第6話
目を覚ます。
開いた途端に反射的にバッと飛び起きた。
メリクの顔を思い出し周囲を慌てて見回すと、ベッドで眠っていた自分のすぐ側でメリクは椅子に座って本を読んでいたらしい。一瞬驚いたような顔で手を止め、ミルグレンの方を見ていた。
「レイン」
呼ばれてミルグレンは胸に温かさが広がった。
それは安堵だった。
(ああ、メリク様は昔と同じように私を呼んでくれる)
嬉しくて、そのままメリクの胸に飛び込んだ。
「メリクさま!」
つい二ヶ月前、すれ違うようにサンゴールで会ったことを除けば、およそ四年ぶりの再会だった。
「レイン……」
メリクがそっと、彼女の髪を撫でた。
「……レイン……君とこんな場所で会うなんて、夢にも思わなかったよ」
彼の声には喜びより戸惑いの方が強くあった。
それはそうだろう。
「国のみんなは……」
「わたし」
ミルグレンはメリクにしがみついたまま、彼の顔を見上げた。
「メリク様が好き!」
翡翠の瞳が瞬いた。
「……。……ありがとう」
困ったように彼は小さく微笑する。
ミルグレンは大きく首を振った。
「違うのメリク様。兄としてとか、守役としてとか、
私と貴方の間には昔から色んな好きがあった。
でも私が今持ってる気持ちは特別なものだよ。
メリク様だけに感じるものだもの!」
メリクが聞きたかったのはそういう話ではなかった。
だがあまりにもミルグレンが一生懸命な表情なので、いや、それはともかくとしてとは言い出せなかった。
「メリク様が好きなの。大好きなの!
だからメリク様とこれからもずっとずっと一緒にいたいの!」
青年は驚いた顔をした。
それを見たミルグレンの瞳が潤む。
「……メリク様は……めいわくですか……?」
「……。」
ミルグレンは顔を伏せる。
迷惑だという言葉を死んでも聞きたくないという仕草だった。
ここでそんな言葉で終わりにされるくらいなら何も聞かず、ずっと彼の胸に顔を埋めていたかった。
「……………………いや、……そうじゃないよ」
長い時間をかけてメリクはやがてぽつりと言った。
「…………レインが、そんなに俺を想ってくれてるなんて思わなかったから」
ミルグレンはもう一度メリクの顔を見上げた。
彼はそんな彼女の額をそっと撫でる。
それはメリクの紛れもない本音だった。
――――まさかミルグレンがこんな行動に出るとは……。
アミアカルバの娘だとそのお転婆ぶりを取り沙汰されてはいたけれど、ミルグレンはそれでもどこかで温室育ちだった。似てはいるが本質は、アミアに比べて彼女はもっと普通の少女だと。これはメリクの印象である。
孤児であったメリクを、元老院や王宮の反対を押し切って、自分の傍らで十七年間過ごさせた女王アミアカルバの、あの本質の我の強さを、ミルグレンは持っていないと思っていた。
彼女に出来るのはただ泣いて、それは嫌だと訴えるだけなのだ。
素直に訴え心を痛め――それでも辛い運命を『光の術師』特有の明るさで受け止めて生きていく。
どんな時でも光を見出せるのが『光の術師』である。
【光の王】グインエルの一人娘である彼女は間違いなく、光の血脈の一人だ。
だからメリクは自分の不在という現実の中でも、時が経てばミルグレンはその現実の中で、またきっと光を見出せると確信していた。
彼女がこれほど一つの物事に執着し、我を通すほどの強さを持っていたとは思っていなかったのである。
……これはメリク自身の感覚の話になるが、サンゴール時代の自分は、出来うる限り彼女に誠実であろうとは努力はしたものの、リュティス・ドラグノヴァに捧げた献身と愛情に比べれば、それはとても些細なものだったと彼自身は思っている。
何故ならメリク自身はミルグレンに、恋は一度もしなかったからだ。
だからリュティスに与えたほどの魂を彼女には一度も向けていないし、痛みを慮って泣いた事もない。
大した想いを向けてやった事はない、と彼は思う。
――だからこそ驚きなのだ。
淡い初恋一つのことで、ミルグレンがこんな場所まで単独で自分を追って出て来るだろうか?
