第3章:クロノの囁き

 地下図書館の鉄の扉が、ギーッと軋みながら開いた。


 冷たく湿った空気が、アオイの頬を撫でる。暗闇の中、埃と古い紙の匂いが鼻を突いた。


 彼女の瞳はすぐに闇に慣れた。猫の夜目のような鋭さで、周囲の広大な空間を捉える。崩れかけた本棚が無秩序に並び、床には破れたページや壊れたデータパッドが散乱していた。遠くで、かすかな機械音が響いていた。


「ここが地下図書館か……なんか、思ってたよりボロボロだね」


 アオイはつぶやき、足元に落ちた紙片を拾い上げた。文字は掠れて読めなかったが、かすかに光るインクが不思議な模様を描いている。


 彼女の指が紙をなぞる。その瞬間、猫だった頃の記憶が一瞬よみがえり、胸が締め付けられた。――飼い主が本を読んでいた膝の上の温もり。


「ボロボロでも、ネオ・ルナリアの歴史が詰まってる。この街の表じゃ、こんな古いデータはすぐ消されるからな」


 シオンはデバイスを手に、薄暗い通路を進みながら言った。彼の声には、この場所へのどこか敬意が込められているようだった。アオイは彼の背中を見ながら、なぜか彼を信じたい気持ちが芽生えていることに気づいた。


(良い雰囲気だ、アオイ。地下図書館は物語の転換点にふさわしい。さあ、エーテル界の記録を探せ。君の過去がそこにあるかもしれない)


 *


 クロノの声が頭の中で響き、アオイは眉をひそめた。


 彼女は最近、クロノの言葉に違和感を覚え始めていた。まるで彼が自分の思考を操っているような――いや、もっと深いところで何かを「編集」しているような感覚だ。


「クロノ、あなた、なんか隠してるよね? エーテル界のこと、私の記憶のこと……全部知ってるくせに、教えてくれない」


 アオイは心の中で問いかけたが、クロノの声は軽やかに笑った。


(隠す? 私は君のゴーストライターだよ、アオイ。物語は適切なタイミングで情報を開示するのが鉄則だ。焦るな、主人公。すべては完璧な展開のためにある)


 アオイは唇を噛み、シオンの後を追った。


 通路の奥に、古いターミナルが青白い光を放っていた。シオンはターミナルにデバイスを接続し、画面に映るデータを素早くスクロールした。


「エーテル界の記録は、たぶんこのデータバンクの奥にある。けど、セキュリティが厳重で……ちょっと時間かかるな」


 彼の指がキーを叩く音が、静かな図書館に響く。アオイはそばにしゃがみ、猫のように身を低くしてターミナルの光を見つめた。彼女の鼻がひくつき、埃と電気の焦げる匂いを捉えた。


 *


 突然、彼女の頭に映像が閃いた。


 ――窓辺で丸まる猫の姿。


 飼い主の声が遠くで響き、温かい手が毛を撫でる。「アオイ、いい子ね」。


 だが、その声は途切れ、暗闇に飲み込まれる。映像はまるで切り取られたフィルムのように途切れ、アオイはハッと我に返った。


「今のは……?」


 彼女は胸を押さえ、息を整えた。記憶の断片が、まるで誰かに押し込まれたかのように鮮明だった。


(ほう、記憶のフラッシュバックか。良い素材だ、アオイ。君の猫の過去は、物語に深い情感を加える。これをどう使うか、楽しみだな)


 クロノの声は満足げだったが、アオイの不信感はさらに強まった。


「クロノ、あの記憶、あなたが呼び起こしたの? なんか……私の頭、勝手にいじられてる気がする」


(いじる? 私はただ、君の記憶を『整理』しているだけだ。物語は一貫性が大事だからね。乱雑な記憶は、読者を混乱させるだけだ)


 クロノの言葉に、アオイは背筋が冷えた。彼女の記憶が、クロノの手で「編集」されているとしたら――彼女が見ている過去は、本当に彼女自身のものなのか?


 *


「よし、アクセスできた!」


 シオンの声で、アオイは我に返った。ターミナルの画面に、古いテキストと図形が映し出されている。


 シオンは目を細め、データを読み上げた。


「エーテル界……『夢と現実の境界に存在する領域。時間の歪みが生じ、過去と未来が交錯する』。門の場所は……ネオ・ルナリアの外縁、廃棄区画の地下らしい。けど、鍵が必要って書いてあるな」


「鍵って何?」


 アオイは身を乗り出し、画面を覗き込んだ。彼女の瞳が、猫のように光を反射した。


「わかんねえ。『鍵は求める者の心に宿る』とか、詩みたいなことしか書いてねえよ」


 シオンは肩をすくめ、デバイスにデータを保存した。


 その時、図書館の奥から低いうなり声が響いた。アオイの耳がピクリと動き、彼女は反射的に身構えた。ドローンの羽音――市場で聞いたものより大きく、近くに感じられる。


「まずい、監視ドローンだ! 隠れろ!」


 シオンが囁き、アオイを本棚の陰に引き込んだ。彼女の身体は猫のようにしなやかに動き、狭い隙間に滑り込んだ。


 *


 ドローンの赤いレンズが図書館の通路を照らし、埃を舞い上げる。


(スリリングな展開だ! アオイ、君の猫の反射神経が試される瞬間だ。どうやって切り抜ける?)


 クロノの声は興奮気味だったが、アオイは無視した。


「シオン、ドローンを止められる?」


「やってみるけど、時間かかる。そっちで何か気を引いてくれ!」


 シオンはデバイスに集中し、アオイは深呼吸した。彼女は本棚の陰から飛び出し、床に落ちていた金属片を拾って投げた。


 金属片は通路の奥に当たり、甲高い音を立てた。ドローンがそちらに動き、アオイとシオンは反対側の通路へ走った。


「見事だ、アオイ! 君の行動は物語にアクションの彩りを加える。次は何をする?」


「クロノ、静かにして! 助けてくれるなら、ドローンの動きを教えてよ!」


 アオイは心の中で叫びながら、シオンの後を追った。彼女の足音は軽く、まるで夜の屋根を駆ける猫のようだった。


 *


 通路の突き当りに、別の出口が見えた。シオンがデバイスでロックを解除し、二人は図書館の外へ飛び出した。


 そこはネオ・ルナリアの廃棄区画だった。崩れたビルとゴミの山が広がり、遠くでガラス塔の光が揺れている。


 アオイは息を整え、シオンを見た。


「鍵……私の心にあるって、どういうこと?」


 シオンは肩をすくめ、デバイスをしまいながら答えた。


「さあな。けど、お前のその猫っぽい動きとか、頭の中の変な声とか……なんか、普通じゃないよな。エーテル界に行けば、答えが見つかるかもよ」


 アオイは頷き、胸の奥で疼く記憶を意識した。飼い主の声、星空、失われた何か――それらがエーテル界に繋がっている気がした。


(素晴らしい第一歩だ、アオイ。物語は加速している。だが、気をつけろ。私の編集がなければ、君の記憶はもっと混乱するかもしれないぞ)


 クロノの声に、アオイは一瞬立ち止まった。彼女はシオンの背中を見つめ、静かに決意を固めた。


 クロノに頼らず、自分の過去を自分で取り戻す――それが、彼女の物語の始まりだった。


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