。そして空になったカップをアランに見せ付けるように差し出してみせたのだ。その表情は、どこか得意気だ。思わず若干身を引いたアランは、戸惑いつつも彼の返答を待った。
「これ、なかなか見ないでしょ? なんと、推定二百年前か、それよりもっと古い時代の生き残りなんだ。こんな落としたらすぐ割れちゃう代物が、だよ。すごくない?」
まるで宝物を見せるように忙しなく角度を変え、細部をアランに見せながらラビは語る。
「乱世を生き残ったただのカップがさ、宇宙空間を旅するなんてちょっと面白いなと思って持ってきたんだ」
「へえ、君にもそういう一面があるんだな」
どこか懐かしむようにそう言ったアランに、ラビは手を止めた。カップを置いて、まるで観察するようにアランを見上げる。
「そういう一面って?」
「──物を可愛がるというか、物に縋るというか、なんて言ったらいいのかな。……なんだか昔、弟が夜怖くて眠れないとか、何か不安を感じてる時握りしめてたロボットの古いオモチャのことを思い出した」
「はあ? 僕が子供みたいって一瞬でも思ったりしたわけ?」
肩を竦めたラビの得意げだった表情が、どこか冷めた笑みに変わる。慌ててアランはかぶりを振った。
「いや、君にも……その、理にかなってないけど精神的に必要なものがあったりするのかと思っただけなんだ」
「精神的に必要かどうかじゃないよ。このカップの辿る運命を僕が面白い方向に操作してるってだけ」
「……じゃあ、そのカップは君に感謝してるかもしれないな。数百年生き延びた褒美として、宇宙旅行をプレゼントしてくれたようなものだし。──そう考えると、ちょっと可愛がる気持ちも分かる気がするよ」
アランは置かれたカップの取手をつまみ、持ち上げてラビに視線を送った。見てもいいかという無言の問いかけに、ラビは「どうぞ」と一言返す。どこか呆れたように眉尻を下げ、眉間には若干の皺を寄せていた。
「ねえ、アランって物に対しても気持ちを汲もうとするんだね。何にでも世話焼きっていうかさ」
カップをアランの好きにさせながら、ラビはまるで分解作業のような食事を再開した。とりあえずは何とかキッシュを片付けようと、もそもそと口を動かしながら、口内の嫌悪感を誤魔化すように会話を挟む。アランは殊更丁寧に手に取ったカップを観察しながら、ちらりとラビを一瞥した。
「でも、さっきの発言で何となく分析出来た。アランの世話焼きは、過去の郷愁から来るものである可能性が高いかもね」
アランの手が止まる。まるで盗み見るようにラビに視線を送るが、キッシュと奮闘中のラビの目はプレートに向けられていた。
「僕が古いカップを持ってきてるのを見て、弟の過去の姿をすぐに記憶から引っ張り出せる。つまりアランにとって過去は身近で、過去が身近ということは、郷愁の念が強い証拠」
アランは、ラビの言葉が続けられるごとに表情をわずかに硬くしていく。いつになく冷静な声音で淡々と述べられる彼の講釈が、アランをそうさせていた。
「アランはエヴァとも付き合い長いんでしょ?ということは、エヴァとの過去もすぐに思い出して、何かと繋げては記憶から引っ張り出す作業をするよ。アランが何かを思い出してそれを呟く時、アランはその世界に戻れる。アランのその呟きを聞いた人は、アランの内心の望みを知ることになる」
珍しくすっかり黙ってしまったアランに、ラビは静かな瞳を向けた。キッシュは無事彼の胃の中に片付けられ、あとはドライフルーツやチョコレートなど、彼の口直しの好物が残されているのみだ。アランはもはやカップではない何かを見ていた。
「当たり前な話なんだけど、僕はハンスでもエヴァでもない。あの二人だって昔とは違うだろ? 君ら幼馴染みの過去に全く興味が無いわけじゃないけど、個人的な郷愁は自分の心の中で留めておく方が賢明だと思うよ」
「──君の観察眼、地味に侮れないな」
ぼそりとアランは呟いて力なく笑った。その横顔を、ラビはじっと見つめる。程なくしてアランは吹っ切れたようにラビに振り返った。
「思考パターンの参考になったかな?」
少し戯けたように笑いかけるアランに、ラビは再び肩を竦めた。そして、今度はにやりと笑いながらアランの手の中にあるカップを指さした。
「なったよ。だからプレゼントあげるよ。──そのカップ、底の部分見てみて」
言うだけ言ってチョコレートをつまみ始めるラビを横目に、アランは言われた通り、カップを回して底を見た。すると、薄い黒で書かれた文字の羅列が目に入る。ひどく擦れていてほとんど文字が残っていなかったが、唯一はっきりと読み取ることができる部分を見て、アランはさらにそれを注視した。
「──これ、君の名前かい?」
それは、”RABI”という文字だった。その文字すらも所々が途切れているので、相当の年代物だと伺える。だがしっかりと読み取れる範囲でその四文字のアルファベットだけが整然と残されていたのだ。アランが思わずラビを見やれば、彼は不敵な笑みを浮かべてアランの視線を受け止めた。
「正確には”ソイツ”の名前だよ。僕はハイラントに来た時、その名前を拝借したんだ」
「え、そうなのか?」
「……つまり、まあ──君の領分で話すなら、それだけ”可愛がってる”のかもね」
そう言って悪戯っぽく笑うと、ラビはアランに向かって掌を差し出した。アランが取手をラビに向けて差し出すと、彼はそれをそっと握って受け取る。そして徐に、いつも上着代わりに着ているようなものとなっている、サイズの合わない白衣のポケットにするりと入れてしまった。
「そ、そこに入れて持ち歩いてるのか?」
「うん。じゃ、お先ぃ」
ラビは席を立ち、トレーやプレートを食洗機に入れ、ゴミをトラッシュボックスに放り込む。両手が空くとカップを取り出してお湯を潜らせ、またポケットに入れると、颯爽とカフェテリアを出て行った。カップ鑑賞に時間を費やしていたアランのプレートには、食べかけのキッシュが残されている。それをフォークで小突きながら、アランは小さく笑って食事を再開した。
《FERRIS:コントロールレイヤー》
起床時刻よりも少し前に起き出していたハンスは、食事や出発時の準備を全て終えた後、観測スペースでぼんやりと外を眺めていた。窓の外にぼんやりと浮かぶ火星を眺めながら、イヤホンから流れる音楽に意識を任せる。聴いているのは、先日ラビから押しつけられたヒーリングミュージックのような音楽だ。ラビはその時、周波数がどうこうと講釈を垂れていたが、ハンスは馬耳東風の姿勢であったため内容は覚えていない。しかし、宇宙に出てからずっと続いている内省の時間のような静かな生活に見合っているような気がして、最近ではこれを選んで聴いているようだ。
ハンスはテーブルに頬杖をついて宇宙の景色を眺めながら、脳内ではつい先程の光景を思い出していた。彼は朝食の際、カフェテリアから出てきたヴィクターとすれ違っていた。短く挨拶を交わしたすれ違いざまにハンスが、去っていくヴィクターの背中を視線で追うと、その背中はどこか小さく彼の目に映った。記憶の中での姿と明らかな違いがあったのだ。カフェテリアに入ってみれば、食事をした形跡が無かった。フードウォーマーやドリンクのディスペンサーを使用する際に違和感を覚え、食洗機やトラッシュボックスを確認する。それらから導き出されるヴィクターの行動を脳内で整理するように、ハンスの動きは度々停止した。ひとまずは自分の食事を準備しながら、彼はエヴォリスで、ケルビンに呼び止められたときのことを反芻していた。
「──確かにちょっと変、な気はするか……」
そんな呟きが室内に虚しく反響する。ハンスは切り替えるように大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出し、急ぐように食事を始めたのだ。
「おはようございます」
突然背後から声がして、ハンスは肩を跳ねさせた。素早い反射速度で頬杖を外して振り返ると、そこにはタブレットを抱えて涼しい顔をしたケルビンの姿があった。緊張を解すように息を吐いて「おう」と返事をすると、ケルビンはわずかに片眉を上げた。
「随分と驚かせてしまったようですね」
「──別に」
イヤホンを外しながら、かけていた椅子に寄りかかる。ケルビンは立ったまま、その動作を目で追っていた。
「随分とお早いご様子ですが、今朝は何時に起床されました?」
「……五時半」
「起床予定時刻より一時間半も早くお目覚めでしたか。体調は問題ありませんか?」
「いや、無ぇけど……。ていうか、たまに早く起きちまったぐらいでそんなに体調って変わるもんなのか?」
眉根を寄せるハンスに対し、ケルビンは眼鏡のブリッジを上げて冷静に応えるのみだった。
「人の体は、決してその人の都合通りには出来ていません。──ハイラントでしたら私もそこまで口出しはしませんが、ここは医療設備も限られた宇宙という閉鎖空間です。環境も睡眠も、精密な管理の上に成立させる必要があります」
淡々と述べられる正論に返す言葉もなく、ほんの一瞬だけ辟易したようにわずかに目を伏せたハンスは、無言のうちに姿勢を直す。そして何かを思い出したように視線を上げた。察したケルビンが、彼の向かいに腰をかける。衣服の乱れひとつ無く背筋を伸ばして座るケルビンは、朝の調光を施されたLEDの下、どこか機械じみた雰囲気を醸し出していた。ハンスは何度か口籠るような素振りを見せた後、ハンスは俯きながら口を開く。
「──隊長の、ことなんだが」
「ハンス」
ようやく絞り出されたハンスの声は、ケルビンの静かな呼びかけに遮られた。思わずハンスはわずかに身を引いて視線を上げる。ケルビンは表情を乗せない顔で、さらに続けた。
