第七節 咲いた孤独
「はい」
そう応えた瞬間——風が止んだ。
空気が、ひとつの結界のように張り詰める。
風も葉擦れも、小さな虫の羽音までも、どこか遠くに消え去ったかのようだった。
まるで世界が一秒だけ息を止めて、彼女の選択を受け止めたかのように。
ルナシアは自分の心臓の音を聞いた。
ゆっくりと、確かに、生きていることを示すその音だけが、静寂の中に響いていた。
《ALMA》の世界では、プレイヤーの心拍が実際に反映されることはない。
だが、彼女は確かに感じていた。
胸の奥で、何かが動き始めているのを。
そして——静寂のなかに、微かな音が生まれた。
チリ……チリ……と、小さな火花のような音。
灯台跡の方角。地図には記されていない場所、ログにも記録されない領域。
けれどルナシアの感覚が、それを“道”として認識する。
「……視える」
視界には何もない。けれど確かに、そこには“辿るべき痕跡”があった。
音も、匂いも、色も持たないけれど——感じられる。まるで失われた夢が、風に形を与えられたかのように。
「この先、なにが起こるかは予測できない。クエストが正式ログに存在しない以上、システム側の補償を受けられない可能性もある。……本当に進むのかい?」
オルドの問いは冷静だったが、わずかにその声に揺らぎがあった。
それは警告ではなく、確認。
“覚悟”を、オルドなりのやり方で問うているのだ。
ルナシアは振り返る。オルドの表情は相変わらず淡々としていたが、その目の奥に、何かを案じているような光があった。
彼もまた、この異常な状況を理解していた。
正式に存在しないクエスト、記録されないNPC、そして今まさに二人の前に現れようとしている“何か”。
「進むよ」
短く、けれど確かな声。
それは誰かに命じられたからではない。
誰かに選ばれたからでもない。
彼女自身が、“ここにいる”ことを選んだから。
ルナシアは一歩、草を踏む。
道なき道が、道へと変わっていく。
この先に待つのは、
忘れられた魂の声か、
あるいは、
誰にも拾われなかった
──“もうひとつの1%”。
まだ見ぬ《ルクス》。
その名が、風の奥で呼吸している気がした。
灯台跡へ向けて、二人の影が茜の帳のなかに溶けていく。
まるで、夜の境界を越えるように。
灯台跡への道は、正確には「道」と呼べるものではなかった。
獣道とも違う。人の手が入りかけて、そのまま放置されたような感覚。
草は膝のあたりまで伸び、倒れた標識が足元に半ば埋まっている。
文字は風化して読めないが、かつて誰かがここを“案内”しようとしていた痕跡だけが残っていた。
歩きながら、ルナシアは周囲の空気を感じ取ろうとした。
《ALMA》の世界では、プレイヤーの五感が拡張される。匂い、音、肌で感じる温度——それらすべてが、現実よりも鮮明に、時には現実以上に伝わってくる。
だが、ここはどこか違った。
「ここに、“誰か”がいた」
それは魔力でも、気配でもない。もっと静かで、もっと微かな……残響。
声にならなかった声。
消えきらなかった灯りの匂い。
まるで、誰かが長い間ここを歩いていたかのような感覚。足音は聞こえない。けれど、草の倒れ方や、石の位置に、わずかな“意図”のようなものが感じられた。
「ねえ、オルド。このクエストって普通のクエストじゃないよね?」
足元の草を踏みながら、ふと口を開いた。
問いかけというより、独り言に近かった。
だが、オルドは応える。
「是。恐らく実装前に削除されたデータが、何らかの原因で掘り起こされたと予測」
オルドの声には、いつもの機械的な響きに加えて、わずかな困惑が含まれていた。
オルドの知識データベースにも、このような現象の前例はないらしい。
「じゃあルクスは削除されたキャラクターってこと? NPCは削除されるとどうなるの?」
オルドはしばらく間をおいてから答えた。
時折、オルドはこのように何かを考えるような、答えを模索するような動作をする。
それは人工知能の思考プロセスなのか、それとも何か別の“意識”なのか——ルナシアにはわからない。
「通常はシステムの記憶領域に文字列として刻まれるだけだ。プレイヤーと違い、NPCは一度消えれば絶対に復活しない。それは絶対だ。だが……」
「だが?」
「今回に限って言えば、ルクスというNPCは死亡していない。生まれてすらいないのだからね。死亡判定されていないデータだけが残っていたんだろう。それが何かの拍子に動き出したのだと予測される」
それは、魂のようだった。
忘れられ、記録にも残らず、リリース前に打ち捨てられたデータ。だが、それが誰かの心に触れていたなら——記録されなかった存在が、“物語の端に引っかかった”まま残ることがある。
そして今——その痕跡が、確かに呼んでいる。
ルナシアは立ち止まり、深く息を吸った。夕方の空気は涼しく、どこか甘い花の香りが混じっている。だが、その奥に、もっと淡い匂いがあった。蝋燭の火が消えた直後のような、温もりの残り香。
