第拾壱章【山上の静寂】

蓮と美咲は夜の町を駆け抜けた。


潮風が痛いほどに頬を打つ。

神社の灯りが遠ざかり、赤紐を持つ家族たちの呼び声も、すでに背後に消えていった。


町を覆う強風はさらに勢いを増し、月食の赤い光が二人の背中を照らしている。


「蓮、ここからどこに行くの!?」


「町外れの山だ。あそこなら、誰にも見つからない。」


蓮は息を切らしながらも、迷わず山道を駆け上がっていく。


「僕がここにいなければ、儀式は成立しない。神も、僕を簡単には見つけられないはずだ。」


「……本当に、それでいいの?」


「いいんだ。」


蓮は振り向かずに答えた。


「美咲……僕はもう、逃げないって言ったけど、きっとこれは“戦う”ための逃げだ。」


「……うん。」


「でも、もし……もしも、この選択で町がまた沈んだら……」


蓮の声は、わずかに震えていた。


「僕は……どうしたらいいんだろう。」


「その時は、私が一緒に考える。」


美咲は、迷わずにそう言った。


「私たち、二人で決めたんだ。だから、結果も二人で受け止める。」


蓮は小さく笑い、そしてようやく足を止めた。


「……着いた。」


山の頂上は、町全体を見下ろせる場所だった。


夜景の向こうには赤く染まった月と、黒くうねる海が広がっている。


「ここなら、誰にも邪魔されない。」


二人は静かに腰を下ろした。


耳に届くのは、強風の音だけ。


「蓮……ねえ、蓮。」


「なに?」


「本当に……怖くない?」


「……怖い。」


蓮は素直に答えた。


「でも、美咲が一緒だから、大丈夫だって、思える。」


二人はしばらく、赤い月を見つめながら黙って座っていた。


――そのとき。


急に、美咲の赤紐が強く光り、脳内に神の声が響いた。


『生贄は、どこだ。』


『誰かが、神の怒りを鎮めよ。』


『生贄を捧げなければ、町は海に沈む。』


美咲は、ぎゅっと手首を押さえた。


「蓮、神が……呼んでる。」


「……僕は行かない。」


「うん、私も連れていかない。」


『赤紐を持つ者よ。』


『選べ。町を守るか、ひとりを守るか。』


神の声は、ひどく冷たく、美咲の心を揺さぶろうとしていた。


(私は……町も、蓮も、どっちも救いたい。)


(選ばない。私は絶対に、選ばない。)


美咲は、強く意識を集中させた。


「……凪、発動。」


水色に輝く赤紐が、再び美咲を包み、世界は一瞬、静寂に包まれた。


神の声は、遠くへと押し流される。


「……よし、今は大丈夫。」


蓮は美咲を見て、微笑んだ。


「美咲、僕ね、君に会えてよかった。」


「私も。」


夜風が二人の髪をやさしく撫でた。


遠く、町の方からは、家族たちの声がまだ響いている。


「蓮を探せ!」


「生贄がいなければ、町が……!」


美咲は静かに目を閉じた。


(私は……絶対に、あきらめない。)


(神の声に従うだけじゃなく、私が自分で、この運命を変えてみせる。)


二人は夜明けまで、山頂で寄り添いながら、静かに息をひそめていた。


しかし――彼らが知らないうちに、運命は静かに狂い始めていた。

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