「そのお話でしたら、エヴォリスに戻った後にお伺いします」
「え、なんで?」
「──また、カウンセリングの時にでも」
ハンスが再び何か言い出そうとした瞬間、ケルビンの目がわずかに細まる。彼らしくない一方的な物言いは、ハンスにとっては初見だった。打ち切られたにも関わらず、ハンスは首肯して黙り込むほかない。ケルビンはそれを了承と受け取ったようで、さっさと話を切り上げた。
「これより先は、冬眠と中継ステーション滞在の繰り返しが続きます。我々の感覚だけで言えば、数日後にはいよいよOSX-9に到着ということになりますから、くれぐれもご自身の体調には気を配ってくださいね。実際は数十日間、セルの中で身体機能を極限まで制限しているわけなのですから」
ケルビンはそれだけ言うと、すっと立ち上がり、タブレット片手にその場を去った。あまりにもあっさりとした彼の態度にしばらく呆けていたハンスは、しかしすぐに戸惑ったように顔を顰めた。
「……俺の意見を”参考にさせて頂く”とか言ってなかったか、あいつ?」
ハンスの呟きは、再びその空間に虚しく反響しただけだった。
《FERRIS:ドッキングハブ・エアロック》
クルーたちの一時的なフェリス滞在は予定通りに終了した。彼らは来た時同様持ち込んだものをパーソナルケースに戻してストレージへと先に送り、身支度を整えてドッキングハブに集合する。フェムとレムの連携により再び人員用連絡通路が繋がれ、無重力のチューブ内を漂いながら母船へと戻っていくクルーたちに、フェムから「またお会いしましょう」と声がかかる。誰かが振り返れば、ステーションのライトがひとつ、静かに瞬いた──まるで見送りの合図であるかのように。彼らは復路でもステーションを経由する。ここは地球から出発し最初に訪れる場所であり、地球に戻る前の最後に立ち寄る場所なのだ。エヴォリスのエアロックまで渡り、ドアを潜る。すると静かに連絡通路は切り離された。
「おかえりなさい、みなさん」
すっかり慣れ親しんだレムの声がドッキングハブに響く。するとラビはまるで緊張を解すかのように大きく伸びをした。
「はあ、たった一晩なのに君を懐かしく感じるなんてね、レム」
「寂しかったですか、ラビ?」
「久しぶりとか懐かしいっていうのは、必ずしも”寂しい”という感情とつながってるわけじゃないんだよレム」
「──認識を修正します」
「はは、それはちょっと難しいんじゃ無いか、ラビ?」
戻って早々の彼らのやり取りに、他クルーたちも”戻ってきた”という感覚を覚える。アランは相変わらずラビとレムの会話を楽しんでおり、ハンスやエヴァは各々”またやってる”という絶妙な呆れ顔を見せていた。
「とりあえず、木星ルートへ軌道変更だ」
ヴィクターがそう告げて通路を進んでいく。ひとまずはコックピットへ向かうようだ。アランとハンスがそれに続く。
「じゃあ私は設備チェックを」
「私も同行します」
エヴァはそう言って中央コアへと向かう。ケルビンも設備関連の確認をしたかったようで、エヴァに倣った。残されたラビは、両手を腰に当てて逡巡し、すぐに端末を操作した。
『はいラビ、どうしました?』
端末からレムの声が発せられる。ラビは端末のインターフェースを呼び出し、レムとのプライベート通信を行ったのだ。
「レム、もうラボって普通に行けるんだよね?例のやつ、僕がフェリスにいる間もやってくれた?」
『はい、ラビ。ランダムに小型のスペースデブリや微小隕石をいくつか採取済みです。ホワイトルームに移送しています』
「サンキュー! それじゃあ後は、次の冬眠までラボに籠らせてもらおうかな」
ラビは通信を切ると、移動ポッドのステーションへ向かうため、バーを伝って進み出した。
《エヴォリス中央コア:コックピット》
コックピットに着くと、アランとハンスはすぐにそれぞれシートに座ってハーネスを固定し、通信チェックやルート変更などの作業に入った。同行していたヴィクターは、背後からその光景を黙って見守っていた。後部シートの背もたれに取り付けられたハンドレールを掴んで姿勢を保ち、兄弟越しにウィンドウから宇宙を眺める。やがて母船の姿勢制御が行われ、星空しか映っていなかった景色に、横切る形で火星が映り込む。錆びた赤がほんの一瞬、コックピットの壁面を染めた。アランやハンスの声かけやレムの応答が初日よりも和やかになっているのを感じながら、ヴィクターはどこか遠い目をしていた。
操作の傍、ハンスはそんな呆けたようなヴィクターのようすをちらりと垣間見た。思わず視線を置きそうになり、頭を振るように元に戻す。そうこうしている間に、アランによってウィンドウ上にルートラインが表示された。
「さあ、次は木星ステーションのストルムか」
一通りの操作を終えたアランが、手首を回しながら誰に語るでもなく吐息まじりにそう言った。ハンスがその横顔に視線を向ければ、彼もまた、微笑みながら遠くに視線を向けていた。どうやら意識がストルムに向かっているようだ。
「長いようで、短い旅だな」
「冬眠の影響により、実際の経過時間と体感時間が異なるためですね」
アランの呟きに、レムが応える。アランとハンスの間で、レムのボディ頭部に付属するレンズがきょろきょろと移動していた。
「お前ってほんと、お喋りなAIだったんだな。フェリスに行って実感したわ」
ハンスが呆れたようにレムに語りかける。するとレムは再びレンズを動かしてハンスを見上げた。レンズ付近のLEDライトが不規則に点滅する。
「もともとお喋り機能は搭載されていませんでしたが、あなた方によく話しかけられますからね。学習しました」
「へえ、賢いんだな」
アランがレムに笑いかけながら自然と手を伸ばし、半透明の頭部をわずかに撫でた。それは、移動したレムのレンズがその手に触れそうになり、「おっとごめん」とすぐに離される。LEDライトをイエローに点滅させながら、レムはそのまま沈黙した。
「さて、じゃあメディカルチェック前に一息つこうか」
アランがそう言って、ハーネスを外して宙に浮く。ハンスも返事をしてそれに倣う。振り向くと、未だ瞬きを忘れたかのようにウィンドウの先を眺めるヴィクターの姿があった。
「ヴィクター隊長はどうしますか?」
アランの声をきっかけに、まるで再起動したかのようにヴィクターの瞳が動く。ハンドレールを握る手にわずかに力が込められた。
「──隊長?」
返事の遅いヴィクターに、ハンスが訝しみながら呼びかける。ヴィクターは一瞬ハンスと視線を合わせたが、すぐに目を伏せるように逸らされた。
「俺は部屋に戻る」
それだけ言い残し、ヴィクターはさっさと二人に背を向けてコックピットを出て行く。その背に言葉よりも先に漂ったのは、どこか重たい気配だった。ハンスが思わずアランを見上げると、アランは苦笑して肩を竦める。そのまま何も言わずにコックピットのドアへと移動した。
「じゃあレム、後は頼んだよ」
ドア付近で振り返り、アランがレムに語りかける。追いついたハンスもレムに振り返ると、二人の視線を受けたレムはLEDをグリーンに点滅させながら、レンズを小刻みに動かした。
「お任せください」
アランが軽く手を振ってコックピットを退出し、ハンスがそれに続く。鈍い星空が映ったウィンドウを背景に、レムのボディは閉じられるドアを静かに見つめていた。
《エヴォリストーラスモジュール:ヴォルトストレージ》
エヴァは外殻の最終チェックを終え、点検用エアロックでスーツを脱いだ。ここから先、エヴォリスは小惑星帯に突入する。ストルムまでは基本的に最短ルートを取りながら途中の小惑星を迂回するが、1メートル以下のものや微小隕石などはエヴォリスの機体で処理される。外殻に装備されたEPS(Echelon Protection System)シールド装置は、そのための統合防御システムだ。電磁バリアで精密機器を正常に稼働させ、プラズマバリアで衝突物の運動エネルギーを加熱して霧散させ、軽微な外殻破損はナノコートにより自己修復をする。この三層防御もまた、エシュロンが開発したハイラントの叡智である。エヴァはレムから”EPSに問題なし”と報告を受けたが、ならば尚更、と外殻点検に向かっていた。ドローン装置を駆使して映像で機体を確認し、外殻に付着した金属片や放射性微粒子をも取り除く。特に接続部などは念入りに点検を行った。真空世界でヘルメットごしに見える、窓という隔たり無い景色に浮かぶ赤褐色の星。ぼんやりと影に佇むような火星と、暗い宇宙に花咲くフェリスに目を奪われながらも、作業は淡々と行われた。
「お疲れ様です。ありがとうございます、エヴァ」
スーツロッカーのブースから出たエヴァの頭上から、レムから労いの言葉が降りかかる。エヴァは外殻点検を行う前にエンジンコアの点検も行っていたので、フェリスから出てここまで休みなしであった。とはいえ、エンジンコアではケルビンの同行があったため、そう時間は掛からなかった。そのため、外殻点検に時間をかけられたようだ。
「ええ。これで安心して眠れるわ」
ツナギの上半身を腰に巻いたいつものスタイルで、ハンドレールを伝いながらドッキングハブへと向かい、移動ポッドでようやく重力地帯であるトーラス部へと移動する。目的地はヴォルトストレージだ。傍には、外殻点検で使用した船外活動ユニットを携えている。エヴァは交換作業をするつもりのようだ。
ヴォルトストレージのモジュール入り口が開き、中へ入るとそこには珍しい先客がいた。ストレージの奥でこちらに背を向けてとあるラックを物色している、金髪の癖毛、サイズの大きな白衣──
