第6話 魔球の誕生。
「まずは、スタメンを固定する。もちろん、調子によっては、代えることもある。でも、基本的に、スタメンは変えない」
スターティングメンバーが、コロコロ変わる日替わり打線では、調子の波になれない。
プロとちがって、負けたら終わりのトーナメント式である。だから、調子がいい選手を優先的にスタメンに並べるのは基本だ。しかし、スタメンに名を連ねた選手は、他の控えの選手たちから信頼されてこそのレギュラー選手だ。実力と信用があってこその、レギュラーなのだ。
「ピッチャーは、村山くんと江夏くんでがんばってもらう。ウチには、二人しかいないからね。そして、藤川くんは、抑えをやってもらう。最強のリリーフとしてやってもらうつもりだ」
名前を言われた三人は、顔を見合わせると、やる気に満ちたいい顔をしていた。だが、これで終わりではない。次にいうことが、一番大事なことだ。
「村山くんと江夏くんの球速は、130キロから138キロくらいで、正直言って、剛速球ではない。ハッキリ言って、一番打ち頃のちょうどいい速さだ」
俺の言葉一つを三人は、目をキラキラさせて聞いてくれている。
「球種も、ストレートとカーブしかない。いくらコントールがよくても、いつかは打たれる。キミたちの武器は、コントロールしかないんだ」
それは、マネージャーの犬飼さんのデータがハッキリ証明してくれている。
「そこで、村山くんと江夏くんには、絶対打たれない、新しい球種を覚えてもらう」
これは、衝撃的な発言なのはわかっている。
「そんな・・・」
「無理ですよ。地区予選まで、もうすぐなんですよ。今から、新しい球種なんて、投げられません」
「そうだよ。間に合いませんよ」
二人は、口を尖らせる。それも、もちろん、想定内だ。
「その心配はない。キミたちのような、高校生でも練習すれば投げられる」
「どんな球ですか? スライダーですか、フォークですか?」
「ちがうよ。ドリームボールだ」
「ドリームボール?」
二人は、額に皴を寄せて不思議そうな顔をする。
「キミたちは、知らなくて当然だよね。キミたちが生まれる前に、実際に投げた人がいるんだ。俺は、その人から、投げ方を教わった。それを、キミたち二人にも教える」
「どんなボールなんですか?」
「それは、後のお楽しみだ。それと、藤川くん。キミの球速は、140キロを超える。キミのストレートを打てる選手は、そうはいない。だが、キミに足りないものは、スタミナだ。打者で言えば、10人まで。球数で言えば、20球以上投げると、球速が劇的に落ちる。だから、キミは、スタミナをつけて持久力を上げることが課題だ。それには、たくさん食べて、体力をつけること。パワーをつけることが最優先だ」
藤川くんも真剣な表情で聞いている。
「他の選手たちは、ポジションの適性を見て、選んで行く。それは、コーチのマヤさんに任せる」
「ハイ、お任せください。監督」
マヤさんは、隣でにこやかな笑顔を浮かべている。
しかし、部員たちは、女性である、マヤさんのことをまだ信用していない様子で不安な顔をしている。
だが、マヤさんの実力を知って、驚くのは時間の問題だ。
「それじゃ、まずは、それぞれ自分のポジションについて、マヤさんからシートノックを受けてくれ。村山くんと江夏くんは、俺といっしょに、魔球の練習だ。藤川くんとキャッチャーの田淵くんも手伝ってくれ」
そう言って、四人をブルペンに連れて行った。
ブルペンに行くと、まずは、田淵くんを座らせて、藤川くんにバットを持って、バッターボックスに立ってもらった。
二人を田淵くんの後ろに立たせて、俺は、マウンドに向かった。
「いいかい、後ろの二人は、よく見ていること。田淵くんは、ちゃんと捕球してくれよ。藤川くんは、俺と勝負するつもりで、ボールをよく見て、打ってくれ」
四人は、首を傾げながらそれぞれの位置についた。
「それじゃ、行くよ。ミギー、頼むぞ」
俺は、返事のない右手に呟いた。
