暁ノ君に嫁ぎし宵、契りを拒みし神子は二度目の祈りを結びなおす
桜塚あお華
第01章 白羽の娘と契約の婚
第01話 神託の告げ
けれど、この地では季節など意味をなさない。
社の空気はいつも同じ、ぴんと張り詰めたまま変わる事なく、時を止める場所。
神に近づくための隔絶の場。白羽の巫女たちが、何代も守り続けてきた祈りの座。
香の煙が静かに立ち上り、金色の陽が欄間から差し込んでいる。
厳かな沈黙の中、十四歳の少女・
薄絹の衣がひとひら揺れる――結い上げた髪に吊るされた水晶の飾りが、光を受けて淡く揺れていた。
少女、宵こそが神の血を引く『白羽の一族』の娘。
その身に流れるのは神子の血――そして、役目を背負う定め。
白衣に身を包み、足音ひとつ立てずに本殿の中央へと進む。
彼女は宵の育ての母であり、同時に白羽の社で最も神に近い者。
巫女としての象徴であり、宵にとってはこの世界の全てだったと言っていい。
「宵」
その名が呼ばれた瞬間、空気がふるりと震えた気がした。
静かに顔を上げると、千歳は祭壇の前でまっすぐこちらを見ていた。
手には玉串。純白の紙垂が、ゆるやかに揺れている。
「――神の声が降りました」
澄んだ声が社に響く。静寂の中に、はっきりと刻まれる言葉。
「汝、
(……ああ、やっぱり)
宵は心のどこかで、そうなるのではないだろうかと、わかっていた。
けれど、耳にした瞬間、宵の胸の奥で何かが跳ねる感覚がした。
まるで鳥の羽ばたきのような、ひどく小さくて、それでも無視できない震えだった。
神託は絶対――それは『白羽の一族』として生まれた者が、生まれた瞬間に刻まれる宿命。
神の器として、どの国に嫁ぎ、どの地を守るのか。
それはすべて、神のみが定める。
「……はい。これが私の役目ならば、その祈りの道を進みます」
返事は自然と口をついて出た。
それが正解だと、ずっと前から分かっていたから。
千歳はひとつだけ、静かにうなずいた。
「……心を鎮めなさい。今日から、あなたは『契りの巫女』となり、暁の王家を支えるのです」
玉串を両手で捧げると、宵は目を閉じる。
香の煙がその頬を撫で、天井に向かってすっと上っていく――この場所にいる限り、宵は神子だ。
感情を持たぬ器として、祈りと清めを繰り返す存在。
――けれど。
けれど、今。
胸の奥で、小さな『違和感』が生まれている。
(……なぜ、怖いと思ってしまうの?)
十四の春――初めて受けた真の神託。
それは、命じられるままに祈りを捧げてきた日々に、はっきりと終止符を打つものだった。
宵は知っていた――神子として選ばれた巫女は、いずれどこかの王家に嫁ぐのだと。
でも、それはまだずっと先だと思っていた。
今の自分が『誰かの妻』になるなど、現実味のない夢のような話だと――それは、夢ではなかったのだ。
『誰かのもの』になる、それが神子という立場。
与える者であって、望む者ではない。
――宵は静かに、手を重ね合わせた。
この身は神に捧げられたもの。
望まれるまま、差し出されるべき存在。
そう教えられてきた。何度も、何十回も。
――けれど。
(私は……本当に、それでいいの?)
湧き上がる問いは、すぐに祈りの中に沈められた。
疑問も、恐れも、宵には必要のない感情だ。
だが、どうしても消えてはくれなかった。
それはたった今、芽吹いたばかりの自分自身の『感情』だったから。
儀式が終わると、宵は社の裏手にある小さな池へと足を運ぶと、水面には雪解け水が流れ込み、ひやりと澄んだ空気が漂っていた。
ここは、幼い頃からのお気に入りの場所。
悩みがあるわけではなかったけれど、何となくここに来たくなる時があった。
――今日もそうだ。
水面をのぞきこむ――そこに映った顔は、まだ少女の輪郭を残していた。
けれど、瞳だけが違っている。
見たことのない色をしていた。
強くて、でもどこか……脆くて、震えている色。
「……暁の、王子様」
はじめて、口に出して呼んだその名は、ひどく遠く感じた。
それは、自分の運命を決めた相手の名。
これから会うことになる『夫』の名。
知らない、何も知らない。
顔も、声も、どんな性格なのかも。
ただ、暁の国の王太子であるということ以外、何一つ。
(その人は、私を『人』として見てくれるでしょうか)
ふと、そんなことを思ってしまった。
それは、巫女としてあってはならない考え。
神子にとって、嫁ぐ相手が誰かなど、重要ではないはずなのに。
けれど、宵は――人だった。
ただの少女として、心のどこかで、願ってしまったのだ。
(せめて……名前で、呼んでくれたらいいな)
そんなささやかな望みすら、宵は口に出せない。
でも、胸の奥にそっとしまっておくくらいは、許されるだろうか。
春の風が吹いた。
山桜の枝から、ひとひらの花びらが宵の肩に舞い落ちる。
それはまるで、見えない何かが優しく触れてくれたような、そんな気がして。
宵は小さく息を吐いた。
「私は、祈ります……どこにいても。誰に仕えても」
そう言って、そっと花びらを水面に流す。
小さなその一枚は、まるで意思を持っているかのように、するすると流れていった。
――そして、遠く。
まだ見ぬ未来の地へと、消えていった。
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