彼女は母や国に愛されている。愛されてる事も知っている少女だ。
そしてそういう母や国とメリクが秤に掛かれば、最後の最後でちゃんと母や国の方を選べる、そういう少女だとメリクは考えていた。
彼女はそういう、血筋なのだ。
自分を愛してくれる人間を愛し、幸せになれる血脈なのである。
「……俺は勝手に国を出たし、……君の大事な人も傷つけた。君自身の事もたくさん悲しませたから、もうとっくに失望されたと思ってたんだ」
ミルグレンは首を振った。何度も振った。
「それはもう、分かってるから。全部分かってる。メリク様が望んでそうしたわけじゃないってことも。だってメリク様はサンゴールで会った時言ってくれた。お母様の幸せを祈ってるって。
それにレインは悲しんでなんかない。ただ貴方が好きなだけだよ。だからメリク様が何をしても、私は失望したりしない」
「……レイン。……君がここにいることを、サンゴールの誰も望まないだろう」
メリクは静かに言った。
「……君は【光の王】と謳われたグインエル王の一人娘だ。サンゴール王国の全ての人が、君が幸せな花嫁になることを望んでる」
「――――わたしは望んでない。」
ミルグレンは言った。
「わたしは望んでない。だって、偽りを抱えて契りを結んで未来まで、
どうやったら幸せに笑って行けるっていうの?
私はメリク様が国を出てから、あなたへの気持ちは表に出さなくなったよ。
忘れようともした。もう二度と会えないと思ったから。
会えない人を好きでいても、幸せになれないと思ってた。
……でもそれは違うの。
私にとってはメリク様を覚えていることよりも、
忘れることの方がずっとずっと辛いことだった。
私はもうちゃんと、自分がどうすれば幸せになれるかは分かってる。
ちゃんと分かってるの!」
――――偽りを抱えて……。
言われて胸が抉られた。
偽りを抱えて幸せそうなフリをして生きていくことがどんなに苦しいかは、メリク自身が誰よりもよく知っている。
どうにもならなくて国を出たのは自分も同じだ。
メリクも、自分がどうすれば幸せになれるかは知ってる。
……ただ【魔眼】の王子の側に自分の存在が認められればいいのだ。
でもそれは叶わない。
何故ならその相手に死ぬほど自分が憎まれているから。
メリクが側にいる限り、リュティスに幸せな未来は来ない。
そうまであっても想いを捨てられない自分は、せめて姿を永遠に消すことが、長い間自分が側にいることで苦しめ続けたリュティスへの、最後の贖いだと思っていた。
……何より、自分自身もこの救いのない人生からいい加減に解き放たれたかった。
解き放たれた先でも、光を見出せない所にメリクの【闇の術師】としての本質がある。
本質の
だからもう全ての望みを捨てた。
捨てることで、何の望みも抱かないという最後の望みを、無理矢理抱いたのだ。
たった一つの叶えたい幸せすら叶わないのなら、もう何も願う必要もなかったから。
メリクはある意味で貪欲で、そしてある意味で非常に無欲な青年なのだった。
だがミルグレンは……、メリクは考える。
この少女はメリクとは違う。
この子は他者に愛されることが出来る子だ。
何より、あのリュティスでさえ兄の忘れ形見だと、彼女を宝物のように扱っていた。
自分とは違う。
それは確かなのだ。
だから自分と同じ道を歩かせてはいけない。
メリクは目を閉じた。
(俺のせいだ)
あの日サンゴールで安易にミルグレンに会ったりした。
実際は第二王子の病状が気になって仕方なかったというだけで、彼女に会う気も全くなかったというのにだ。
あの時サンゴールで会わなければ、あのまま彼女の中から自分はきっと綺麗に掻き消えただろう。
それを不意に現われたりして、傷を抉り返した。
