朝
翌朝バレンティアは宮殿に来た。
正門前で自分を引き止める近衛兵に「レンディアヌ様の使いてす」と告げ、それに彼らが反応を変えたのが、バレンティアが今日一番目に愉快だと感じた事だった。鎧を着込んだ軍団兵が自分を前に姿勢を正すのは気分がいい。
正門を通り、宮殿に入ったバレンティアは落ち着かない様子で辺りを見回していた。使いとして宮殿に来たまでは良いものの、案内が一切ない。
警備に立つ近衛兵たちは、独特の威厳があって話し掛けづらい。それに話し掛けたとしても期待した反応が返ってくるとは思えなかった。
バレンティアが悩んでいると、誰かが歩いてくるのが見えた。
黒い板金鎧と赤い鶏冠がついた兜。腰には剣。胸元の金の徽章──近衛軍団の百人隊長だ。
「異常はないか?」
「はい、アレン隊長」
軍隊式の敬礼をする近衛兵とその肩を叩く百人隊長。その名を聞いた瞬間、バレンティアの鼓動が跳ねた。
(……アレン?)
記憶の奥に沈んでいた名が、水面に浮かび上がるように蘇る。
あの孤児院で、よく木の上に登って怒られていた少年。小石で窓を割っては言い訳を考え、いつも笑っていた少年。寒い夜、バレンティアに自分の毛布を半分譲ってくれた、あのアレン。
あのアレンか?
確かめようと顔を見てみるが、分からない。アレンはバレンティアとすれ違うと、軽く頭を下げて通り過ぎてしまった。
バレンティアはその背中を、ただ呆然と見送るしかなかった。
「ここで何を?」
振り向くとニーナが立っていた。整えられた巻き髪に冷ややかな表情、それはまるでバレンティアを記憶から現実へと引き戻す鍵のようだった。
「レンディアヌ様は既にお待ちです」
「あっ……いえ、その、どこに行けばいいか分からなくて」
咄嗟に笑顔を作ったが、自分でもそれが引きつっているのが分かった。
「場所は昨日伝えたはずよ」
「……そうでしたかね」
本当は「いや、言われてないですよ!」と言いたかったが、目の前の人物がバレンティアの指摘を素直に受け取るとは思えなかった。
ニーナはそれ以上何も言わず、くるりと踵を返した。
「案内するわ。来て」
「は、はい!」
バレンティアは慌ててその後を追った。石畳の廊下を進むたび、さっきのアレンの背中が脳裏に焼きついて消えない。
本当に、あれはあのアレンだったのか? それとも名前だけの別人だったのか。だとしても──
◇
レンディアヌ皇女の私室は、柔らかな陽光が差し込む、上品で整った空間だった。窓辺にはアヤラル・ミントが置かれ、白と金を基調とした家具が整然と室内を飾っている。だが、それ以上に目を引いたのは、部屋の中央にゆったりと腰かけたレンディアヌその人であった。
黒い衣が彼女の透き通った肌をより一層引き立たせる。「おはようございます」と笑う顔は、どんなに冷徹な者の心も溶かしてしまいそうだ。
「おはようございます……」バレンティアは頭を下げた。「遅れてしまって、すいません」
「どこに行けば分からなかったようで」
ニーナが言った。
レンディアヌはニーナの言葉にふと目を瞬かせ、すぐに小さく「ああ」と声をもらした。
「場所を伝えるのを忘れてました」
その一言にニーナは表情をわずかに強張らせたが、何も言わなかった。
「ごめんなさい」
「そ、そんな……お気になさらないでください」
気を遣わせてしまったという後ろめたさはあったが、それ以上に、こうしてまっすぐに受け入れてくれるレンディアヌの優しさに、バレンティアの胸には安堵と温かさが広がっていた。
◇
宮殿の中庭は、静謐な空気に包まれていた。
噴水の水音が微かに響き、手入れの行き届いた草花が風に揺れている。青色のアヤラル・ミントの香りが優しく漂い、草花や木々が朝日を受けて柔らかく光っている。その中で大樹の側に置かれた椅子にレンディアヌは腰掛けた。側には白い墓石が二つ備えられている。
「それには悲しい話があるんですよ」
バレンティアが墓石を見ていると、レンディアヌが優しく言った。
「今度──」
レンディアヌが言おうとした時、賢者が静かに現れた。背筋はぴんと伸びていて、顔も若々しい。だがその目は穏やかで、表情は柔らかかった。
「バレンティアさんです」
スリンデルは視線をバレンティアを向けた。「ああ、あなたが例の祝宴で──」と言うと、彼は笑みを浮かべた。「レンディアヌ様とリリアント様の御慈悲に感謝ですな」
「……ええ」バレンティアは目を背けて言った。
「さて、今日は」
スリンデルは席につくと、長く巻かれた羊皮紙を取り出した。そこには古めかしい文字が緻密に並び、年輪のような図形がいくつも重なっていた。
「エルフ消失後の戦乱時代についてについてお話しましょう、エルフの突然の消失後、我々パラントは──」
スリンデルの声は穏やかで眠気を誘う物だった。
バレンティアは口を開けずに欠伸をしつつ、隣で静かに話を聞くレンディアヌの横顔に目をやった。彼女はただ黙ってうなずき、時折短く質問を挟む。その言葉は的確で、簡潔で、そして美しかった。
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