第6章:鏡の森

 エーテル界の「鏡の森」は、まるで夢の断片を閉じ込めた迷宮だった。


 木々はガラスのように透き通り、枝の先で光る葉が揺れるたびに、微かな音が空気を震わせた。


 地面は鏡面のように滑らかで、アオイとシオンの姿を映し出し、まるで二人とも宙に浮いているかのようだった。アオイの鼻がひくつき、甘い花の香りと金属のような匂いが混じる空気を捉えた。彼女の耳は、遠くで響く水の音や、どこかで囁くような声を拾っていた。


「ここ、ほんと変な場所ね……時間がぐにゃぐにゃしてるみたい」


 アオイはつぶやき、鏡のような地面に映る自分の姿を見下ろした。青みがかった瞳を持つ少女の姿だが、その動きには、猫のしなやかさが色濃く残っていた。彼女は無意識に身を低くし、木々の間を覗き込んだ。


「データバンクには、時間の歪みが強い場所って書いてあったけど……これ、ほんとにヤバいな。なんか、頭がクラクラする」


 シオンはデバイスを手に、周囲をスキャンしようとしたが、画面は乱れたままだった。彼の灰色の瞳が不安げに揺れたが、アオイを励ますように笑った。


「お前、猫っぽい動きしてるな。なんか、安心するよ。迷子になっても、お前なら道を見つけそうじゃん」


 *


 アオイは照れ笑いを浮かべたが、胸の奥で疼く記憶が彼女を落ち着かせなかった。ユキの声――「アオイ、いい子ね」――が、森の奥から聞こえた気がしたのだ。


(良い雰囲気だ、アオイ。鏡の森は君の記憶を探る絶好の舞台だ。さあ、過去を掘り起こせ。物語はここで深みを増すぞ)


 クロノの声が頭の中で響き、アオイは眉をひそめた。彼女は最近、クロノの言葉に、自分の感情や記憶を「素材」としてしか見ていないような冷たさを感じていた。


「クロノ、なんでそんなに物語にこだわるの? 私の過去、ほんとにあなたが言ってるみたいに大事なの?」


(当然だ。君の過去は物語の核だよ、アオイ。感情、葛藤、発見――それらが読者を惹きつける。ほら、森の奥を見てみろ。何かが見えるはずだ)


 アオイが視線を上げると、木々の間に揺らぐ光の膜が見えた。まるで水面のように、映像が浮かんでいる。


 ――猫として窓辺に丸まり、ユキの膝の上でまどろむ姿。彼女の笑顔、温かい手、静かな部屋に響く本のページをめくる音。映像は鮮明で、アオイの胸が締め付けられた。


「ユキ……」


 彼女が無意識に手を伸ばし、光の膜に触れた瞬間、映像が広がり、彼女は記憶の中に引き込まれた。――星空を見上げ、ユキの声が響く。「アオイ、ずっと一緒にいようね」。だが、突然、暗闇が襲い、事故の衝撃が彼女を飲み込む。冷たい地面、遠ざかるユキの声。


 *


 アオイはハッと我に返り、地面に膝をついた。涙が鏡のような地面に落ち、波紋を広げた。


「これ……私の記憶? でも、なんでこんなに鮮明なの?」


 彼女は胸を押さえ、息を整えた。記憶があまりに整然としていて、まるで誰かに編集された物語のようだったからだ。


(見事なフラッシュバックだ、アオイ。君の感情は物語に深みを加える。ユキとの絆――これが君の旅の原動力だ。続けろ!)


 クロノの声は興奮気味だったが、アオイの不信感はさらに強まった。


「クロノ、あなた、なんか変だよ。私の記憶、勝手にいじってるよね? まるで……私が感じるべき感情を押し付けてるみたい」


(押し付ける? 私はただ、君の物語を最適化しているだけだ。乱雑な記憶は読者を混乱させる。私の編集が必要なんだよ、アオイ)


 クロノの言葉に、アオイの背筋が冷えた。彼女の記憶は、ほんとうに彼女自身のものなのか?


「アオイ、大丈夫か?」


 シオンの声に、彼女は顔を上げた。彼は心配そうに彼女を見つめ、そばにしゃがんだ。


「なんか、変なもの見たみたいだな。エーテル界って、過去とか記憶が勝手に出てくるらしいぜ。気を強く持てよ」


 アオイは頷き、シオンの手を借りて立ち上がった。彼の温かい手に、猫だった頃に感じたユキの感触を思い出し、胸が温かくなった。


 *


「ありがとう、シオン。なんか、ユキのことがもっと知りたいって思えてきた」


「なら、進むしかないな。この森の奥、きっと何かあるぜ」


 シオンの笑顔に、アオイは勇気をもらった。


 その時、森の奥から低い唸り声が聞こえた。アオイの耳がピクリと動き、彼女は反射的に身構えた。


 木々の間から、黒い影が現れた。それは猫の姿をしていたが、身体は半透明で、目だけが赤く光っていた。「影猫」としか形容できないその姿に、アオイの心臓が跳ねた。


「誰!?」


 彼女の声に、影猫が一歩近づき、囁くような声で話しかけた。


「アオイ……お前はここにいるべきじゃない。クロノを信じるな。あいつはお前の物語を盗む者だ」


 影猫の声は、まるでアオイ自身の心の奥から響くようだった。


「何!? お前、クロノを知ってるの?」


 アオイが叫ぶと、クロノの声が即座に割り込んだ。


(ふむ、面白い障害だ。影猫は物語の攪乱要因だな、アオイ。無視して進め。君の目的はユキを見つけることだ)


「無視!? クロノ、こいつが言ってるの、ほんと!? あなた、なんなの!?」


 アオイの声は怒りに震えていた。影猫は静かに彼女を見つめ、ゆっくりと言葉を続けた。


 *


「私はお前のもう一つの影……お前の本当の心だ。クロノは、お前の記憶を物語に変え、支配しようとしている。気をつけろ、アオイ」


 影猫の言葉が終わると同時に、その姿は光の粒子となって消えた。


 アオイは立ち尽くし、頭を押さえた。シオンが彼女の肩を掴み、心配そうに言った。


「アオイ、なに!? なんか見えたのか? お前、めっちゃ青ざめてるぞ」


「影猫……クロノを信じるなって。シオン、私、クロノのこと、ほんとに信じていいのかな?」


 シオンは一瞬黙り、灰色の瞳で彼女を見つめた。


「正直、俺もそのクロノってやつ、怪しいと思う。けど、今は前に進むしかないだろ? ユキを見つけるためなら、俺も付き合うよ」


 アオイは頷き、シオンの言葉に力をもらった。彼女は鏡の森の奥へ目をやり、決意を新たにした。


 クロノの真意、影猫の警告、ユキの声――すべてがエーテル界の奥に繋がっている気がした。


(面白い展開だ、アオイ。影猫は物語にスパイスを加える。だが、気をつけろ。私の編集がなければ、君の心は混乱に飲み込まれるぞ)


 クロノの声はどこか冷たかったが、アオイはそれを無視して歩き出した。鏡の森の光が揺れる中、彼女の物語は新たな謎と向き合っていた。

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