ボールの縫い目に沿って指を挟んで大きく振り被る。体をくの字に曲げて、右手を後ろに伸ばす。
左足を前に踏み出し、後ろに伸ばした右手を地面すれすれのところで、ボールを離す。
投げられたボールは、田淵くんのミットに向かって行く。コースは、ド真ん中のストライクだ。
藤川くんがバットを振る。ボールは、見事に田淵くんのミットに収まった。
「どうだい、これが、ドリームボールだ」
四人は、目をパチクリして、信じられない顔をしていた。
「なんで・・・」
藤川くんの呟きがすべてを物語っていた。
「どうした、藤川くん? ちゃんとボールを見てバットを振らないと、当たらないぞ」
俺に言われた藤川くんは、首を傾げながら、もう一度、バットを構えた。
「もう一球行くぞ」
俺は、もう一度、大きく振り被って、体を曲げながら右手を振って、左足を踏み出しながら、地面すれすれでボールを離した。しかし、今度も、藤川くんは、大きく空振りした。
「後ろの二人もちゃんと見てたかい?」
村山くんも江夏くんはもちろん、ボールを捕球した田淵くんも言葉がなかった。
「それじゃ、説明するから、二人はちゃんと聞いて、練習してもらうよ」
俺は、ボールの握り方、下から投げるポイントなどを話して聞かせた。
「それはわかりますが、俺も江夏くんもオーバースローですよ。下から投げたことはありません」
「ぼくもアンダースローなんて、やったことないですよ」
「だから、練習するんだ。これは、下手投げじゃないと、投げられないし、打者の直前で変化しないんだ」
「でも、やったことないし・・・」
「それじゃ、打たれてもいいの?」
「・・・」
「わかりました。やってみます」
村山くんも余り気が進まないみたいだけど、監督の命令だから、仕方ないという感じで練習を始めた。
江夏くんもそれに習って、藤川くんを相手に投球練習を始める。
二人は、上手投げの投手だから、いきなり下から投げるというのは慣れてない。
投げ方もぎこちない。それでも、10分、20分と投げ込みをしていると、様になってくる。
最初は、キャッチャーの田淵くんまで届かなかったり、コントロールが悪かったりしたもののやはり、ピッチャーだけに、慣れてくるとちゃんと届くようになり、コントロールもついてきた。
「それじゃ、早速、試してみよう。藤川くん、悪いけど、もう一度バットを持って立ってくれ。ちゃんとボールを見て、打つんだぞ」
「ハイ。今度は、打って見せます」
藤川くんは、ピッチャーでも、バッティングもいいのは、知っている。
実験台になってもらうのは悪いけど、藤川くんならうってつけだ。
まずは、村山くんに投げてもらう。投げるのも打つのも真剣勝負だ。
村山くんが、大きく振り被り、体を曲げて、右手を後ろに伸ばしながら左足を大きく踏み出し、地面すれすれでボールを投げた。藤川くんのバットが空を切った。
「やった」
「よし。もう一度だ」
村山くんは、初めて投げたアンダースローでも、大成功だった。
その後、何度投げても、空振りばかりだ。江夏くんにも投げてもらう。
江夏くんは、サウスポーなので、より変化するはずだ。
身体の大きな江夏くんの投げ方は、体格的に無理があるかもしれない。
それでも、投げてくれた。またしても、藤川くんのバットが空を切る。
その後、何回投げても、打たれなかった。
「いいじゃないか。さすが、エースだ。二人とも、合格だよ」
「でも、なんで、打たれないんですか?」
当たり前の質問をしてきたので、俺は、水原先生が言ってたことを話して聞かせると目を丸くして、驚いていた。
「このボールなら、田淵くんや花形くんでも、打たれることはない。自信を持って投げてほしい」
「わかりました」
「ただし、一つ、約束事がある。それは、キミたちは、オーバースローだから、アンダースローだと肩に負担がかかるし、肘の筋肉の使い方に無理が出る。だから、投げ過ぎてはいけない。投げるのは、一人につき、一球だけだ。つまり、2ストライクに追い込んでから、三振を取るときの一球だけに限定する。