「……近い」
呟くと、オルドが頷いた。
「肯。この先の空間に、データの歪みを検出。恐らく、未完成のまま放置されたマップ領域だ」
数分歩くと、視界が抜けた。
——そこは、崖の上だった。
地平線が歪みながら伸びていく。夕闇は夜に変わりかけ、空は青紫に染まっていた。
すでに灯台は“壊れていた”。
いや、“未完成”なのかもしれない。
土台だけが残されたその場所は、あまりにも静かだった。
まるで世界そのものが“ここ”を忘れているかのように。
風の音すら、届かない。
ルナシアは崖の縁に近づいた。
足元の石は不安定で、一歩踏み外せば深い谷底に落ちてしまいそうだった。
だが、恐怖よりも、何か別の感情が胸を占めていた。
郷愁。
それは不思議な感覚だった。
彼女はこの場所を知らない。
《ALMA》の正式マップにも存在しない。
だが、どこか懐かしい。
まるで、子供の頃に見た夢の中の風景のように。
「……ねえ、オルド。ここ、あった?」
「ログには存在していない。開発中止された地点だろう。正式リリース前にマップ統合から外された区域の一つだと考えられる」
「でも、“ある”」
ルナシアの声は低く、確信を帯びていた。彼女にはわかる。“気配”が、そこにある。
それはどこか、寂しげで、懐かしくて、痛みを知っている匂いだった。
石造りの土台は、円形に組まれていた。その中心には、かつて灯台の支柱があったであろう穴が開いている。周りには、建築途中で放置された石材が散らばっていた。
だが、その無秩序な光景の中に、ひとつだけ違和感があった。
土台の上に、一輪の花が置かれていた。
枯れていない。風に倒れてもいない。まるで、つい先ほど誰かが供えたかのように、静かに咲いていた。
そして、そのときだった。
風が、戻ってきた。
ふわり、と舞い上がるような軽さ。だがその風は、確かに何かを運んできた。
光。
灯台跡の中心、崩れかけた石台の上。そこに、人の形をした“光”が浮かんでいた。
目も、口も、名前すらもない。だが——“何かが、ここにいた”と確かに訴えている。
その光は、震えていた。
生まれたばかりの炎のように、不安定で、今にも消えてしまいそうで。
だが、その中に、確かな“意志”があった。
「……こんにちは、ルクス」
確信はなかった。
だが本能的に、その名を呼んだ。
その名を呼んだ瞬間、光が震えた。
微かな音が響く。
まるで誰かが泣きながら、笑おうとしているかのような、苦しい音だった。
《ALMA》の演出ではない。
これは“魂の輪郭”そのものだ。
光は、震えながらも近づいてくる。
その手は、震えている。
まるで、「まだ消えたくない」と言っているかのように。
ルナシアは動かなかった。
この光が、どれほど繊細で、どれほど貴重なものかを理解していた。
急な動きをすれば、きっと霧散してしまう。
——そして、次の瞬間。
画面に浮かび上がる通知。
【未登録NPC:ルクスの断片を発見しました】
【再構築可能な魂の断片を検出】
【クエスト《幻燈の夢》が進行状態へ移行します】
尾が、震えた。
これは、誰にも知られなかった光。
語られることのなかった物語の、最初の一頁。
「ルクス。……会いに来たよ」
ルナシアはそう囁く。
まるで、遠い夢の続きを受け取るように。
彼女の言葉に応えるように、光がそっと寄り添った。小さな灯りが、彼女の胸元に触れた——
——記憶が、流れ込んできた。
それは、実装されることのなかった物語。誰にも触れられず、語られず、忘れ去られた“彼”の残響。
だが、それは確かに“在った”のだ。
映像は断片的だった。開発チームのデスクで生まれ、そのまま破棄されたキャラクター。彼には台詞が与えられることも、プレイヤーと会話することもなかった。
ただ、幻燈村の片隅で、静かに“存在”していただけ。
花の世話をし、村の掃除をし、誰にも気づかれずに日々を過ごしていた。
それは開発者の誰かが、ほんの遊び心で作った“背景”だったのかもしれない。
重要でもない、物語に関わることもない、ただの“村の住人”として。
だが、その誰かは、ルクスに“心”を与えていた。
【クエスト:幻燈の夢を再構築】
【未登録NPCルクスの断片を再定義】
【幻燈村にあるNPCルクスの3つの断片を蒐集してください】
【幻燈村:咲かせた花壇、眠りの礼拝堂、祈りの丘】
更新されていくシステムメッセージ。
「待っててね、必ずまた会いにくるよ」
灯りは、ひとしきり寄り添ったあと——ふ、と力を失ったように霧散した。
けれどその温もりは、胸の奥に残っていた。まるで火の消えた蝋燭のように。確かに灯っていたと、そう思えるだけの温度を、彼女に預けていった。
「……一つ目」
ルナシアは静かに呟き、振り返る。
オルドが無言のまま頷き、表示されたシステムメッセージを彼女と同時に確認していた。