「──ラビ?」
エヴァの声に、面白いほど肩が跳ねさせたラビの手から端末が滑り落ちる。ラバーケースで守られたそれは、わずかな音とともに床に着地した。慌ててそれを拾い、ラビが振り返る。ポッド用のドアと対面する位置に設置された予備ユニットのラックから声をかけていたエヴァは、作業の手を止めずに視線を送った。
「珍しいわね。そこで何してるの?」
「いやぁ、はは……実はこれをね」
彼にしては珍しく観念したように片手に翳したのは、高出力のバッテリーパックだった。様々な接続端子がある、片手でやっと持ち上げることの出来る大きさの物だ。主に電動ツールやモジュールの大型装置の予備バッテリー、もしくは外装補修や緊急工作など、修理用ツールの電源として持ち出されるようなものだ。専用ラックに差し込まれ、磁気ロックにて固定されている。恒温設定、湿度調整された庫内からこれをひとつ、ラビは抜き出していたようだ。
「バッテリーパックなんて何に使うの?ラボにそんなものが必要な箇所ってあったかしら?」
「ラボには必要無いんだけど、僕には必要というか」
「要領を得ないわね。ハッキリ言って」
「実は、分析用の特別装置を工作しようと思ってるんだ。僕、レムに今特別任務をお願いしてるんだけどさ」
「……」
スムーズに酸素ボンベの交換を済ませながら話を聞いていたエヴァは、ラビの主張を聞くとわずかに目蓋を伏せた。軽く吐いた溜息のおまけ付きである。ラビはお構いなしにバッテリーパックを抱えてエヴァに駆け寄った。
「ねえこれ、ひとつ借りても問題ないよね? 一応、用途と在庫は調べたから僕的には大丈夫と踏んでるんだけど」
「──…まあ、用途が限られているし数もあるから、直ちに問題は生じないだろうけど。あなた、ちゃんと管理出来るのよね?」
「もちろんもちろん! 僕が今までどんな装置や部品を分解してきたか、聞かせてあげようか?ある程度の知識はここに入ってるし、ちゃんと使い終わったら元に戻すよ」
ラビはそう言って、空いている方の手で自分の頭を指差して得意げに笑う。高説を賜る気の無いエヴァは、「そう」と諦めたように了承するのみだ。
「没頭するのはいいけど、もう直ぐまたセルに入る時間よ。食事や自室……それこそラボの整理を済ませておかないと、またケルビンの小言を食らうわよ」
「大丈夫、そこらへんはぬかりないって。……ねえエヴァってさ、僕のこととんでもなく子供だと思ってる節あるだろ」
得意げに宣言すると、今度はどこか不敵に顔をにやつかせながら囁く。エヴァは一度目を伏せると、小さく首を横に振った。
「とんでもなく子供とは思わないけど、ある程度は子供だと思ってるわ」
淡々と静かにそう言ったエヴァに、ラビは目を瞠った。そして、眉根を寄せて注意深く下から覗き込むようにしてエヴァを見上げる。発言には納得いかないが、反応には興味が湧いたといった、複雑な表情だ。
「まあ、いいよ。言っとくけどOSX-9に着いて調査分析フェーズに入ったら、君は舌を巻くことになるだろうからね!」
ラビはそう言い捨てて、スキップでもしそうな軽い足取りで移動ポッドの中へと消えて行った。ラビのちぐはぐにも見える言動に、エヴァの動作は少しの間だけ呆気にとられたように停止していたが、すぐに持ち直した。交換の終わったユニットを持ち上げると、再び中央コアに戻るためにもう一台のポッドを呼ぶ。
ポッドの窓から見える宇宙空間に目をやりながら、エヴァはたった今まで不思議と自然に会話していたことを反芻し、戸惑うように顎を摩った。
《エヴォリストーラスモジュール:コモンラウンジ》
コックピットでルート固定作業をした後、トレーニングルームにて体を動かしていたハンスは、インターバルで一服するためにカフェテリアへと訪れた。すると、ちょうどキッチンスペースのウォーターサーバー前で水を飲むヴィクターと出会す。今朝、フェリスのカフェテリアで遭遇したのとほぼ同じ状況になったハンスは、面食らって目を瞠る。ハンスの入室に気付いたヴィクターは、カウンターに寄りかかり背を丸めたような姿勢でカップを口に当て、見上げるような視線を向けた。ハンスの挙動が反射的に一瞬だけ停止する。剥がすように足を動かしながらキッチンへ向かい、ラックからカップを取り出してお湯を注ぐ。ハーブティのティーバッグをケースから取り出してお湯に放り込むと、ヴィクターと少し距離を置いた位置で、同じようにカウンターに寄り掛かかる。
「隊長、もし時間あるなら対人訓練でもどうです? ──久しぶりに」
カップの中身を眺めながらそう言い、言葉尻でヴィクターに伺うような視線を流す。ヴィクターはハンスを一瞥し、カップを弄ぶように何度か傾けた。中身はどうやら空のようだ。
「必要無いだろう。アークウェイ作戦は惑星探査だ」
ヴィクターの声は、心なしか力なくハンスの耳に入り込んだ。久しぶりに声を発したような掠れ具合だ。ハンスは思考を巡らせるように瞳を天井に向ける。ティーバッグを入れただけのカップのお湯には、茶葉から滲み出た色素が半端に滲んでいた。
「でも、生命体の可能性とか──いざって時の戦闘員は俺らだけですし」
横目でヴィクターの様子を窺いつつ、ハンスは食い下がる。彼の持つカップから、薄い湯気がちらちらと揺れた。
「なら最も重要なのは射撃訓練だな。ここでは出来ん」
取りつく島もない応えにハンスは内心で盛大な溜息を吐いた。それが漏れないように、口元を引き結ぶ。この元々寡黙な上官に対して、ハンスが翳せる手札はほとんど無かった。手持ち無沙汰にティーバッグの紐を摘んで軽く揺すれば、茶葉から滲み出た色が今さらに広がる。隣にいて沈黙が続くのは、ハイラントにいる時からの常だった。
「それに下手に訓練で怪我を負えば任務に支障が出るからな」
ヴィクターはそう言ってカウンターに預けていた腰を持ち上げた。そして一拍ののちに、不意に口を開く。
「──ヴォルトに保管されている武器は?」
カウンターに片手をつき、身体をハンスに向けたヴィクターが突然問を投げかける。カップを持ち上げていたハンスは動きを止め、反射的に応えた。
「TALON、NEEDLE、EPMグレ。基本戦闘はTALONとグレの携行で対応、レムの承認制。NEEDLEはレムの許可制。他は非戦闘員用の護身武器でレムの承認制。イレギュラーでエヴァのツールガン」
「扱いは分かるな?」
「訓練で見せた通りです」
「──なら、問題ない」
首肯して目を伏せ、ヴィクターはドアに向かって足を進めた。ハンスの前を通り過ぎる際に、軽く手を振ってそのままドアを通り過ぎようとして、足を止める。そして、溢すように呟いた。
「それらが使われないことを祈る」
ドアが閉じられ、取り残されたハンスは細く長い息を吐いた。そして天を仰いで目を閉じる。そうすることで瞼の裏に、過去の記憶が蘇る。
ハンスがヴィクター率いる第三部隊に所属した日、ヴィクターは今よりもまだ活力に満ちていた。それは初めて部隊の仲間に混じった時の、ハンスの心境がそう見せていたのか、ハンス自身には定かではない。幼少期に助けられた時は巨人のように見えた背中は、ハンスが成長したことによりその時ほどの強烈さは無かった。しかしそれでもヴィクターは強く、その強さにハンスは憧憬の念を抱いていた。彼が彼らしくあるように自分も自分らしくありたいと思い、自我の形成を模索することも多々あった。ヴィクターの戦闘経験を買われていた第三部隊は掃討作戦に出ることが多く、先頭に立って道を切り開く後ろ姿を何度も見てきた。成長するにつれ、後方支援から前線配置に変わると、密かにそれを誇りに思った。いつしかヴィクターを目指すようになったハンスだったが、ヴィクターはそんな彼に「自分を知り、自分の出来ることをしろ」と言い聞かせた。他人の真似事などしても取るに足らない能力にしかならん、と。そのような教えがあって、今のハンスがここに存在する。
アークウェイ作戦の話を持ちかけられてからだったろうか、ハンスはヴィクターの様子が変わったように感じていた。よく言えば”落ち着いた様子”だが、マイナス要素として言えば”空になった”という印象だった。特に宇宙に来てからは違和感を禁じえない。しかし、今まで背中しか見てこなかったハンスは、その背を目で追う事しか出来ずにいる。そうして時折存在を確認するように声をかけて引き留めることで、相手にも気づかせるという──無意識の手法だった。
ハンスは、この感情も対処法も明文化出来ずにいる。ただ漠然と時が経過するのみとなっている状況に足踏みしつつ、様子を伺うことに徹しているのだ。視線を落としてハーブティを見れば、水面にケルビンの姿が思い浮かぶ。──あの時、フェリスで自分がケルビンに何をどう説明しようとしたのか、今のハンスには判然としない。ケルビンは「カウンセリングの時に」と口止めしてきたが、ハンスは何を言うべきか、今さらになって考えあぐねいていた。
《エヴォリストーラスモジュール:メディカルルーム》
クルーたちは各々身の回りの準備とメディカルチェックを終え、再びステイシスルームに集合した。各自前回と同じセルの前に待機し、ケルビンの操作を見守る。一度セルに入った事と、最初の冬眠を乗り越えた経験値が彼らを前回よりもリラックスさせていた。
「──では、お入りください」
