第5話『雨の公園』

雨の日の空は、いつもより低くて重たかった。


雲が垂れ下がって、団地の屋根に触れるんじゃないかと思うくらい近く見えた。細くて冷たい雨が降り続けていて、風が吹くたびに小さな粒が顔に当たった。


わたしはランドセルを部屋に置くと、そのまま外へ出た。


傘は持っていかなかった。


濡れてもいいと思った。冷たくてもいいと思った。


公園へ続く細い坂道を下ると、ぬかるんだ泥の匂いが鼻に入った。濡れたアスファルトに落ちる雨粒が、小さくはじける音がした。遠くの交差点で信号が変わる音が鳴り、どこかの家の犬が短く吠える声が聞こえた。


公園は誰もいなかった。


鉄棒は冷たく濡れていて、滑り台の階段には水が流れていた。砂場は泥の海みたいになって、深い水たまりができていた。いつもは小さな子たちが遊んでいる公園なのに、今日は雨がすべてを追い出してしまったみたいだった。


わたしはブランコに向かって歩いた。


小さな水たまりを踏んだとき、靴下がじわりと濡れて冷たくなった。わたしは気にせず、ブランコの錆びた鎖を握った。冷たくて、指が震えた。


ゆっくりと腰を下ろすと、ブランコの座面が雨で濡れていて、スカートが一瞬でしっとりと重くなった。


空を見上げると、灰色の雲がゆっくりと流れていた。


遠くの電柱にカラスが一羽止まっていた。黒くて、小さくて、でもわたしのことを見ているような気がした。


「……」


わたしはブランコを小さく揺らした。


ギギ……ギギ……。


鎖が動くたびに、冷たい音がした。


「……だれもおめでとうって言ってくれないのかな」


小さな声が、自分の喉から漏れた。


声に出しても、雨音がすぐにかき消してしまった。誰もその声を聞いてくれなかった。カラスは電柱の上で首をかしげただけで、鳴きもせずにじっとわたしを見ていた。


「……だれも……」


わたしの声は小さくなって、雨の音と混ざった。


ブランコの鎖を握る手が冷たくて、指先の感覚がなくなっていく。ハンカチを取り出そうと思ったけれど、ポケットの中で濡れて冷たくなったハンカチは動かせなかった。


雨が顔に当たって、髪が濡れて頬に張りついた。


わたしはそれを払わずに、ただ空を見ていた。


雨はずっと降り続けていた。


止む気配なんてなくて、空は泣き続けているみたいだった。


「……だれか……」


わたしは声にならない声で呟いた。


「おめでとうって……言ってよ……」


わたしはブランコを揺らした。


ギギ……ギギ……。


雨音と鎖の音が混ざって、心の中の声だけがはっきりと聞こえた。


「わたし……ここにいるのに……」


「わたし……いるのに……」


カラスが鳴いた。


カァ……カァ……。


空が鳴いたような気がした。


わたしは小さく笑った。


笑ったけれど、涙が頬を伝って、雨と一緒に落ちていった。


「ありがとう……」


小さな声で言った。


ありがとう。


おめでとうって言ってくれるのは、雨だけでもいい。


カラスが鳴いてくれるだけでもいい。


わたしはブランコを揺らし続けた。


ギギ……ギギ……。


雨の音が大きくなって、世界が白く霞んでいくように見えた。


わたしは冷たい雨の中で、ただ小さな声で何度も呟き続けた。


「おめでとう……おめでとう……おめでとう……」


誰も言ってくれないから、自分で言うしかなかった。


おめでとう、なな。


おめでとう。


わたしの小さな願いが、雨音に溶けて消えていくのを感じながら、ブランコは静かに揺れ続けていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る