続けて投げることは禁止だ。それだけは、守ってもらう。キミたちには、将来もある。連投して、肩を壊しては元も子もない。だから、それまでは、今まで通り、オーバースローで投げること。ドリームボールを投げるときだけ
下から投げるんだ。それと、ドリームボールの秘密は、ないしょだぞ。家族にも友だちにも、秘密だからな」
「ハイ、わかりました」
「ありがとう。それじゃ、下から投げる練習は、ウチに帰っても慣れるまで、やってくれよ」
「わかりました。練習します」
二人の顔は、自信に満ちていた、とてもいい顔をしていた。
その後、練習を終えて、ミーティングをする。コーチをしてもらったマヤさんとも話をするとポジションも決まったようだった。それを踏まえて、打順も決めてみる。
「それじゃ、みんな聞いてくれ。コーチのマヤさんと犬飼さんとも相談して、スタメンを作ってみた」
俺は、ノートを見ながら発表した。その打順とは、この9人だ。
一番・ショート吉田くん。
二番・センター赤星くん。
三番・ファースト花形くん。
四番・キャッチャー田淵くん。
五番・サード掛布くん。
六番・レフト新庄くん。
七番・セカンド鳥谷くん。
八番・ライト真弓くん。
九番・ピッチャー村山くん、江夏くん。
抑えでリリーフ・藤川くん。
控え選手は、守備要員、藤田くん、久慈くん、平田くん、田尾くん。
代打要員、川藤くん、王島くん、遠井くん。
一塁コーチ・久慈くん。三塁コーチ・平田くん。
以上が、考えたスタメンだった。
「控えの選手も、もちろん、出番はある。いつでも出られるように準備をしておくこと。基本的に、スタメンは変えない。ピッチャーは、村山くんと江夏くんで、交互に投げてもらう。藤川くんは、9回限定の抑えで投げてもらう。田淵くんは、犬飼さんとミーティングして、まずは、このチームの戦力をきちんと頭に入れてもらう。それと、投手陣の配球も考えるように。試合があるときは、対戦相手の分析も頭に叩き込んでもらう。出来るかい?」
「そんなの一日あれば、覚えられますよ」
田淵くんは、人差し指を自分の頭を叩きながら言った。
彼は、学年でもトップの成績だ。この程度の暗記なら、朝飯前だろう。
「一塁と三塁のコーチャーは、久慈くんと平田くんにやってもらう。後で、ブロックサインを考えよう。
ただし、ホントのサインは、三塁コーチャーの平田くんに出してもらうようにするから、打席に立ったら、見落とすことのないように、必ず見ること。久慈くんの出すサインは、あくまでもニセモノだから間違えないように」
名前を呼ばれた部員たちの表情が明るい。誰もがやる気に満ちている感じだ。
例え、控えであっても、自分の役割ができるとやる気が出るのは、大人も子供も同じだ。
「塁に出たら、積極的に盗塁をすること。失敗してもいい。次の塁を狙う気持ちが大事だ。特に、一番と二番の、吉田くんと赤星くんは、ヒットでもいい、内野安打でもいい、相手のエラーでもいいから塁に出て、次に繋ぐバッティングをすること」
そして、勝つために最も大事な話をした。
「クリーンナップの三人は、塁に出た走者をホームに返すバッティングを心掛けること。三振なんて気にしなくていい。狙うときは、ホームランを狙ってもいい。ボールをよく見て、打つことを忘れずに。それと、六番、七番、八番は、決して、下位打線と思うな。第二のクリーンナップとして、相手を掻きまわし、打つ時は打つ。小技で塁を狙う。何でもこなせるはずだ。アウトになるのを怖がらず、積極的に打っていくこと」
最後は、最も信頼されなければならない、ピッチャーの話だ。
「投手陣は、打たれることを怖がるな。撃たれても、キミたちの後ろには、八人の味方がいるんだ。とても強くて、頼りになる仲間が八人もいることを忘れないように。それと、あの約束は、絶対に守れよ」
「ハイ」
投手陣の三人が元気に返事をした。この日の〆は、マヤさんにやってもらう。