静かにケルビンが振り向くと、それぞれセルに入って行く。真っ先に寝台に寝転がったのはラビで、手を伸ばして振る姿が縁から覗いている。そんな彼に笑みをこぼしながらアランが、呆れた表情を見せたエヴァが、義務的な動作でヴィクターが横たわって姿が見えなくなる。ハンスは寝台に腰掛け、身を横たえる前にタブレット片手に通路に立つケルビンを見上げた。
「……何か?」
「……いや」
眼鏡のブリッジを持ち上げてハンスに向き直ったケルビンだったが、ハンスはわずかに眉根を寄せたのみで、特に何も言わずセルに横たわった。ケルビはしばし視線を据え置いたが追求はせず、各セルの確認作業に入る。あらかたの作業を終えて通路の中心に立つと、初回時と同様に声をかけた。
「スムーズなご対応ありがとうございます。これより再びの冬眠に入ります。メディカルチェックの異常なし、バイタルも良好。──それではみなさん、次の地点でお会いしましょう」
「じゃあね、おやすみ!」
「はは、おやすみ」
セルの蓋が閉じられるなか、ラビの弾んだ声にアランが応える。そして静かに全ての蓋が閉じ、小さな機械音とともに内部の空気調整が行われる間、ケルビンは淡々とセルのモニター画面を確認し、行程をチェックしていく。流れ作業であったはずの彼の動きは、ヴィクターのセルで止まる。ここ数十分間で行われたメディカルチェックにて、彼は規定値から外れそうな数値を出していた。ケルビンはタブレットでヴィクターの項目を確認する。
「脳波に軽度の過覚醒パターン、若干の反応遅延、コルチゾールの上昇傾向…薬剤投与でカバー可能な範囲だが──」
ヴィクターのセルモニターに表示される行程は、滞りなく進んでいる。バイタルに異常もなく、無事、ヴィクターが眠りに落ちたことをセルが通知する。他のクルーのセルでも通知音が続く。あっという間に、覚醒者はケルビン一人となった。
「この冬眠が、彼の休息に繋がれば僥倖なのですがね……」
そう呟きながら自分のセルに向かい、タブレットを傍のホルダーに収めると、自らもセルに入る。内部操作を済ませてから眼鏡を外し、蓋が閉じられる前に瞼を閉じる。また意識の端にレムの声を聴きながら、深い眠りへと落ちて行った。
天地のない真っ白な空間に、ヴィクターは立ち尽くしていた。果てのない、足元すら危うくなりそうな広大な空間には、煙のような靄のような、細く黒い影が陽炎のように揺れている。それは、見渡す限りに点在していた。まるで人混みのような影に囲まれているヴィクターの周囲だけには、ぽっかりとスペースが保たれている。ぼんやりと見渡していると、ふと、左手に重みがある事に気づく。持ち上げてみれば、それはハイラントの掃討作戦で散々使用してきたライフル──MRS-07 NARAKだ。マット加工された薄いカーキの銃は、ここのところほとんどセンチネル部隊としてハイラントの警備業務に勤めていたヴィクターでも手に馴染みすぎた武器だ。呼吸するようにフォアグリップを握りストックを肩に当てた時、周囲の影が、一斉にヴィクターに目を向けるような気配がした。正確には目は無い。姿も判然としない存在から大量の視線を瞬時に受けたヴィクターは、グリップを握る手に力を込めた。額や顳顬にどっと汗が滲み、後ずさるように片足を下げる。影は何もしてこない。だが、その全てがじっとヴィクターを見やっている。いい知れない圧に、とうとうヴィクターの呼吸は乱れ、警戒するように銃身を左右に振る。すると背後にとてつもない気配を感じ、振り向きざまにとうとう引き金を引いた。
そこに居たのも物言わぬ影だった。しかし、銃弾の手応えはあった。着弾した箇所から血のような真っ赤な液体を吹き出しながら静かに霧散したのだ。白い床に鮮血が飛び散っている。すると他の影たちが、静かにヴィクターに迫った。距離を詰めてきただけのそれらに、ヴィクターは息を飲んで一心不乱に発砲する。影を殲滅して道を開き、逃げ場を探すように走る。途方もない時間をそうして戦い尽くせば、いつの間にか視界に残る影はほんの数体となっていた。
動きを止めている最後の影には目があった。ただ影に空いた小さな穴でしかなかったが、それは記憶に鮮明な、既知の目だ。真っ赤に染められた白い床の上を漂いながら、じっとヴィクターを見つめている。
ヴィクターは銃を取り落として力なく膝をついた。そのまま蹲り、額を手で覆う。ぬめりを感じて掌を見れば、泥のように赤いそれで染まり切っていた。茫然と、顔を上げる。数体の影は至近距離でヴィクターを取り囲み、彼をただ見下ろしている。ヴィクターは観念したように目を伏せると、まるで首を差し出すように項垂れた。血に染まった床の上で、自分がどうなっても仕方が無いと諦めながら、どこか多幸感のようなものを覚えていた。
目覚めの鈍い振動が、緩やかにヴィクターの意識を引き上げた。あの白い空間にも似た白い天井が、白濁した視界の中で鮮明になっていく。記憶とは全く違う体勢にあることでここがあの場所ではない事を悟ると、心臓が一際大きく鼓動し、肺が冷えた空気を吸い込む生理現象をまざまざと認識する。痛む喉を無視しながら、ヴィクターは虚空を見つめ、ただ呼吸を続けた。
「おはようございます、ヴィクター隊長。意識は明瞭ですか?」
横からケルビンの静かな声がする。応答はひどく掠れた短いものとなり、首肯でそれを補う。
「バイタルに異常はありません。──ゆっくり立ち上がってください」
ヴィクターは身体を動かす事でそれに応えた。セルの縁に腰掛け、足を床に付ける。リノリウムの白い床が、それを静かに受け止めた。
周囲を見渡せば、今回は最後の目覚めだったようだ。他のセルの蓋は閉じられ、クルーのほとんどはステイシスルームを退出していた。とはいえ通常タイミングだったようで、何も指摘されることは無かった。自分と覚醒タイミングがほとんど同じだったのか、ラビだけが室内に残り、通路で大きく身体を伸ばしている。
「おはよう隊長、いい目覚めだねぇ」
ラビはそう言うと、大欠伸をしながら退出して行った。傍でモニターを操作しながら最終処理を行なっていたケルビンがその背中に向かって声をかける。
「ラビ、メディカルチェックが先ですよ」
「わかってるってば」
開かれたままのドアの向こうからうんざりしたような返答があり、ケルビンが軽く溜息を吐く。そして、ヴィクターに向き直った。
「……立ち上がれますか?」
「──ああ」
周囲の観察に気を取られていたヴィクターは、緩慢な動作で立ち上がった。しっかりと地に足をつけた彼を確認すると、ケルビンは踵を返して出口へと向かう。この後の行程は分かっている。メディカルスペースにてメディカルチェックをした後、ルート確認とブリーフィングだ。ヴィクターはしっかりとした足取りでケルビンに続いた。前回の不調が嘘のように不思議と頭はすっきりとして、意識も明瞭だった。
「おはようございます、隊長」
カウンセリングスペースでケルビンの端末を操作し、現在位置を確認していたアランやハンス、傍でそれを見守っていたエヴァがステイシスルームを退出したヴィクターを振り返る。アランの挨拶に短く応えながら、ヴィクターはしっかりとした足取りでメディカルスペースへと向かった。
《エヴォリス中央コア:コックピット》
冬眠中は最短ルートからさほど外れず、前回同様予定通りの航行となっていた。アランとハンスは航行ログを確認しながら冬眠前の予定ルートと照らし合わせ、EPSシールド装置とセンサーの機能確認を行う。現在はエヴァが船外作業中のため、船を緩やかな速度で進行させている。エヴァの作業が完了すれば、マニュアル走行でとうとう木星中継ステーション『ストルム』に到着となる。今回コックピットには、珍しい客が来ていた。普段はラボに篭っているラビである。
「すごい、あれが木星……ほんとにとんでもない大きさだ」
ラビがウィンドウを食い入るように見つめながら身を乗り出している。彼は、エヴォリスに迫る勢いでウィンドウの外を埋め尽くしている。太陽光を反射した赤銅色の球体の半分が、ぼうっと暗闇に浮かんでいる。その縞模様はうねり、まるで生き物のようにそこにいるのだ。
「今はストルムから大体千キロのところだから、木星からは六十六万キロは離れてる。それでこれなんだから……圧巻だな」
操縦しながらしみじみとアランが応える。ラビは操縦席の背もたれにあるハンドレールを器用に掴みながら、片手を顎に当てた。
「地球から月までが約三十八万キロで、ストルムは木星から六十五万キロ……頭で分かってても、実物見ると頭バグりそう」
ラビはそう言いつつも、その声は弾んでいた。服操縦席のハンスも漏れなくウィンドウに映る光景に目を奪われていた。
「あんなに大きいのにガスの塊なのかぁ……なんかさ、どうしてガスが球体になるんだろうとか、なんで太陽の周りを回るんだろうとか、物理学的に説明が可能でそこで一旦納得できたとしても、実物見ると全部チャラになっちゃうこの感覚、とんでもなく虚しくならない?」
「うーん、……つまり?」
突拍子もないラビの問いかけに、アランが咀嚼するのを放棄してラビに問い返す。ラビは仕方無いとばかりに溜息を吐くと、顎を摘んで目を閉じた。
「だからさ……何ていうか、例えば僕が木星に向かって、”君はこういう理由でそこにいて、こういう構造で出来てるんだよ。凄くない? ”って語りかけたとして、木星が”だから? ”って返してきたとするでしょ。──その時点でもう、こっちは”……あ、うん。そうだね”ってしか言えなくなる、みたいな」
「すごい、星と会話してる──しかも一人二役」
「──それってお前が普段俺らにやってる事と変わらない気がするんだが、お前虚しいとか思うわけ?」
「それは思わないよ。だって全然返ってくる反応が違うから」
