第8章:時間の迷宮
鏡の森の光が薄れると、アオイとシオンの前に新たな風景が広がった。
そこは「時間の迷宮」としか形容できない場所だった。石造りの回廊が無秩序に交差し、壁には光る模様が揺らめいている。空は紫と青が混ざり合い、星のような光が漂い、足元はガラスのように透き通っていた。歩くたびに時間が揺れるような感覚がした。
アオイの鼻がひくつき、甘い花の香りに混じる湿った土と金属の匂いを捉えた。遠くで響く時計の針のような音や、かすかな囁きを彼女の耳は拾っていた。
「ここ……ほんとに変な場所ね。なんか、頭がぐるぐるする」
アオイはつぶやき、壁に手を当てた。冷たい石の感触に、猫だった頃の記憶が疼く。ユキの膝の上で、窓の冷たいガラスに鼻を押し付けた感覚だ。彼女の瞳が、猫のように光を反射した。
「データバンクに書いてあった時間の歪み、ほんとにヤバいな。過去とか未来が混ざってる感じだ。デバイスも役に立たねえ」
シオンはデバイスを手に、スキャンを試みたが、画面は乱れたままだった。彼の灰色の瞳が迷宮の奥を覗き、不安げに揺れた。
(素晴らしい舞台だ、アオイ。時間の迷宮は君の記憶を試す場所だ。過去、現在、未来――すべてがここで交錯する。ユキへの想いを頼りに進め)
*
クロノの声が頭の中で響き、アオイは眉をひそめた。影猫の警告――「クロノは君の物語を盗む者だ」――が頭をよぎり、彼女の不信感はさらに強まった。
「クロノ、影猫が言ったこと、ほんと? あなた、私の記憶を勝手にいじってるよね? ここで何が起こってるか、全部教えて!」
アオイは心の中で問いかけた。
(教える? アオイ、物語は自分で発見するから面白いんだ。君の記憶は私が整理しているだけ――完璧な物語のためにね。ほら、迷宮の奥を見てみろ。君の過去が待っている)
クロノの声は軽やかだったが、アオイの胸に冷たい疑念が広がった。
突然、回廊の壁に光の膜が現れ、映像が揺らめいた。それは、猫としてユキの膝の上で丸まる姿だった。彼女の笑顔、温かい手、静かな部屋に響く本のページをめくる音が聞こえる。だが、映像は突然変わり、暗闇の中でユキの顔がぼやけて現れ、彼女の目が潤み、「アオイ、どこ?」と囁いた。アオイの心臓が跳ねた。
「ユキ!?」
彼女の声が回廊に響き、映像は消えた。アオイは膝をつき、胸を押さえた。記憶があまりに鮮明で、まるで誰かに編集された映画のようだった。
「アオイ、大丈夫か? また何か見た?」
*
シオンが駆け寄り、彼女の肩を掴んだ。アオイは涙を拭い、震える声で答えた。
「ユキの顔……見た。ぼやけてたけど、彼女、私を探してるみたいだった。シオン、私、ユキを見つけなきゃ!」
シオンの灰色の瞳が真剣に彼女を見つめ、静かに頷いた。
「わかった。なら、この迷宮の奥に行くしかないな。けど、時間の歪みが強すぎる。道を間違えると、変なところに飛ばされるかもしれないぜ」
(見事な感情だ、アオイ。ユキへの執着は物語のクライマックスにふさわしい。さあ、迷宮を進むんだ。答えはそこにある)
クロノの声は興奮気味だったが、アオイは無視した。彼女はシオンの手を借りて立ち上がり、迷宮の奥へ目をやった。回廊は無数に分岐し、どの道も光の膜で揺らめいている。彼女の猫の感覚が疼き、かすかなユキの香水の匂いを捉えた。それは甘い花の香りだった。彼女は直感に従い、一つの回廊を選んだ。
回廊を進むと、時間がさらに歪んだ。壁に映る映像が次々と変わり、アオイの過去と未来が混在した。猫としてユキと過ごす穏やかな日々、事故の衝撃、ネオ・ルナリアの路地で目覚めた瞬間。
そして、未来らしき映像――アオイが人間としてユキと再会し、抱き合う姿。だが、映像は不安定で、すぐに暗闇に飲み込まれた。
*
「これ……私の未来?」
アオイはつぶやき、胸を押さえた。映像があまりに鮮明で、まるでクロノが彼女に見せたい「物語」の一部のようだった。
「クロノ、これもあなたの仕業? 私の未来、勝手に作ってるの?」
(作る? アオイ、私はただ可能性を提示しているだけだ。君の心が望む結末――それが物語の形になる。さあ、進むんだ)
クロノの声に、アオイの不信感が爆発した。
「私の心!? クロノ、あなたが私の記憶や感情をいじってるんだろ! 影猫の言う通り、あなたは私の物語を盗もうとしてる!」
クロノは一瞬沈黙し、冷たく笑った。
(盗む? アオイ、君の物語は私の助けがあってこそ輝く。影猫は君の不安の投影にすぎない。惑わされるなよ、主人公)
その時、回廊の奥から影猫が再び現れた。半透明の身体に、赤い目が光る姿だ。アオイは身構えたが、影猫は静かに囁いた。
「アオイ、クロノの言葉は嘘だ。エーテル界は夢の領域――ここに長く留まれば、君は現実を忘れる。クロノは君を永遠の物語に閉じ込めようとしている。自分の心を信じろ」
*
影猫の声は、アオイの胸の奥に響いた。彼女はシオンを振り返り、助けを求めるように言った。
「シオン、影猫がまた……クロノを信じるなって。私、どうすればいい?」
シオンは一瞬考え込み、デバイスを握りしめた。
「正直、俺もクロノってやつ、怪しいと思う。けど、お前がユキを探したいなら、進むしかないだろ? 俺がそばにいる。自分で決めろ、アオイ」
シオンの言葉に、アオイの心が軽くなった。猫だった頃、ユキのそばで感じた安心感に似ていた。彼女は深呼吸し、影猫を見つめた。
「影猫、あなたが私の心なら、教えて。ユキはどこにいるの?」
影猫の目が一瞬揺れ、静かに答えた。
「ユキは君の心の奥にいる。だが、クロノがそれを隠している。迷宮の出口を探せ――そこに真実がある」
影猫は光の粒子となって消え、アオイは決意を固めた。
(良い試練だ、アオイ。影猫は物語のスパイスだ。だが、迷宮の出口は君の意志でしか見つけられない。さあ、進むんだ!)
クロノの声は高揚していたが、アオイはそれを無視した。彼女はシオンと並び、迷宮の奥へ進んだ。回廊の光が揺れる中、彼女の瞳はユキへの想いで燃えていた。シオンがデバイスを手に、出口の手がかりを探し始めた。
「この迷宮、出口があるはずだ。データバンクに書いてあった『時間の中心』って場所が、たぶん鍵だ。行くぞ、アオイ」
迷宮の奥で、かすかな光が揺らめいていた。それは、まるでユキの声が響く場所を指し示すように、アオイを誘っていた。
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