ファラオの蟻は名前を持たない
みかみ
第1話 ぺル・ラムセスの王宮
「決して自身の名を名乗ってはなりませんよ。もし、あちら様がお尋ねになられても、巧みにおかわしなさい。名前を思い出して頂くだけでも、お手間を取らせしてしまうことになりますからね」
生活用にはどの水路の水を使いなさい、この部屋の掃き掃除にはどの箒を使いなさいなど、そんな説明を頂く前に、思ってもいない注意をされてしまった。
わたしに巧みさなんてあるのかしら。
どう返事をしたらいいかしら。
終始足元に視線を落としていたけれど、ちらりと目線を上げて、前を歩く
毛先が真っ直ぐにそろった上等な鬘がなだらかな曲線を描き、ほどよく丸い頭の形を作り出している。そこへわたしは、律動的に動く二本の触覚を思い浮かべる。
蟻の頭だわ。
召使いは、『ファラオに仕える者』。とにかく数だけは多いという特徴から、通称、『蟻』と呼ばれる。
ならば、宮殿は蟻塚なのかしら。女監督は、さしずめ女王蟻?
いいえ違う。蟻には戦士役もいるというし、働き蟻に相当するわたし達を取り仕切るのだから、
わたしは
そんなことをぼんやり考えながら、蟻の頭を支えている威厳に満ちた首すじの美しさに見とれていると、蟻女長――女監督がわたしに振り返る。
「いいこと。レベンタウ」
わたしの名が呼ばれると同時に、深い皺が刻まれた目元が僅かに眇められた。
「ぼんやりせずに、よくお聞きなさい。あなたが仕えるカエムワセト殿下は、わたくし達のような下賤な者にも心を砕いてくださる優しいお方です。ですから、わたくし達が努めて分をわきまえねばならぬのです」
そして女監督は最後に、「いいわね?」と訊ねられた。
いいえ。これは一見訊ねたようで、実は念押しなのだわ。この人もお母様と同じことをなさるのね。
「畏まりました。自由気ままに育ちましたゆえ、不作法者でございます。どうか、ご厚誼あるご指導を賜りたく」
膝を折り、頭を垂れて、家でお母様を前に何度も練習した文言を口にする。
すると女監督が、ふとお笑いになった。
たおやかに。でも、たいへん誇らしげに。
「貴族の娘は気が強くて教育が大変だけれど、あなたには期待しましょう」
流し目を送りながら前を向き、また、歩きはじめる。
ほんの少しだけれど、女監督と心が通った気がした。
今なら、わたしから話しかけてもいいかしら。
「カエムワセト殿下は、わたしと同じお歳だと聞いております。不肖ながら、お役にたてればと存じます」
お母様から教わったもう一つの文言を使った。わたしの将来に役立つかもしれないから必ず申し上げるように、と口を酸っぱく言われていた宿題が、これで達成された。
途端、女監督が歩みを止めた。また首を捻り、今度はわたしをじろりと睨む。
「遷都を終えてからは、宮仕えが一新され、宮殿はあなたのような若い召使いで溢れかえっています。中には殿下の側室になりたいなどと、はしたない下心を隠さない者もいるわ。それはとても嘆かわしいことよ」
女監督は、わたしを非難している。わたしをも、嘆かわしいと言っている。
違います。誤解です。わたしはただ、歳が近ければきっとそれだけ悩みも似ていて、お声もかけやすいだろうからと――
反論しようと口を開けたはいいけれど、声が出せなかった。鼻の奥がツンと痛くなる。
ああ駄目よ。泣いては駄目。
胸周りを覆う布の上に薄い贅肉の乗った背中が、くるりと回転した。上質な亜麻布に包まれた胸元が、わたしに向き合う。
「あなたは下働きです。その務めを果たすことにのみ邁進なさい。殿下にお近づきになろうなんて、考えてはいけません。ましてや、お手付きになろうなどとは間違っても思わないことよ」
「めっそうもございません」
やっとそれだけ、絞り出す。
胸に抱えている自分の荷物をぎゅっと抱きしめると、ほんの少し、怯えているわたしが落ち着いた。
廊下の角を曲がるとその先は、中庭だった。
青空を千切ったようなタイルが敷き詰められた白い壁。その内側には、太陽光が燦々と降り注ぎ、眩しいほどの緑が溢れてかえっている。
まあ、なんて美しい。
立ち止まると、女監督も歩みを止めてくれた。
「見事でしょう」
という問いかけに、わたしは大きく頷く。
新都ぺル・ラムセスに着いた時、目に飛び込んできた宮殿は、青い宝石のようだった。建設されて間もないから、全ての色彩がとても鮮やかで澄んでいた。
テーベも賑やかで楽しい街だったけれど、わたしにとっては、この美しい宮殿があるぺル・ラムセスが、エジプトのどの都よりも素晴らしい。
庭の中央には、ふんわり優しい葉を茂らせた一際大きなタマリスクの木が、乾いた地面にしっとりとした影を落としている。鱗のように折り重なる細い葉っぱに包まれ、枝垂れている。
しなやかで柔らかい雰囲気の、この木が大好き。眺めていると、心が穏やかになるから。
わたしはもう、十四歳。だから、頑張らないといけない。泣き虫ちゃんでいるのは終わり。
安易にお嫁に行かず、『蟻』になると決めたのはわたし。
だからこの王宮で、立派に働いてみせるの。
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