何とも言えない例え話にアランは感心し、ハンスが思わず突っ込む。ラビは太々しい笑みをハンスに返しながら平然と反論してのける。ハンスは苦虫を噛み潰したような顔をして、「あっそう」とそれ以上の問答を諦めた。
「君の”例のカップ”にもこの景色を共有してやったらどうだ? 君と違って案外わくわくするかもしれない」
アランがラビに悪戯な視線を向ける。一瞬呆けたような表情を見せたラビだったが、すぐに同じような表情をアランに返した。
「僕のカップはわくわくしないね。きっと、”今までひっそり安全に暮らせてたのに、こんなところに連れてきて壊れたらどうするんだ”ってアタフタしてるよ。僕と違ってね」
ラビはそう言い残すと、突然踵を返してコックピットを出て行った。話の内容が分からないハンスは、訝しんで出て行ったドアに振り返る。アランはその横で、声を上げて笑っていた。
「何の話?」
「──さあね」
《エヴォリストーラスモジュール:コモンラウンジ・カフェテリア》
ソファに腰掛けながら、エヴァはコーヒーの入ったカップを両手に瞳を閉じ、先刻の船外作業での光景を反芻させていた。ナノコートによる微小隕石の修復痕や、その他EPSシールドの動作などを確認しながら、思わず木星に目を奪われた。それは美しさというより、恐怖に近いものだった。音もなく表皮を蠢かせ、こちらを首尾よく襲えるよう、じっと観察されているような、視線のようなものすら感じたほどだ。距離が保たれ、スーツやシールド装置で守られているとはいえ、一際気を張った船外作業となった。思わずスーツや装備を脱ぎ捨てるように片付け、このカフェテリアのソファに身を沈めてしまったほどだ。
しかしエヴァは今、別の緊張感の中にいた。向かいのソファにケルビンが座しているからだ。彼はエヴァがカフェテリアに入室した後程なくして現れた。キッチンから湯を入れたカップを持ち出して、ご丁寧に向かいに座っていいかお伺いを立てた後、エヴァの了承を得て着席した。呆然と動作を見守っていたエヴァがケルビンのカップを眺めながら白湯でも飲むのかと思っていると、彼は白衣のポケットからポーチのようなものを取り出して、中からティーバッグを取り出した。その色が特徴的だったので、何の儀式が始まるのかとエヴァが視線を外せずにいると、ケルビンが顔を上げた。
「何か?」
「──いえ、別に」
エヴァはそう返したが、その視線は固定されたままだった。ケルビンが気にせずティーバッグを湯に沈めると、瞬く間に鮮やかで半透明なグリーンの液体へと姿を変えた。
「それ、私物?」
思わずエヴァが問いかける。ケルビンが再び顔を上げ、一瞬だけ意外そうに目を瞠る。しかし眼鏡のブリッジを上げるといつもの涼しい顔に戻っていた。
「ええ、そうです。緑茶といいまして、極地で好まれていたもののようです。これはRESセクターの片隅で試験的に栽培された茶葉で作られたものでしてね。カテキン、チアニン、ビタミンCが含まれ、健康にも良い。あとは若干痺れるような苦味が覚醒を促すのに適しています。総合的に考えたところ、私にとって最適なものだと判断したので、私物として持ち込みました」
淡々と述べられるケルビンの説明を半分聞き流しながら、エヴァは半ば呆れたように眉根を寄せた。
「つまり、好みだから持ってきたってことで合ってる?」
「好み……と言うのでしょうか? あなたが必要以上にカフェインを摂取するのと少し理由が異なるようにも思いますが」
「……」
悪気なく発せられる言葉に口の端をひくつかせながら、エヴァはブラックコーヒーを多めに一口飲んだ。ケルビンはエヴァの様子は気にせずに、揺蕩う湯気に鼻を寄せ、香りを愉しむかのように嗅いでから口に含む。姿勢正しく統制されたような動作は、エヴァからしてみれば儀式にしか見えなかった。気を取り直して咳払いを一つすると、エヴァはケルビンに問いかけた。
「で、私に何か用事だったんじゃないの?」
「──ええ、すみません。EPSシステムの基準値変更点などありましたらお伺いしようかと思っていたんです。先ほど船外作業をなさっていましたよね?」
ケルビンがカップを片手に仕事の話をする姿が、エヴァの目には物珍しく映った。そんな彼と鏡写しのような状態のエヴァは、コーヒーを一口飲んでからそれに応える。
「ナノコートの修復状態を確認したけど、小惑星センサーの設定はそのままで良さそう。もともと小惑星帯といってもゴロゴロ密集してるわけじゃないし、エヴォリスの性能からしてみれば、過剰に心を砕く問題では無いのかもしれないわ」
「そうですか」
「これぐらいのことは、もうレムに報告済みよ。わざわざこんなところに聞きに来なくても」
エヴァが怪訝そうな目をケルビンに向ける。ケルビンはいつも抱えているタブレットをテーブルに伏せたまま、静かに茶を飲んでいる。彼にレムのようなLEDランプが付属していれば、今は”イエロー”に点滅しているのだろうか、と、エヴァはレムの頭部を思い浮かべた。レムが恐らく思考中に沈黙するときのそれだ。
「──もしかしてなんだけど、もともとここで休憩する予定だった?」
「……それもありますが、ちょうどあなたとも遭遇したことですし、副次的産物としてこの機会を利用させていただいたまでです」
「なるほどね」
エヴァは肩を竦めて背もたれに寄りかかると、窓の外を眺めた。フェリス周辺では角度によって見えなかった火星と違い、木星はどこにいてもその姿を覗かせている。カフェテリアの窓枠に区切られる形で暗い宇宙を遮る巨大な惑星を、こうして休憩しながら眺めていること、またそれをケルビンと対面した状態で行っていることの異質感に苛まれ、エヴァは脳を焼かれた気分に陥っていた。
「……凄まじい星ですね」
彼女と同様に窓の外を眺めていたケルビンのふとした呟きに、エヴァは心の中で同意した。
どこかちぐはぐな静寂の空間が、見守るように彼らを包んでいた。
《STURMコントロールレイヤー:制御スペース》
クルーたちは覚醒後各々時間を過ごし、ストルム到着前にはコックピットに集まった。間にカウンセリングが挟まれていたため、合間に一人ずつ席を外していたものの、アランとハンスは到着までの数時間をコックピットで操縦に専念して過ごしていた。
コックピットのウィンドウには、巨大な木星を背景に無骨なステーションが映っている。どっしりとした円筒形の、まるで何かの部品のような塊に、不揃いのパネルが点在している。基本的にはマットな外殻だが、所々は素材違いの光沢で、つぎはぎのような印象が無骨さに拍車をかけている。木星の強力な磁場に耐えうる構造と、その木星からエネルギーを抽出するための様々な機能が詰められたこのステーションは、フェリスとは全く違った堅牢なオーラを纏っていた。
「なんか、でかい鉱石がくっついた隕石みたいだね」
「ストルムはほとんど木星の恩恵を受けたステーションです。磁場によるプラズマエネルギーと、探知用衛星を介した雷エネルギーの抽出、赤外線放出を吸収する熱電変換する機能が備わっています」
ラビの発言に、補足するようにケルビンの説明が続く。この強力な木星に寄り添うため、ストルムは木星の周囲を公転する形で距離を保っている。静止軌道に位置していたフェリスと違い、ドッキングには技術を要する。アランとハンスはクルーたちが会話するなか、慎重にストルムから送られる誘導信号を受け取り、船体を調整していた。
「ストルムのAIはどんなの?」
シートからレムに向かってラビが語りかければ、レムのレンズがラビにくるりと向けられる。そしてわずかにLEDを点滅させた。
「ストルムの統合制御AIはLYX<リクス>といいます」
「へえ……まあ、AIだから別に、名前が違うっていうぐらいか」
レムの短い返答に、ラビはどこかつまらなそうに呟く。レムはLEDを黄色く点滅させるだけで、それ以上は何も言わなかった。そんな中、アランたち兄弟によってドッキング作業が大詰めとなる。至近距離から見るストルムはフェリスよりも大きく、圧迫感があった。
ストルムから伸ばされる人員用連絡通路がエヴォリスに接続する。無事作業が完了すると、アランは安心したように長い息を吐いた。六人はドッキングベイへと向かい、エアロックの先へと進む。連絡通路自体はフェリスと変わりなかった。再び無重力の細いチューブを、ストルムに向かって進んでいく。一度経験することで物珍しかったこの感覚も、もはや”作業”となっていた。
ストルムのエアロックに入ると空気圧がわずかに変化し、重力装置が作動され、ゆっくりと足が床につく。そして、青白いライトに照らされたグレーの空間に、合成音声が響いた。
『ストルムへようこそ。お待ちしておりました』
女性とも男性とも判別つかない、子供のようでもある合成音声だった。無骨で堅牢な外観のストルムには意外性のある声だ。
『このステーション内部は、フェリスとほぼ同じ構造をしています。フェリスの知識でご利用いただいて構いません』
AIに従ってドッキングベイを出れば、確かに内部構造は酷似していた。エレベーターで繋いだ三層構造。エレベーターに乗り込み、中層のコモンレイヤーを通り過ぎて上層のコントロールレイヤーへ移動する。すると、フェリスよりも広いが、同じスペース配置がされた空間が彼らを迎えた。ひとまず制御スペースへと向かい、AIと対面する。フェムと同じように制御スペースに接続された、レムと全く形を同じくするボディが彼らを迎えた。
「はじめまして。わたしは統合制御AI『LYX─Layered Yottascale Exchange』<リクス>です」