……ミルグレンはそれで結果として、こんな所まで自分などを追って出て来たのだ。
メリクは不意にミルグレンを力強く自分から抱きしめた。
「……メリクさま……」
正直『その程度のこと』でミルグレンが国や母を捨てるなどと考えもしなかった。
最後の最後でこの少女は国を選び、アミアカルバを選び、自分のことは忘れてくれる、そう思い込んでいた。
――その時メリクがミルグレンに対して感じた感情は――表現としては『愛しい』という感覚が一番それに近かった。それそのものでは、勿論なかったけれど。
それはそうだろう。
彼の人生で「何もかも捨てて貴方と歩む」などと言ってくれた人間は、一人もいなかったのだから。
ミルグレンに慕われているのは知っていた。
でもそれも所詮、幼い頃から知っている年の近い異性であるというだけで、王立アカデミーに入れば自然と落ち着く所に落ち着く、愛着のようなものだと思っていた。
恋心一つで生も死も見知ったメリクは自分が孤児という、特別孤独な環境によって生み出された、一種行き過ぎた異常な愛情への執着を持っていると考えて生きて来た。
それが魔術的な因果を含んであの第二王子と結びついたのだ。
他の人間ならきっとどこかでリュティスを諦め忘れたはずだと、冷静に自分を分析も出来る。
そう出来ない自分は『異常』なのだと。
特別なのだとそう思っていた。
……でもそうではないのか。
人の中には、狂気は誰しも持っているものなのか。
愛情のために人は狂うことがあるのだ。
誰もが誰かを狂おしく想う器であり、狂気すら抱く可能性を持っている。
少女の細い身体に、こんな身体でサンゴールを離れ、こんな場所まで自分を追って来たミルグレンの身体に、痛々しいほどのその想いを感じた。
自分のことを、自身よりも大切だと言ってくれた初めての少女。
……自分のように心の貧しい人間が、
どうしたらその時の彼女の顔を見て帰れなどと言えただろう?
多分叱りつけて帰す方が、きっと正しい。
自分がミルグレンを幸せになどしてやれるはずがない。それは目に見えている。
だから帰すべきだった。
だがその正論とは、メリクがその時突きつけられた想いとは、全く別なのだった。
帰れという言葉がもし正しくても、彼の手には余る言葉だった。
五歳の時、故郷を焼かれた瞬間から、孤独の中に生きて来た彼にはどうしても言えない言葉だった。
メリクには神聖な光を消す力がないように。
思えばエドアルト・サンクロワに同行を許した時もそうだったのだ。
自分のような空虚な人間が、あの少年にまともな教育など施せるはずもない。
彼ならばきっともっと、魂から師と仰げるような人に出会って行けるだろう。
だが貴方に学びたいと真っすぐ言って来た少年の、あの清らかな、誠実な光をメリクは拒絶出来なかった。
きっと『愛しさ』に一番近い。
完全なそれではなくとも。
メリクは初めてその時、目の前の少女に自分の心以外なら――リュティス・ドラグノヴァに捧げた自分の魂と心以外なら、この少女に与えて、彼女の望むことは全て自分の手で叶えて与えてやりたいと強く思っていた。
あの第二王子を除くと彼が感情から、他者にはっきりとそういう情熱を抱くのは初めてのことだった。
それによって自分を生かそうという気持ちではない。
だが自分が生きている限りはそうしてやりたいという強い想いを。
ミルグレンは抱きしめられて安心した。
涙が零れて来る。
「……メリクさま……側にいさせてください」
彼女は言った。
「……、」
メリクは瞳を伏せる。
(それを君が望むなら)
「ずっと、一緒に……いさせて」
望む限りは――――。
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