第13章:ユキの影

 光の柱を抜けた瞬間、アオイとシオンの身体がふわりと浮き、視界が星の光に染まった。


 次の瞬間、彼らはエーテル界の新たな領域に立っていた。そこは「影の領域」としか形容できない場所だった。空間は薄暗く、霧のような光が漂っている。足元は黒いガラスのように滑らかで、かすかに揺らめく影を映していた。地面が存在しない星空のような空間から一転、この領域は不安定な暗闇だった。


 遠くには、巨大な光の輪が浮かび、その中心にぼやけた人影が揺れている。アオイの鼻がひくつき、甘い花の香りと湿った土の匂いが混じる空気を捉えた。彼女の耳は、遠くで響くユキの声――「アオイ、いい子ね」――を拾い、胸を締め付けた。


 だが、声にはどこか歪んだ響きがあり、彼女の心に不安を残した。


「ここ……なんか、変な感じ。ユキの声、聞こえたけど、なんか違う気がする……」


 アオイはつぶやき、黒いガラスの地面に映る自分の姿を見下ろした。彼女の瞳は猫のように光を反射し、動きには猫のしなやかさが残っていた。シオンはデバイスを手に、周囲をスキャンしようとしたが、画面は依然として乱れていた。


「データバンクにこんな場所、書いてなかった……。けど、あの光の輪、ユキに関係あるんじゃないか? お前の猫の勘、頼りにしろよ」


 シオンの灰色の瞳が光の輪を見つめ、励ますように笑った。アオイは頷き、シオンの言葉に勇気をもらった。


 *


(素晴らしい舞台だ、アオイ。影の領域は君の記憶を試す最終試練だ。ユキの影は物語の核心――さあ、彼女に近づけ)


 クロノの声が頭の中で響き、アオイは眉をひそめた。夢の守護者や影猫の警告――「クロノは君の物語を盗む者だ」――が頭をよぎり、彼女の不信感は頂点に達していた。クロノの言葉はいつも彼女の感情を「物語の素材」として扱い、まるで彼女の心を支配しようとしているようだった。


「クロノ、いい加減にして! 私の記憶、勝手に編集するのやめて! ユキに会うのは私の意志――あなたの物語じゃない!」


 アオイは心の中で叫んだ。クロノの声は一瞬沈黙し、冷たく笑った。


(意志? アオイ、君の意志は私の編集があってこそ輝く。君の記憶は乱雑すぎる――私が整理しなければ、君は影の領域で迷子になるぞ)


 アオイの胸に怒りが燃えた。彼女はシオンを振り返り、決意を込めて言った。


「シオン、クロノの言うこと、無視する。ユキの声、絶対本物だ。彼女に会うために、ここに来たんだから」


 シオンの灰色の瞳が真剣に彼女を見つめ、静かに笑った。


「いいぜ、アオイ。お前の心、めっちゃ強いよ。クロノが何企んでても、俺も一緒に戦う。行くぞ、光の輪のところまで」


 *


 光の輪に近づくと、霧のような光が濃くなり、空間が揺れた。


 輪の中心に、ユキのぼやけた姿が現れた。彼女は泣きながらアオイを呼び、声は鮮明だった。「アオイ、どこ? 戻ってきて」。


 だが、彼女の姿はどこか歪で、まるで影のように揺らめいていた。アオイの猫の感覚が疼き、ユキの香水――甘い花の香り――を捉えたが、どこか人工的な匂いが混じっていた。


「ユキ!?」


 アオイは光の輪に手を伸ばし、叫んだ。瞬間、記憶の洪水が流れ込み、彼女は膝をついた。――猫としてユキと過ごす穏やかな日々。星空を見上げる夜、彼女の笑顔、温かい手。だが、映像は暗転し、事故の衝撃が襲った。冷たい地面、遠ざかるユキの声。そして、ネオ・ルナリアの路地で目覚めた瞬間。映像はさらに進み、ユキが泣きながらアオイを探す姿が映った。「アオイ、どこ?」。


「ユキ! ここにいるよ!」


 アオイの声は空間に響き、涙が黒いガラスの地面に落ちて波紋を広げた。だが、ユキの影は揺らめき、すぐに消えた。アオイの胸が締め付けられ、彼女は叫んだ。


 *


「クロノ! これもあなたの仕業!? ユキの影、偽物なの!?」


 クロノの声は冷静だった。


(偽物? アオイ、ユキの影は君の心の投影だ。私はそれを整理し、物語として昇華しているだけだ。君の感情は強すぎて、整理しないと混乱する。さあ、光の輪に飛び込め。ユキが待っている)


 アオイは頭を振って立ち上がり、シオンを見た。


「シオン、ユキの影、なんか変だった。クロノが私の記憶をいじってるんだ。ほんとのユキに会いたい!」


 シオンの灰色の瞳が真剣に彼女を見つめ、静かに答えた。


「わかった、アオイ。クロノが何企んでても、お前の心は本物だ。光の輪、行くか? 俺も一緒だ」


 その時、空間が揺れ、影猫が再び現れた。半透明の身体、赤い目が光る姿。アオイは身構えたが、影猫は静かに囁いた。


「アオイ、ユキの影はクロノの罠だ。君の記憶を物語に変え、君を永遠にエーテル界に閉じ込める。君の心を信じろ。真のユキは君の記憶の奥にいる」


 影猫の言葉が終わると、その姿は光の粒子となって消えた。アオイは息を呑み、シオンに言った。


「影猫が……ユキの影は偽物だって。シオン、私、クロノに操られるの嫌だ。ほんとのユキを見つけたい!」


 *


 シオンの瞳が輝き、彼は力強く頷いた。


「いいぜ、アオイ。クロノの罠だろうが何だろうが、お前ならやれる。光の輪、行くぞ!」


 アオイは光の輪を見つめ、深呼吸した。彼女の胸に、ユキへの想いが燃えた。――「アオイ、いい子ね」。その声が、彼女を突き動かした。


 彼女はシオンの手を握り、光の輪に飛び込んだ。瞬間、強烈な光が彼女を包み、記憶の洪水が再び流れ込んだ。


 ――ユキの笑顔、星空、温かい手。事故の衝撃、冷たい地面。そして、ユキが泣きながらアオイを探す姿。「アオイ、戻ってきて」。映像は鮮明になり、ユキの顔がはっきりと現れた。彼女はアオイを抱きしめ、涙を流していた。


「ユキ! 待ってて! 絶対会うから!」


 光の輪が激しく輝き、アオイとシオンを飲み込んだ。空間が揺れ、彼女の物語は新たな段階へと進んでいた。


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