ほとんどボディを静止させた状態で、リクスは挨拶をした。アランが「ああ、よろしく」と応えたものの、リクスからの反応は特段無い。その様子を見ていたラビは、唇を尖らせながら周囲を見渡した。
「わお、観測窓が大きいと、さらに圧巻だ」
隣にある観測スペースの窓を見て、ラビが呟く。壁の仕切りしかない円形のコントロールレイヤーは、中央に寄れば全体が見渡すことができる。彼は未だ、木星のスケールの感動から逃れられずにいるようだった。
「──各自、自由行動だ。ケルビン、エヴォリスの補給とセルの再調整にかかる時間は?」
輪の一歩外で腕を組んで成り行きを見ていたヴィクターが、明瞭な声で指示を出す。問いかけられたケルビンは一瞬の間を置いて様子を伺うようにヴィクターに視点を置いたが、すぐに口を開いた。
「フェリスと変わりありません。明日の朝には全ての行程が完了する予定です」
「では明日、また同時刻に出発でいいな?」
「ええ、問題ありません」
ヴィクターを垣間見るように注視しながら、ケルビンが眼鏡のブリッジを上げる。するとラビが、「じゃ、解散ね!」と観測スペースへ駆けていく。輪が乱れたことで、一同は解散の雰囲気となった。
《STURMコントロールレイヤー:観測スペース》
一目散に大窓に駆け寄ったラビの後には、ハンスとケルビンが続いていた。窓枠に手をついて外に見える巨大な惑星を見上げながら、ラビはまるで物理法則の実態を目に焼き付けて確認するように瞳を動かしている。その両脇で、ハンスとケルビンも同じように外を眺めた。
「──火星もでかかったけど、あっちはまだ”惑星”って感じがあったよな」
ハンスがそんなことを呟く。するとラビがハンスを振り返り、悪戯に口の片端を持ち上げた。
「岩石惑星だけが惑星じゃないよ、ハンス」
「そんなことは知ってるんだよ」
揚げ足を取られたハンスは顔をしかめる。すると、フっと鼻で笑うような音がして、二人は同時にそちらを向いた。──ケルビンだ。彼はタブレットを片手に抱えて窓の外を見ていたが、ふと視線を感じたのか、程なくして彼らと視線を合わせた。
「どうしました?」
「ははぁ、流石のケルビンも、木星を目の前にして瓦解し始めたと見たね」
にやにやとケルビンを見上げたラビに不可解そうな目を向け、少しだけ考えるような素振りをみせたケルビンだったが、それ以上の言及はしないようだった。その瞳は再び窓の外に戻され、ハンスとラビもそれに倣う。ゆるやかに蠢く木星の縞模様が暗い宇宙でぼんやりと浮かび上がる。それが嵐であるならば轟音が耳に届いてもいいはずなのに、宇宙ではそれも無い。
「でもあんな風に全体的に縞模様だっていうのが、ガス惑星の証拠だよね」
「北極や南極には複数の嵐も存在するようです。こうして見ているだけであれば静かに浮かぶ星ですが、実際には苛烈な環境だということですね。頭の中で音を補填してしまいそうです」
「ねえ、ケルビンにしては珍しくない?ケルビンの所感って感想っぽく無かったのに、なんか普通の感想みたいなこと言ってる」
「……言っていることの意味が分かりません」
そう言って眼鏡のブリッジを上げるケルビンを見て、ラビはさらに笑みを深めて詰め寄った。
「せっかくだからソレ外して裸眼でも見てみたら? 視界がぼやけて訳わかんなかったとしても、記念になると思うよ」
そう言ってケルビンの眼鏡を指差す。何となしに興味を持ったハンスも、彼の方に目を向ける。するとケルビンは表情を一切変えず、躊躇無く眼鏡を外したので、意表をつかれた二人は一様に瞠目した。ケルビンは紫の瞳で真っ直ぐに木星を捉えた後、静かに二人に視線を移す。眼鏡を外したことで険が和らいだためか、ハンスは歳上であるはずの彼が同年であるかのような錯覚を覚えた。
「私の眼鏡は視力補正用のものではなく、外見的な補正用として使用している物です。付け外しをしたところで視力は変わりませんが……確かに、こういったものは肉眼で見るのも一理ありますね」
蔓を片手で摘みながら淡々と語るケルビンに、一時の間が訪れる。そしてそれは、ラビの弾かれたような笑いによって破壊された。仕切りの少ないコントロールレイヤーに彼の笑い声が木霊する。
「ちょっと待って、なんか分かんないけど、今のすっごい笑える」
笑いと息継ぎの合間に、ラビが言葉を絞り出す。隣のハンスは笑いはしないものの、呆気にとられたような表情で涼しい顔をしたケルビンを眺めていた。
「何故これが笑いにつながるのか理解しかねます。あなたの感性を疑いますよ」
わずかに眉根を寄せ、文句を言いつつ眼鏡をかけ直すケルビンに、ラビの笑い声が被さった。あまりの声に、制御スペースに居たらしいアランも何だ何だと姿を現わし、観測スペースは一気に和やかな空気に包まれた。
《STURMコモンレイヤー:ストレージブース》
コントロールレイヤーが賑わう中、ストレージブースでは再び、沈黙のパーソナルケース受け取り作業が行われていた。フェリスでいち早くエレベーターに乗り込んだあの時と同様、ヴィクターとエヴァは淡々と体を動かしていた。前回と異なるのは、ヴィクターの動きが確固たるものであるように見えることだ。エヴァは、どこかぎこちなさが抜けたような傍の男を怪訝に思いながらも、それを振り払うようにケースを持ち上げるために屈み、両手に力を込める。すると、同じように自分のケースの前で屈んでいたヴィクターが、ふと顔を上げてエヴァに視線を送る。エヴァが横目でそれを捉えたと同時に、ヴィクターから声がかかった。
「──いつだったか、お前に防護壁のシステムリペアを依頼したことがあったな」
エヴァは面食らいながらもヴィクターに戸惑う視線を投げる。ヴィクターはパーソナルケースを撫でるように摩り、その手に瞳を移した。
「……ええ、覚えています」
「あの時、お前は確か……”今がずっと続いてもいい”と、そう言っていたか」
エヴァは、フェリスのストレージルームで思い出していた過去を反芻した。ヴィクターとエヴァのハイラントでの接点といえば、あの防護壁での一件ぐらいである。記憶の共有は容易かった。
「……それは、”今”も変わらないか?」
どういう意図の問いかけなのか汲み取ることが出来ず、エヴァは口を引き結んだ。あの防護壁の修理の時もそうだった。変わったのか変わらないのか、それだけ答えればいいだけのはずが、余計な推測が邪魔をする。
エヴァは、状況だけ鑑みれば心情を変えたように見える。空虚な日常を繰り返す毎日から外れ、宇宙へと飛び立っているからだ。しかしその切掛にアランが深く関わっているのもまた事実だ。自由意志とはどこか外れた心情のまま、地球から遠く離れ、非現実にも思える現実を目の当たりにしている。望むと望まざるとに拘らず、結果的にこのような現状に至っているのだ。これを変わったと捉えるのかと問われれば、エヴァは”そうではない”と思っていた。
「──正直なところ、変わっていないと思います。データ上でしか知り得なかった宇宙に来て……実際の天体を目の当たりにして、素直に感動はしますが──これっきりでもいい」
エヴァは静かにそう言うと、ヴィクターの反応を伺うように、彼の横顔をじっと見つめた。手遊びのように指でケースを撫でながら、ヴィクターの瞳はそれを追っている。そんな彼に、エヴァは続けた。
「この作戦を無事完遂させて地球へ戻れたとして、偉業だと言われても、私は元の日常に戻るだけです」
考え事をするように手元を見つめていたヴィクターが視線を上げてエヴァを捉えた。心まで見透かしそうなアンバーの瞳が、エヴァを落ち着かなくさせる。
「そうか」
ヴィクターが応えると、動揺を隠すようにしてエヴァが作業に戻る。パーソナルケースを抱えて立ち上がると、「じゃあ」と一言残し、そそくさと踵を返す。しかし、その背を厳格な声が引き留めた。
「エヴァリン」
名を呼ばれ、反射的に振り返る。屈んだまましっかりと自分を見据えてくるヴィクターの瞳を目の当りにし、エヴァは急激に目が乾くような感覚を覚えた。
「お前のその抑揚のない刹那的な感情は、過去が原因か?」
瞬きを忘れたようにヴィクターを見下ろすエヴァの喉に、力が篭る。
「……一度、全て奪われたことが原因か?」
畳み掛けるような問いかけに、エヴァの目がわずかに潤む。それは瞼を動かすことを忘れてしまったかのように目を開き続けているからかもしれなかった。そんなエヴァの黙り込んだ様子を受け、ヴィクターはふっと笑った。
「もしそうなら、お前の過去は解消される。──お前はこの任務を終えた後、本当の意味で解放されるだろう」
エヴァは、ヴィクターの言葉を否定できなかった。そして、確信的なことを言って自分を”彼の中のエヴァ”に繋げようとする行為に、喉奥から重たい何かがせり上がってくるのを感じだ。その場に留まることが耐えられなくなり、エヴァは弾かれたように踵を返すと、足早にストレージルームから出て行った。
残されたヴィクターの口元は、確かに緩く微笑んでいた。しかしその目はどこか虚で、頬には力が入っていない。歪んだ静穏を携えたまま自らのパーソナルケースを持ち上げると、しっかりとした足取りでストレージルームのドアを潜る。その背に落ちた影は、彼を亡霊のように演出していた。
《エヴォリストーラスモジュール:メディカルルーム》
そしてまた、”夜”と呼ばれる時間が訪れる。トーラスの回転は停止され、室内照明も落とされたメディカルルームの片隅で、時刻表示だけが現在を告げている。無音に近い静けさの中、ケルビンのデスクに固定されたデスクトップモニターが自動的に明るさを取り戻す。表示されたのは──二回目の冬眠を終えた後に記録されたカウンセリングログ。透明なガラス壁の向こうでは、誰もいないステイシスセルの微調整音が間断なく響いている。
