第3話『りおちゃんの笑顔』
放課後のチャイムが鳴った瞬間、クラスの中は小さな嵐みたいにざわめいた。
「じゃあねー!」
「今日、公園行こう!」
「ゲームの続きな!」
笑い声と机を引く音が混ざって、教室の中が一瞬で空気を変える。その空気の中で、わたしはノートを閉じる音だけが自分の周りで大きく響くのを感じていた。
帰る準備をする子たちの背中を見ながら、わたしはランドセルをゆっくり背負った。机の中には、もう何も残っていないことを確認してから廊下に出る。廊下には夕方の光が射していたけれど、それも雲に遮られて薄暗かった。
わたしは図書室へ向かった。
放課後の図書室は、いつも静かだった。
本棚の匂いが好きだった。紙の匂いと、ほんの少しの埃の匂いが混ざった、あたたかいのに冷たい匂い。ここにいると、雨の日の匂いと似ている気がして、少しだけ安心する。
わたしは窓際の棚の前に立って、背表紙に指を走らせた。色とりどりの背表紙が並ぶ中で、小さな絵本のコーナーを見つける。大きな文字で書かれたタイトルが並んでいて、その中のひとつをそっと抜き取った。
その瞬間だった。
「ななちゃん!」
背中から声がかかって、わたしは驚いて振り返った。
そこには、りおちゃんが笑顔で立っていた。
「やっぱりここにいた!」
りおちゃんは小さな口で笑って、黒目がちの瞳がキラキラと光っていた。濡れたような長いまつ毛が揺れて、その笑顔がわたしの胸の奥をじんわりと温めた。
「……うん」
わたしは小さな声で答えると、持っていた絵本を胸の前で抱えた。
「ねえねえ、これ読んだことある?」
りおちゃんは背中に抱えていた本を差し出した。
「これ、めっちゃ面白いんだよ! 動物たちが夜の森でかくれんぼするお話なんだけど、最後にすごい秘密があるの!」
表紙には、黒い森の中に小さなランタンを持ったウサギが描かれていた。暗い色の中で、ランタンのオレンジ色だけがやわらかく光っている。
「貸してあげるね!」
りおちゃんはわたしの手を取って、本をそっと握らせた。わたしの手より少しだけ温かいりおちゃんの手の温度が伝わってくる。その温かさが、わたしの冷たくなった指先に広がっていった。
「ありがとう」
わたしはその言葉を、ちゃんと声に出して言えた。
りおちゃんはそれを聞くと、もっと笑顔になった。
「それからね……」
りおちゃんは本を渡したあと、少し恥ずかしそうに笑いながら言った。
「ななちゃん、来週誕生日だよね?」
わたしの胸が、小さく跳ねた。
「え……」
誰も覚えていないと思っていた。
家でも、お母さんはスマホばかり見ているし、お父さんは夜遅くまで寝ていて、わたしの誕生日のことなんて言ったことがなかった。学校でも誰も知らなくて、知られなくてもいいと思っていたのに。
でも、りおちゃんは笑顔でわたしの目を見て言った。
「楽しみだね! わたしも、来週が待ち遠しいんだ!」
わたしは言葉が出なくなってしまった。
「どうしたの?」
りおちゃんが小さく首をかしげた。
「……ううん、なんでもない」
わたしは首を振って、笑顔を作った。
そのとき、りおちゃんが見せた笑顔は、図書室の窓から射し込む夕方の光よりもずっと明るく見えた。
「じゃあね! また明日ね!」
りおちゃんは本棚の向こうへ走って行って、図書室の扉の前で振り返った。
「読んだら感想教えてね!」
わたしは本を胸に抱きしめて、小さくうなずいた。
図書室の中は静かだったけれど、わたしの中にはりおちゃんの声が残っていた。
「来週、誕生日だよね?」
わたしの名前を呼んでくれる声が、わたしの誕生日を覚えていてくれる声が、胸の奥で暖かく灯っていた。
わたしは図書室の窓から見える空を見上げた。
雨はもう止んでいたけれど、雲はまだ重く漂っていた。
でも、その雲の向こうに、ほんの少しだけ、薄い光が見えた気がした。
わたしは窓ガラスに映る自分の顔を見た。
そこには、小さな笑顔が映っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます