第13話 黒いお城の竜とヤナ②

 温かい思い出がありました。

 優しいおばあさまと両親に囲まれて、貧しいながらも幸せな生活でした。

 近所の人たちと食べ物を交換したり分け合ったりしながら、ご飯を食べることができていました。

 学校にいつも行くことは難しかったけれど、それは他の家の子供も同じでしたし、おばあさまから刺繍を教えてもらっていたのです。

 冬の間に縫い上げた刺繍のシャツヴィシヴァンカは、村の富農が街へ売りに行ってくれるので、生きるための助けになっていました。


 弟が生まれたのもその頃です。

 鶏が卵を産み、牛が子を産むこと。弟の誕生はそれらにも似て、そしてどこまでも大きく異なっていました。

 弟が生まれたとき、ヤナはお母さんの手を握っていました。青白くなるまで握られた手の痛みもそのときは気になりませんでした。

 赤く血で汚れた、まだ人になりきっていない、弱くて、怖くて、まだ愛おしいとも思えない命。

 それを見たときヤナは、言葉では言い表せない衝撃を受けました。恐怖と使命感とがないまぜになった感情がヤナに押し寄せてきました。

 近所のおばさんたちが声をかけ合いながらせわしなく動き回り、やがて特別な刺繍の入ったおくるみに包まれた弟が運ばれてきます。

 お母さんに抱かれた赤ちゃんはもうきれいに拭われて、ただ新しい命だけがそこにありました。

 ヤナは気付けば自然に赤ちゃんに手を伸ばしていました。指先が赤ちゃんの手のひらに触れると、赤ちゃんはぎゅっと握り返します。

 そのときのことを生涯忘れることはないでしょう。

 弱々しいはずのその手は驚くほど強くて。

 ヤナは『ぜったいにこの子を守ってあげよう』と心が震えたのでした。


 それから時間が流れて。弟は寝返りをするようになって、ヤナに向かって笑うようになって、ハイハイをして、ものに掴まって立つようになったころ。

 おばあさまが天に召されました。

 穏やかな顔で旅立っていきました。家の中が悲しみに包まれるなか、弟だけが不思議そうな顔をしていて、ヤナはそれに少しだけ救われたような気持ちになったのでした。


 そして、そこまでです。穏やかな生活の思い出は。


 まず富農のおじさまたち家族がどこかに連れて行かれました。

 そして小麦の取り立てが激しくなりました。小麦があるはずのない、かまどの中、ベッドの下まで探され、家の近くの地面すら掘り返されました。それでも足りないので、おかしな人達は次にまく種小麦さえ奪っていきました。

 秋にまく小麦はありません。そしてそれより、その日に食べるものすら村のどこにもなくなっていきました。

 秋が終わり村に病気が流行り始めました。食べるものがないので、子供や老人から倒れ、亡くなっていきました。

 そしてお母さんも天に召されました。ヤナと弟にご飯を譲っていたために、生きることはできませんでした。

 近所の人たちもお腹が空いて動くことができないので、お父さんと一緒に庭先の土を掘ってお母さんを弔いました。


 その頃からです。不思議な言い伝えのことを口にする人が村に増えてきました。

 それは竜のお話。

 ある人は、森の奥の湖に住み、娘の願いを叶えた竜のお話を語りました。

 そしてある人は、金銀財宝を支払った商人の病を治した竜のお話を語りました。

 異なる場所で起きた竜の話が混ざり合い、追い詰められた村人によって一つの言い伝えへと変わってゆきます。

 すなわち、贄を対価に願いを叶える竜の話へと変わっていきました。

 誰もそれが本当の話とは思っていなかったのに、誰もがその話にすがり始めました。

 そうしなければ、あらゆる親は子供の未来を見られませんでした。そうしなければ、あらゆる子供は苦しい今を生きられませんでした。

 ヤナはそんな村の様子が怖くて堪りませんでした。優しかった人たちが、誰かが犠牲になってくれるのをずっと願っている。

 そんな雰囲気が怖くて堪りませんでした。


 けれど。

 家の中で咳が聞こえました。

 こほこほと苦しそうな音が家の中に響きます。

 時間はありません。

 何をすることもできないのなら、何もかもをしなければなりませんでした。

 

 そしてヤナは竜の贄となることを決意したのです。

 竜が弟を救ってくれるならばよく、それが無理でも自分に期待する村の人が弟の命を繋いでくれることを祈りました。


 初めからずっと。

 ヤナは自らの命を捨てていました。


-◇-


 これまでとは違う、急激な記憶の奔流がヤナを襲いました。

 そしてその記憶は湖の氷に飛び込む前のヤナを構成するほとんどでした。


 ずっと昔に捨てた子供らしい無邪気な心。もう思い出すことも少なくなっていた温かい思い出。

 それらとは比べ物にならないくらい、竜の贄となる決意はヤナにとって『捨ててはならないもの』であり、ヤナのほとんどでした。


 それを取り戻したなら、ヤナはもう今までのヤナではいられません。

 焦りが胸に満ちました。黒の城で幸せに過ごした時間があまりにも致命的なもののように思えました。

 それでもすべきことの前には後に回すべきこと。ヤナはなんとか自らの願いを竜に告げようと顔を上げて。


「おうさま……」


 目の前にいるひとが優しく孤独なひとであることを思い出しました。消えてはいません、黒のお城で過ごした時間は何も。

 おうさまのことを深く知った今、このひとにお願い事をするのは、他のひとたちと同じように『寄り添わないひと』になってしまうのだとヤナは思って。


 けれど、叶えなければならない願いはあって。

 焦ってめぐる考えの中には、今までの無邪気で可愛らしい自分を演じたほうが竜も言うことを聞いてくれるのでは、なんて。

 そんなどこまでも目の前のひとを馬鹿にするような考えもたしかに浮かんで。

 でもそれを選ぶほどの強さもしたたかさも自分にはなくて。

 ぜんぶぜんぶ自分にはないことが悔しくて悲しくてたまりません。


 ぽろぽろと涙だけがこぼれます。


「ヤナよ。少しお休み。そのカゴに入った料理を食べて落ち着いてから話を聞かせておくれ」


 カゴの中身。それはおうさまのためのものでした。

 そしておうさまの言った言葉は劇で竜が娘やクマに言った言葉にひどく似ていて。


「いや、いやです」


 それだけは受け入れることはできませんでした。


 カゴを持った手は伸ばされたまま行き場をなくし、それ以上はヤナもおうさまも何も言いません。

 時間だけがただゆっくりと、ヤナが落ち着くまでの時を刻んでいました。

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