「みなさん、自信を持って、戦っていきましょう。まずは、一勝。次は、甲子園です。明日から、いっしょにがんばりましょう。犬飼さん、頼りにしてます。よろしくお願いね」
「ハイ!」
全員の声が重なって、一つに聞こえた。
マヤさんを見る目が練習前とは、まるで違っていた。選手たちの目も覚めたようだ。
これで、今日の練習は終わりだ。
その前に、心配なことがあるので、村山くんと江夏くんを呼んだ。
「キミたちの肩と肘が心配なんだよ。変則投法をするわけだから、ウチに帰ったら、お風呂に入った時に自分でマッサージして、筋肉をほぐすようにね。出来れば、誰かにマッサージしてもらうといいんだけどね」
なによりも、二人の体が心配だ。普段はオーバースローで投げるのに、一時的とはいえ、たった一球のためだけにアンダースローで投げてもらう。肩と肘など、足腰の使い方が変わるので、マッサージは大事だ。
「それなら、俺の親父が、整骨院してるから、やってくれると思います」
「ホントか! それは、いいな。よし、これから、キミのウチに行って、お父さんに俺からもお願いしてみるよ」
俺は、いいことを聞いたと思って喜んだ。父親がマッサージをしているなら、息子やチームの江夏くんもマッサージしてくれると思ったからだ。俺は、その後、マヤさんも連れて、四人で村山くんのウチを訪ねた。
村山くんのお父さんがやっている整骨院は、商店街の中にあった。
繁盛しているようで、夕方なのにお客さんというか、患者さんは、若い人から高齢の人までいた。
マッサージをする先生たちも数人いて、村山くんのお父さんは、そこの経営者兼主治医だった。
「ただいま」
「おう、お帰り」
施設に入ると、村山くんのお父さんが顔を上げた。
「父さん、お願いがあるんだけど・・・」
「悪いな、今、仕事中だから、ちょっと待ってろ」
村山くんのお父さんは、体格も良くて、髪もまだ白髪も見えない。白衣を着た姿は説得力があった。俺たちは、少しの間、接骨院の外で待つことにした。
10分くらいして、お父さんが外に出てきた。
「村山くんのお父さんですか。初めまして、私は、野球部の代理監督をしている、岩風志郎と言います」
「私は、臨時コーチでマヤと言います。よろしくお願いします」
俺とマヤさんは、二人で丁寧に頭を下げた。お父さんは、よくわからない顔で俺たちを見て言った。
「どうも、ご丁寧に。私が、父親です」
「実は、父さんにお願いがあるんだけど」
村山くんがマッサージのことを話した。しかし、お父さんは、腕組みをしながら言った。
「そりゃ、倅の頼みだから聞いてやらないでもない。でもな、ウチの野球部は、まだ、一勝もしたことないんだろ。野球は、高校を卒業したら終りだし、そこまでする必要はないと思うけど」
そう来ると思った。エースピッチャーの父親でも、まだ息子のことを信用していない。
俺は、思いの丈をぶつけてみた。必ず一勝すること。甲子園に行くこと。それを約束して、説得を試みた。
「監督さんの言うことはわかるけどさ、やっぱり、無理だって。甲子園なんて無理だ。一勝するのだって、難しいんだぞ。それに、アンタは、代理監督なんだろ? 代理の監督に何がわかるんだよ。バース監督だって、出来なかったんだぜ」
「大丈夫です。村山くんは、エースなんです。必ず勝ちます。どうか、息子さんを信じて、私たちを助けてください」
今度は、マヤさんが話してくれた。
「言っちゃ悪いけど、女のアンタに何がわかるんだよ? 野球のことわかるの? こいつの実力は、親の俺が一番わかってるんだ。倅には気の毒だけど、勝てるとは思えないな」
聞く耳を持ってない態度なのは想定内だ。この程度で引き下がる俺ではない。
「失礼ですが、お父さんは、村山くんのことをどこまで知ってるんですか?」
「どういう意味だ?」
「村山くんは、すごいピッチャーですよ」
