皇女レンディアヌ

モドキ

序章

一つの空  二人の道

 その日、皇帝ドーリン一世と皇妃リリアントは花嵐の中、宮殿の高きバルコニーから静かに眼下の光景を見下ろしていた。


 夏の陽光に照らされ、赤く染まった花弁たちは風に翻弄されながら宙を舞い、時に渦を巻いては優雅に流れ落ちる。まるで神々が祝福の意志を地上へと送り届けているかのようだった。花弁が舞い降りる先には、広場を埋め尽くす民衆の姿があった。老若男女が揃い、誰もが顔を紅潮させ、喜びに打たれている。その姿は、まるで奇跡の到来を目の当たりにした信徒のようであった。


 帝国の旗が翻る門前には、数え切れぬほどの人々が列をなし、声高らかに叫びを上げていた。歓声は厚い石の城壁を震わせ、城の塔の先端へと届かんばかりに空へと舞い上がる。その熱狂は、まるで天地が共鳴するかのように広がり、帝都全体をひとつの祝祭の場へと変えていた。


 リリアントは、その賛美と祝福の声に包まれた光景を見つめながら、ふと遠い記憶の扉を開いた。今とはまるで異なる、冷たく澱んだ視線と、怒号に満ちたあの凍てつく日の記憶を。


  ──あの日、彼女はこの都に「皇帝の花嫁」として迎えられた。だがそれは決して祝福された到着ではなかった。


 あの時の空は曇っていた。重く垂れ込めた灰色の雲の下、民衆の表情は沈痛で、街の空気には疑念と敵意が満ちていた。リリアントの豪奢な衣装も、整えられた髪も、微笑む唇も、すべてが人々の不信と反感を煽る材料となった。彼らは彼女を、「帝国を荒廃させた前政権の影」として糾弾した。彼女の美貌は「偽りの仮面」、その気高さは「傲慢の象徴」とされ、ただそこにいるだけで人々の怒りと恐れを引き寄せてしまったのだ。


  ──兄の暴政に抗い続けた日々。

 ──国を憂いて放った言葉が、諫言としてではなく反逆の種とされ踏みにじられた夜。

 ──沈黙することなく真実を語ったがゆえに受けた屈辱と孤立。


  リリアントの努力は人々の先入観と思い込みが作り上げた彼女に対する「負の感情」という壁で見えなくなり、その壁が人々の真実となった。



 だが、今や民は彼女を「慈愛と叡智の皇妃」として称え、彼女の微笑みに癒やしと希望を見るようになっていた。偽らず、気取らず、誠実に人々と向き合い続けた彼女の姿勢が、徐々に帝国全土の心を解かしていったのだ。


「皇女様万歳! 皇女様万歳!」


 人々の声が波のように押し寄せる中、リリアントは静かに微笑み、バルコニーの縁に立って手を振った。その仕草には女王としての誇りと、ひとりの母としてのあたたかさが滲んでいた。


 その腕には、絹の産着に包まれた小さな命──彼女とドーリンの娘、皇女レンディアヌが抱かれていた。透き通るように白い肌。その小さな手が、時折花弁に触れようと宙をさまよっている。


「よしよし……良い子ね」


  リリアントは娘の頬にそっと頬を寄せる。温かなぬくもりが伝わり、目尻に溜まった涙がこぼれそうになる。それは喜びであり、安堵であり、かつて耐えた年月への、ささやかな報いでもあった。


 彼女はその涙を隠そうともしなかった。むしろ、それが今という奇跡の瞬間の証なのだと思った。


  隣に立つ夫、皇帝ドーリンは、皺深く刻まれた顔に穏やかな笑みを浮かべ、無言のままリリアントの肩に手を置いた。


  言葉はいらなかった。苦難を共に歩んできたふたりには、ただ視線を交わすだけで、すべてが伝わる。


 夫妻の背後では、スリンデルが鼻をすすりながら盛大に涙をこぼしていた。その顔には、ただただ純粋な感動と安堵、そして深い忠誠心が浮かんでいた。


「レンディアヌ様、万歳!」


 民衆の声が再び轟いた。未来を託された新しき命。その響きは、宮殿の厚い壁を貫き、街の石畳に染み込み、路地裏の小さな家々にさえ届いていた。祝福は、帝国の隅々にまで染み渡っていく──まるで、この小さき皇女の誕生が、帝国そのものの新生を告げているかのように。





 華やかな祝宴の音が、遠くからでも聞こえてくる。


 皇帝ドーリン一世の腕に抱かれた皇女レンディアヌ。民衆はその愛らしい姿に喝采を送り、宮殿の塔には無数の花が舞っていた。


 けれど──その時、都の片隅で、バレンティアは一人、路地に立ち尽くしていた。


「……クビ、かぁ」


 日雇い仕事の札がついた服の袖をぎゅっと握りしめる。さっきまで働いていた酒場の親方から解雇を言い渡されたばかりだ。


「もういい! 次は頼まん!」


 酒を落として、豪快にぶちまけてしまった。それだけならタダのミスだ。しかし、それが偉そうな商人の服にかかってしまい、その客の顔を殴ったとあってはクビになるのも仕方がない。許してやるからと陰湿な笑みを浮かべ、別の「謝罪」を客が要求してきた時、つい手が出てしまったのだ。


 言い訳はしなかった。ミスしたのは自分だし、殴ったのも本当だ。怒鳴られても仕方ない。


「はぁ……やっちゃったなぁ……」


 靴の先で石を蹴る。今日の稼ぎは、たった半日分。あと数日分は必要だったのに、もう明日の仕事も見つかっていない。


 お祝いの音が、耳の奥で響くたびに、遠くにいる皇女と自分との差を思い知らされる。


(皇女様って、どんな気持ちなんだろうな)


 生まれた瞬間から、誰かに愛されて、祝われて、守られて。


 自分は、誰に祝われるでもなく、いつも働き口を探して、ドジをすればすぐに放り出されて。


 ──でも。


 ぱちんと頬を叩いて、バレンティアは顔を上げた。涙ぐんでいた目元も、きゅっと笑顔に変わる。


「切り替えていこう!」そう自分に言い聞かせて歩き出す。どんな失敗をしても笑顔を失わなければ進める。悪い事が起こっても明日はきっと良い日になるはず。バレンティアはくじけなかった。


 祝福の鐘の音が響く中、彼女は前に進むのだった。

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