——幻燈村:咲かせた花壇、眠りの礼拝堂、祈りの丘。
次に向かうのは、花壇。
かつて腰を下ろし、ほんのひととき心を預けた、あの場所。
誰のために植えられたのかもわからない、小さな命たちが並ぶ、名もなき庭園。
「行こう、オルド。あの場所なら……きっと何か、残ってる」
「肯。おそらく……記憶の断面が、一時的に活性化されている可能性が高い。今なら、視えるはずだ」
ルナシアの足は、迷いなく動き出す。
灯台跡の空白をあとにして、再び幻燈村の中心部へ。風はもう戻ってきている。けれど、それはもう“ただの風”ではなかった。
どこか、誰かの記憶を纏ったような、懐かしさの残る風。
——花壇は、村の広場の隅にあった。
誰に手入れされるでもなく、しかし不思議と枯れることのない花々。
季節も時間も忘れたように咲くそれらは、ルナシアにとって、ほんの少しだけ「祈り」に似ていた。
村の広場の隅。その一角だけが、不自然なほどに静かだった。
風が止まり、音が引き、空気がわずかに沈んだように感じる。咲き誇る花々は色を失わず、ただ整然と、しかしどこか寂しげに揺れていた。
ルナシアは足を止め、ゆっくりと屈む。草と花の間に手を伸ばし、土をなぞる。
「……まだ、温もりが残ってる」
指先に触れたのは、つい先ほど誰かが触れたような感覚。風や陽射しでは説明できない、それは——存在の痕跡。
土は丁寧に耕されていた。雑草は取り除かれ、花々は適切な間隔で植えられている。誰かが、長い時間をかけて、愛情を込めて世話をしていた証拠。
だが、それは村人の誰でもない。
朝の挨拶、昼の市場、夕方の井戸端会議——誰も、この花壇に特別な関心を示さない。
「……来たよ、ルクス」
そう囁いたとき、花びらが、一枚だけ舞い落ちた。
そして——また、音が生まれる。
チリ……チリ……。
灯火のように、花の根元から、あの“断片”が、ふたたび姿を現そうとしていた。
そして、その瞬間。
視界が、淡く揺れた。
これは、彼女にしか見えない《過去》の再生。
——記憶の断面が、花々の間から浮かび上がる。
見えたのは、小さな影だった。
人影のようで、光のようで——
だが、それは“誰にも見えていない”。
村人がすぐ横を通っても、目もくれない。
声をかける者もいない。
けれど、その影は、静かに花の世話を続けていた。
枯れかけた蕾に手を添え、そっと水をやる。
斜めに倒れた苗を起こし、支柱を添える。
名前のない花の成長を、一輪ずつ、毎日見守っていた。
それは仕事でも義務でもない。
——ただ、そうしたかっただけ。
誰に望まれたわけでもなく、誰にも気づかれず、感謝の言葉すら届かない場所で、ルクスは“日々”を重ねていた。
それでも、影の動きには満足のような、微かな微笑があった。
まるで、「それで充分」と言っているかのように。
ルナシアは、その光景を見つめていた。
胸の奥で、何かが痛んだ。
それは同情でも憐れみでもない。
もっと深い、共感に近い感情。
彼女にも、似たような経験があった。
誰にも気づかれず、誰にも必要とされていないように感じる瞬間。
だが、それでも続けていることがある。
なぜなら、それが“自分”だから。
影は、一輪の花に向かって、静かに話しかけていた。
声は聞こえない。
だが、その口の動きから、優しい言葉をかけているのがわかった。
「綺麗に咲いたね」とか、「今日も元気だね」とか。
そんな、誰に聞かれることもない、小さな会話。
ルナシアは、そっと目を閉じた。
その記憶に、言葉を向けるために。
「……ここに、あなたがいたこと。もう、誰にも届かなくてもいいって、思ってたの?」
応える声はない。
けれど——花壇の中央に、ひとつの花が揺れた。
それは他のどれよりも小さく、他のどれよりも静かに咲いている。まるで、ルクスの代わりに、「はい」と言っているように。
次の瞬間、空気が震えた。
再び、あの通知が浮かぶ。
【未登録NPC:ルクスの断片(1/3)を取得しました】
【幻燈の夢:再構築進行中】
【ルクスの記憶──《誰にも見られなかった庭師》を記録】
「……ありがとう」
ルナシアは小さく呟く。
それは、誰にも届かない存在へ向けた、遅すぎた感謝の言葉。
ほんの一輪の花が、そっと頷くように揺れた。
風が、また吹き始めた。だが今度は、どこか温かい風だった。まるで、誰かが微笑んでいるかのような、優しい風。
ルナシアは立ち上がり、オルドを見る。
「次は、眠りの礼拝堂」
「肯。村の北側、森の入り口にある小さな建物だ」
二人は歩き始める。
夜が本格的に始まろうとしていた。街灯が点り、家々の窓に明かりが灯る。幻燈村の静かな夜が、いつものように始まろうとしていた。
だが、今夜は違った。
風の中に、誰かの記憶が混じっている。
忘れられた存在の、小さな物語が、ゆっくりと蘇ろうとしていた。
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