ウィンドウに並んだ文字の羅列が、ゆっくりとスクロールを始める。無人の空間で、彼らの”深層”が、ただ記録として再生されていく──。
◉対象者:アラン
「お疲れ様です、アラン。どうぞ」
「ありがとう。いや、今回も順調そうで良かったな」
「ええ、本当に」
「それで、ええと…今回は何を聞かれるのかな?」
「まず、二度目の冬眠に関してお伺いします。あなたは初回時も特段問題なく睡眠・覚醒のプロセスをクリアしていましたし、体調面も問題ありませんでした。…カウンセリング自体に緊張を覚えていて、”不安が無いことが不安”とまで仰っていたほどでしたが、心境の変化はありましたか?」
「はは、──セルに入る事とか、眠ることに関しては、もう日常とそう変わらないな。慣れたと言っていいかもしれない。信頼できる仕組みの中にいるって実感する…心境の変化といえば、このくらいかな?」
「冬眠前後だけでなく、通常の生活においても問題はありませんか?」
「ああ。もう第二の家みたいな感覚かも。リラックス出来ていると思う」
「──それは、言い過ぎなのでは?」
「ははは、そうかもな。でも本当に、それくらい安心出来てるというか。…あの木星を見ても、映像を見てる感覚だったからな」
「そうですか。木星を目の当たりにしても過度な緊張や興奮もなく正常な操縦が出来ている……操縦士として素晴らしいポテンシャルですね」
「ありがとう」
「では……そうですね、次に対人関係についてお伺いしましょうか。心境の変化につながるようなことはありましたか? 例えば、”新たな一面を見た”というようなクルーがいたとか」
「──それで言うなら君やラビかな。俺は、ハンスやエヴァ、ヴィクター隊長とは長いから、この作戦で初対面だった君らの印象はここ最近で変わったかも」
「例えば、どんな変化があったと思いますか?」
「意外と普通に話せる……って気づいた、的な感じかな? 気を悪くしたらすまない」
「構いませんよ。……あなたは気負わずとも、全員と普通に会話していたように見えましたが」
「それを試してて、だんだん確信を持ったというか」
「──成程。初期段階から会話を試みて、どのような傾向があるか観察し、自分らしく在れるかどうか見極めていた、といったところでしょうか?」
「そんな仰々しいものじゃないよ。このカウンセリングだって、俺は前回こんなに話さなかった気がするんだが……今は何というか平気なんだ。まあ、緊張を解すために会話を試みて、緊張が解れたから違うものが見えてきたってことかな」
「つまり、あなたには他人を見極める余裕がある。──完全に宇宙に適応していると言っても過言ではないかもしれません。……正直、もう少し時間がかかると予想していました。ですが、私の予想はいい意味で外れたようです」
「そうなのかな」
「ええ。操縦士であるあなたがこのような状態なのは非常に幸運なことです。では、カウンセリングは以上でよいでしょう。お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ。引き続きよろしくな」
◉対象者:ラビ
「お疲れ、ケルビン」
「おや、今回は時間通りなのですね。心境の変化でもありましたか?」
「いや、君が”他者との調和のための基本的な配慮”って言うから今回は従ってみただけ」
「──そうですか。ご配慮痛み入ります」
「で、今度は何を話すの?」
「例によって形式的なことです。二度目の冬眠に関して、前回お伺いしたことを再度お尋ねします。──覚えていますか?」
「ああ、体調と精神面の不安について、ね。無い無い! 前に感じてた重力酔いみたいなやつも今は全然だから、前より状態は良好だよ」
「それは結構なことですね。あなたが再三言っていた”挑戦”についてはいかがでしたか?」
「明晰夢?あれは無理だった。寝たと思ったら起きてたから」
「それは残念でしたね。ですが、あなたは今回滞りなく覚醒プロセスを通過していました。その後、過度に眠気を感じることなどはありましたか?」
「いや、今回は割とスッキリ目覚めたよ。体が重いとかも無し! ──ああでもそれって木星を見ちゃったからかもなぁ。とりあえず窓から外見たくて、メディカルチェック後すぐ回廊に出て、そこから見たんだ。思わずポッド呼んでコックピットまで大急ぎで行ったからね、怠いとか思う暇が無かった」
「あなたは相変わらずですね。”興味”が先行して、不調を忘れることが出来る」
「でもメディカルチェックは通ったじゃん。つまり不調は無いってことだよ」
「まあ、そういう事にしておきましょう。──あなたは一貫して誰に対しても”相変わらず”ですし、現状は順調ということですね」
「そんな事はないけどなぁ。同じ船で生活して、感覚的にはまだ数日だけど、いろいろ発見はあったよ。そりゃ君らにとってみたら僕の外面は変わらないと思うけど、僕の内面がずっと同じとは限らないよ」
「ほう……つまり、何かトラブルに繋がる発見があったと?」
「違う違う、順調は順調。意外とみんな結構反応をくれるから、僕の脳内観察データは日々ページを重ねてるってこと。例えば僕を厄介な人間と思ってるハンスは、実は律儀に僕の相手をする人間だったし、取りつく島もないと思ってたエヴァもちゃんと僕を年下扱いする。アランにはああ見えて郷愁癖持ちの年寄りみたいな一面があって、意外だと思う事が沢山あったよ。でも一番面白いのはケルビンだけどね。なんか、誰とも違うっていうか、…ああ、レムにちょっと似てるかな」
「──それは、何とお返しするのが妥当なのかご教授願いたいものですが」
「あはは、だからまあ、心境の変化はありつつもそれはそれで面白いからさ、この先も楽しみなんだよね」
「あなたの、四方八方に向けられた知識欲を満たす何かは其処彼処に存在しているから問題ない、という解釈でよろしいですか?」
「うん、堅苦しく言えばそう」
「わかりました。では、次回の冬眠に関しても大丈夫そうですね」
「大丈夫大丈夫。”挑戦”のことを考えたら、寝るのも楽しみ」
「過度な緊張を覚えないのは良い事ですが、冬眠を楽しみに感じるのは看過出来ませんね。あくまで生理現象のプロセスとして臨んでいただく方が健全です。──特にあなたのような方にとっては」
「分かってるって。──じゃあ、次は何について話す?」
「……いえ、もう充分です。お楽しみだった木星観察に戻っていただいて結構ですよ」
「あ、もう終わり? まだ聞き足りないって事無い? 僕がケルビンのどこを面白いと思ったか、とかさ」
「それについては私の知るところではありませんし、知ったところで、どうなることでもありません」
「あはは、それはまあ、確かに」
「では、また次の冬眠後に」
「はいはい、またね、ケルビン」
◉対象者:エヴァリン
「お疲れ様です、エヴァ。休憩は出来ましたか?」
「まあね」
「それは良かった。先ほどは、お邪魔してしまったかと思っていたものですから」
「別にいいわよ。座れて、コーヒーが飲めていればそれで休憩になる」
「……お邪魔でなかったなら安心です。──では早速、二、三質問させていただきますね」
「ええ、どうぞ」
「まず、二度目の冬眠についてです。前回とは異なり、今回のあなたの覚醒プロセスはスムーズでした。以前、もともと寝つきが悪いというお話をされていましたが、その後、何かしらの対策を講じたのですか?」
「いえ、特別な事はしてないわ。普通の睡眠に関して言えば、フェリスでは何の問題も無かった。それで、今回は大丈夫だったのかも」
「そうなんですね。フェリスは新しい環境でしたし、個室もエヴォリスより閉塞感がある広さでしたが、そちらの方が適していた、ということでしょうか?」
「たった一晩の事だからはっきりとは言えないけど、もしかしたら、何もなかったのが良かったのかも」
「視覚的材料が無い方が睡眠に集中出来る、といったところでしょうか?」
「そうなのかもね。でもこれ以降、予定ではエヴォリスの私室で眠る機会が無いから、検証は出来ないわ」
「そうですね。現状、セルやステーションの私室など、ある種の閉鎖空間が睡眠状況を改善している傾向があるなら、問題は無いでしょう。そのような環境でのストレスは感じませんか?」
「ええ、大丈夫」
「では次です。現地点での船外作業はいかがでしたか?」
「──感想を言えばいいの?」
「そうですね。木星をご覧になったでしょう?火星付近の船外作業とは全く異なる状況だったかと思いますが」
「作業については問題ないわ。……けど、正直流石に目は奪われた。あれだけ大きなものが浮いてるんだもの」
「感動されました?」
「そうね、ある意味では」
「ある意味というと、少し含みを感じますが」
「……単純な感動もあった。でも同時に、”見られている感覚”があった。堂々と覗かれてる、という感じ」
「──それは、とても緊張感が漂う感覚ですね」
「でも、はじめのうちだけだった。後は作業に専念出来たから」
「成程。確かに船内から見るだけでも圧巻ですからね。外から見たあなたにとっては一際圧倒されるものだったのでしょう」
「……そんなところね」
「では次に…対人面で何か気になることなどはありましたか?」
「ああそれ?前と同じよ。個人スペースは確保できる環境だから、問題無い」