「そんなことはない。どこにでもいるピッチャーだ。ストレートとカーブしか投げられない、ピッチャーなんて、珍しくない」
「それなら、村山くんのボールを打てますか?」
「ハァ? 監督さん、アンタ、俺をなめてんの? 俺はさ、今は、マッサージなんてやってるけど、これでも野球はやってたんだぜ。そりゃ、甲子園には行けなかったよ。プロにもなれなかったけど、大学野球から、社会人野球も経験してんだぜ。その俺が、倅の球を打てないわけがないだろ」
「だったら、息子さんと勝負してください。もし、お父さんが打てなかったら、頼みを聞いてもらいます」
「いいだろ。久しぶりに、倅と勝負か」
いい展開だ。後は、村山くんがドリームボールで空振りを取ればいいだけだ。
「江夏くん、バットを貸して」
俺は、バットをお父さんに差し出した。
「おいおい、まさか、ここでやるのかい?」
「そうです」
「なにを言ってんだよ。こんな商店街の真ん中で打ったら、ボールがどこに飛んで行くかわからないだろ。他の店のガラスでも割ったら、弁償だぜ。それに、通りすがりの人に当たったら、どうすんだよ」
「大丈夫です。申し訳ないけど、お父さんは、村山くんのボールを打てません」
「アンタ、本気で言ってるのか?」
「ハイ。大真面目です。私は、村山くんを信じてますから」
「アンタに倅の何がわかるんだ! 親の俺が打てないわけがないだろ」
急に大声を出したので、周りのお店の人たちも騒ぎを聞きつけて顔を出してきた。接骨院の中からも、治療を終えた患者さんや若い先生たちも出てきた。
しかし、お父さんは、最初からやる気がない。まったく、相手にしていないのである。
「父さん、俺からも頼む。勝負してくれ」
「ぼくからもお願いします。勝負してください」
村山くんと江夏くんも、二人で頭を下げて頼んでくれた。
子供二人に頭を下げられては、お父さんも返事に困っている様子だ。
「ちょっと、村山さん、息子さんたちがこんなに頼んでいるのに、やってやんなよ」
「先生、子供の頼みを聞かない親って、どうなんだい?」
「院長、いいじゃないですか。勝負してみましょうよ」
商店街の人たちや患者さん、先生たちも出てきて、俺たちを応援してくれた。
「しょうがねぇな。一球だけだぞ。おい、球がどこに飛んで行くかわからないから、危ないから退いてろ」
お父さんは、そう言って、人をかき分けると、商店街の通りの真ん中にバットを持って構えた。
「村山くん、さっきの投球を思い出して、自信を持って投げるんだぞ」
「ハイ」
「お父さんを見返してやれ」
そう言うと、村山くんは、黙って大きく頷いた。キャッチャーは、江夏くんに頼んで座ってもらった。
「いいか、一球だけだぞ」
お父さんは、そう言って、バットを構える。村山くんは、大股で歩いて、実際のマウンドまでの距離を測る。
「さぁ、来い」
「村山くん、負けるな」
「院長、しっかり」
「先生、打てよ」
あちこちから二人に声がかかる。次第に商店街のお店から、何事かとぞろぞろと人が出てきた。
観衆が増えれば、それだけ村山くんの株が上がる。ここで、お父さんを空振りにすれば、彼自身も自信が付くはずだ。
そして、村山くんは、投球動作に入った。大きく振り被ると、体をくの字に曲げて、右手を後ろに逸らした。
「な、なにぃ!」
お父さんの驚く声が聞こえた。オーバースローで投げる村山くんが、アンダースローで投げるのだ。
驚いても当然だ。でも、その投球の仕方で、すでに勝負はついたも同然だ。
左足を大きく踏み出すと、アスファルトすれすれのところでボールを離した。
お父さんは、バットを思い切り振った。ボールは、江夏くんのグローブに収まった。
「バカな・・・」
お父さんは、信じられないという顔をしていた。
「どうした、先生」
「村山さん、わざと空振りなんて優しいね」
「院長先生、しっかりしてください」
そんな声が聞こえたが、お父さんの耳には入っていなかったようだ。
「お父さん、勝負は、付きましたね」
俺は、なるべく高揚を抑えるように、静かな声で言った。