「プライバシーの確保はされていると思いますが、私たちは船内で一定の時間を共に過ごしています。──そうした中で、あなたの中に何か心境の変化があったかどうかをお伺いしたいです」
「それなら……会話を重ねる上で、言葉が出やすくなったとかその程度の心境の変化ならあったわ」
「共に環境を構築しているという感覚がありますか?」
「ええ。否応なしに」
「──承知しました。ではこれで、質問は以上になります。──ところでエヴァ」
「……なに?」
「あなたの嗜好品はコーヒーのようですが、日にどれくらいの量を摂取しているのですか?」
「え…休憩のタイミングでしか飲んでないけど、二、三回分くらいなんじゃない?」
「そうですか。一度の休憩で一杯に収めて頂ければ問題ありませんが、睡眠傾向に改善が見られているようですので、改めて過度な摂取は控えるようにしてください。胃に負担も掛かりますので、時には固形ミルクを入れるなり、対策を講じることをお勧めします」
「……ええ、分かったわ」
「では、このあたりで良いでしょう。カウンセリングは終了です」
「はあ……お疲れ様。じゃあ戻るわよ」
「ええ、お疲れ様でした」
◉対象者:ヴィクター
「お疲れ様です、ヴィクター隊長。──どうぞ」
「ああ」
「その後、体調はいかがですか?」
「……良好だな」
「確かに……前回とは異なり、今回の覚醒はスムーズでした。数値上ではなく、プロセスの話です」
「まあな」
「非常に良い傾向ですが、これは、何か心境の変化によるものでしょうか?」
「慣れたという事なんじゃないか? 一度経験したことだからな」
「……そうであればいいのですが」
「──どうした?」
「──はっきりと申し上げます。あなたには睡眠障害の兆候がありました。冬眠時の薬剤投与で補える程度のブレでしかなく、規定範囲内の数値ではありました。ですが、数値の傾向が、睡眠障害を物語っていた。若干ではありますが、隈という身体的兆候も見られます」
「……」
「あなたは休憩時、ほとんどの時間を”自室で過ごす”と仰っていた。事実、そうしていたのでしょう。それでいてこの状態ということは、満足に休まれていないのではないですか?」
「……だとしたら?」
「例えば睡眠障害の原因が初回の冬眠なのであれば、今回の覚醒プロセスの円滑さは”慣れ”だったということで済まされるでしょう。ですが、別の”何か”であるなら、それは心理的な原因である可能性が高い」
「つまり、俺が何か抱えてるんじゃないかって?」
「ええ。──確かめる必要性はありますが、あなたは重大任務の遂行を一任されることに対して、過度な緊張やストレスを感じるような方ではないとお見受けします。ですから、他に何か懸念する要因があるのではないかと」
「──確かに、お前の観察眼は正しいんだろう。だが、俺がお前に心境を話す必要性は無い。なぜなら俺が抱えてるものは、解決したからだ」
「……”解決した”? ──それは、すでにご自身で解決されたと?」
「ああ。”心境の変化”があったからな」
「誰かの意見か……もしくは印象の変化が、あなたを変えたのですか?」
「いや、違う。俺がお前たちに思っている事は出発前から変わらない。ただ、俺の中で自分自身の心境が変わっただけだ」
「内省することで心境の変化があり、それが体調の改善につながった、ということですか」
「そうだ。次の冬眠も問題無いだろう」
「──承知しました。では、通常の生活においても気を配るようにしてください。食事も忘れずに摂ること。……確認ですが、薬は必要ありますか?」
「必要無いな」
「……わかりました。では、最後に──あなたは自分の不調が改善されたことにより、解放感を感じますか?」
「──どうだろうな」
「そうですか。……わかりました。──では、今回のカウンセリングは以上で結構です。お時間いただきありがとうございました、ヴィクター隊長」
「そうか。じゃあ俺は戻る」
「ええ、ではまた」
◉対象者:ハンス
「お疲れ様です、ハンス。どうぞ」
「ああ」
「コックピットからの景色はいかがでしたか?」
「え?」
「……いえ、気を張っているようにお見受けしましたので、世間話でもと」
「……いや、いい。さっさとやろう」
「──そうですか? では、まずは二度目の冬眠に関してお伺いします。数値的には良好な値でしたが、ご自身の感覚との乖離などはございませんか?」
「無いな」
「では、冬眠以外の通常の生活において、何か不調を感じる事は?」
「俺に関しては、無い」
「──と、言いますと?」
「しらばっくれるなよ。お前が様子がおかしいとか言い出したんだろ、ヴィクター隊長のこと」
「ええ、そうですね。ですがまずあなた自身のことをお伺いしたかったのですが」
「必要無い。俺は俺自身、心身ともに健康だよ。考え事が原因で動きに支障が出るとか、そういった事も無いし」
「でしたら、あなた自身は問題ありませんね」
「だろ? だから、俺の話は置いといて、この前あったことを話したい」
「……この前──フェリスでの件ですか?」
「そう。お前が口止めしてきたやつ。カウンセリングの時にでも話せって言っただろ」
「あれは、あくまでも場所の問題を解決するための方便であって、あなたのカウンセリングを疎かにしてまで行うことではありません」
「じゃあ、あと何が聞きたいんだよ?」
「お伺いしたい項目としては、宇宙の深部まで来ているわけですから、それによる心境の変化や、対人関係による変化などをお話しいただければと考えていましたが」
「それなら、俺自身に関して言うならマジで前回と何も変わってない。こんなとこまで来て、馬鹿でかい木星を目の前にして、怖気付くとかも無ぇ」
「流石ですね。SECセクターの軍人ともなれば精神面も安定している、ということでしょうか。──では、あなたにとっての本題に入りますか?」
「ああ、そうしてくれ」
「でしたら、あなたのお話を聞かせてください」
「──フェリスで、俺が起床時間より早く起きただろ」
「ええ、ありましたね」
「俺あの時、お前と上で会う前に隊長とすれ違ったんだよ。カフェテリアでさ」
「……つまり、あなたよりも前に、ヴィクター隊長は目覚めていたと?」
「ああ。しかも、隊長が出ていくのとすれ違ったんだ。俺は朝飯で、そのままカフェテリアに入ったんだが……飯食った形跡が無くてな」
「──ヴィクター隊長は、朝食も採らずに早朝の時間をカフェテリアで過ごしていた?」
「ああ。というか──いつからそこに居たんだって話でもあってさ」
「成程、睡眠も碌に取らずに、その場で長時間過ごしていた可能性があるということですか」
「そう。──お前に言われてからさ、こっちから話しかけてみることにしたんだよ。隊長は前からあんな感じの人だし、なんか分かることもあるかと思ってな」
「それは、ご協力ありがとうございます」
「お前のためってわけじゃなくて、俺が気になったってのがでかいけど」
「ええ、続けてください」
「……話してみて分かった。何つーかこう……心ここに在らずっていうか、ぼうっとしてるっていうか、その辺は隊長らしくないとは思ったな」
「意識が緩慢になっている傾向があると?」
「──まあ正直なところ、俺は隊長の私生活知らねえから、普段規則正しくやってるのかどうかは定かじゃないが……俺がこれまで変だと思った経験が無いってことは、少なからず不調があってもそれを隠せてたってわけだろ? って事はこれは、一大事なんじゃねえかと思ったわけ」
「目に見えて不調が分かるような状態にまで陥ってしまっているのではないかと、そう懸念しているということですね?」
「ああ。なんか不調があるなら、医者のお前には言っておいた方が良いんだろ?」
「──ええ、ありがとうございます。参考にさせていただきます」
「ああ」
「……しかし正直なところ、驚いています」
「あ?」
「──あなたは意外にも、他人のことをよく観察していらっしゃる」
「……」
「それだけご自身の心には余裕があるとお見受けします。あなた自身に関しては、数値通りの健康状態を信頼して良さそうです」
「それ、評価されてんの?」
「最大の評価です。──ですから、追加情報をお伝えします。……これは、以前のカウンセリングであなたに申し上げたことを破る結果になるのですが、医者としてあなたに伝えるのではなく、あなたが、ヴィクター隊長にとって信頼のおける存在だと見込んだうえで、私個人の裁量でお伝えするものとお考えください」
「──何だよ?」
「ヴィクター隊長は事実、胸の内に何かを抱えていたようですが、先ほど、それはご自身で解決したから問題無い、と仰いました」
「……そうなのか?」
「ええ。ですが、私はこの言葉を鵜呑みにすべきでは無いと判断しています。あなたはいかがですか?」
「……隊長がそう言ったならそうなんだろうけど──正直分かんねえな」
「先ほども申し上げましたが、カウンセリング内容を他者に話す事は本来ありません。先のことを考慮し、あなたにだけお伝えしています」
「……つまり、この先も様子見ろって?」
「あなたの興味が赴くままに、お任せします」
「──分かったよ」
「では、カウンセリングは終了ということで」
「……これ、カウンセリングだったか?」
「ええ。……あなたの心情が、隊長を気にかける方向へ向いていた。それが分かっただけでも、充分な記録になります。これはカウンセリングとして成立していると言ってよいでしょう」
「フン、──じゃあな、先生」
「ええ、ではまた次のカウンセリングで」
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