「待て、何で、お前がアンダースローなんだ? 聞いてないぞ。オーバースローじゃないのか。どういうことなんだ?」
「企業秘密です。それより、お父さんの負けですよね」
「待て、もう一球だ。今度は、打つ。さぁ、来い」
お父さんは、バットを構え直した。今度は、目つきも違う。村山くんをグッと睨んで、腰が入っている。
さすが、野球経験者だ。でも、村山くんの球は、打てるはずがない。
それでも、村山くんも負けてない。即席とはいえ、藤川くんを空振りさせたこと、そして、今、お父さんのバットも空を切ったのだ。自信が顔に現れている。
村山くんが二球目を投げた。今度も、お父さんのバットは空を切った。
「なんでだ。なんで、打てないんだ? ジャストミートしたんだぞ」
お父さんの驚くような呟きは、周りで見ていた人たちの歓声と拍手に聞こえない。
「お父さん、どうですか? 村山くんは、ウチのエースになりました。私たちのお願いを聞いてくれますね?」
「わからん・・・ 球は、ストライクだった。バットに当たるはずなんだ。もう一度、投げてくれ」
お父さんは、訳がわからず、不思議の表情を崩さない。
「それじゃ、今度は、江夏くん、投げてみて」
ピッチャーの交代だ。
「投げてみろ。今度こそ、打ってやる」
お父さんの本気モード全開だ。それでも、打たれるわけがない。江夏くんだって、投げられるんだ。
「江夏くん、大丈夫だ。キミなら、出来る」
「ハイ」
俺が一声かけると、江夏くんも大きく頷いた。サウスポーの江夏くんは、大きく振り被ると、左手を後ろ逸らしながら体をくの字に曲げる。右足を大きく踏み出し、地面すれすれのところでボールを投げた。
そして、またしても、お父さんのバットは、空を切った。
見ている人たちからの歓声がすごい。
「おい、これは、どんな球なんだ? どうして、空振りするんだ?」
お父さんは、俺に掴みかかるような勢いで怒鳴りつける。
「それは、秘密です。お父さんでも、教えません」
俺は、ハッキリと言った。お父さんは、悔しそうな顔をして、その場に佇んでいる。
ちょっと可哀想な気もしたけど、これも勝負だ。例え親子でも、勝ちは勝ち、負けは負けだ。
「お父さん、いかがでしたか?」
「負けだ。俺の負けだよ。すごいな。俺を空振りさせるなんて、悔しいけど認めてやるよ」
負け惜しみではなく、今度は、清く負けを認めて俺に言った。
「それじゃ、私たちの頼みを聞いてくれますか?」
「わかったよ。やってやるよ」
「ありがとうございます」
俺たち四人は、思いきり体を曲げて頭を下げた。
「よせよ。顔を上げろ。親としても、息子が追い抜くのは、うれしいことだからな」
「それでは、マッサージの方をお願いしてもいいですか?」
「やるよ。男の約束だからな」
「それで、治療費の方ですが・・・」
「なにを言ってんだい、監督さん。息子の肩をマッサージするのに、金を取る親がいるかよ。江夏くんもしっかりマッサージしてやる。その代わり、一勝するんだぜ」
「いえ、一勝ではありません。甲子園です」
俺が言うと、お父さんは、なぜか、目を真っ赤にして何度も頷いていた。
「お前ら二人のことは、俺に任せな。壊れない肩と肘にしてやる。この程度でぶっ壊れたら、俺の名が廃る。監督さん、安心して任せろ。毎日、マッサージしてやるからよ」
「ありがとうございます」
「父さん、ありがとう」
「おじさん、ありがとうございます」
俺たちは、揃って何度も頭を下げた。周りの人たちからも、暖かい声をもらった。
身内と地元を味方に付ければ、怖いものなしだ。それもこれも、二人のエースのおかげだ。
二人には、これからもがんばってもらわないといけない。
ウチの野球部は、二人のエースがいなければ成り立たないチームだ。
俺は、胸の内が熱くなっていく気分だった。
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