46日目に君が駆け上がる階段
ぬぬぬ
序章 手をとりふたり
01. 記憶
本を閉じ、ふうと息を吐いた。
いつの間にか窓から射す光は微かなものになっていて、こんな暗い部屋で今まで本を読んでいたことに驚く。
オイルランプに火を灯すと、その明かりの元で本の背表紙にペンで刻む。四十六。
ノエルがこの本を四十六回読んだことの証。
その数字に何となく皮肉なものを感じてしまい、唇をそっと歪めた。
テーブルに本を置いて夕飯の準備を始める。
といってもキッチンなんてものはないし、大層なものを作る気も能力もない。
適当にパンをカットして、その辺でちぎってきた草を桶の水で洗って、塩漬けにした肉と一緒に挟むだけ。
機械的に咀嚼をしながら、暇なので、読んでいた本を思い返している。
面白かったな。
まさか最初にでてきた彼が最後であんな行動をとるなんて……じゃあ中盤のあのセリフってああいうことだったってこと? うわ……全然気づかなかった。
該当箇所を確認したくなり、パンを左手に、本を右手に、立ちながら一人で興奮している。
お気に入りの本を何度でも新鮮な気持ちで楽しめる。
これが記憶障害の唯一嬉しい点だな、と思う。
ノエルの記憶はたった四十五日間しかもたない。
何故なのか? 先天的なものなのか、それとも後天的なもの? 一切わからない。
わかってはいたが、覚えていないだけかもしれない。
ただ「四十六日前の記憶は忘れてしまう」ということだけずっと今のノエルに引き継がれている。
本とともにあらゆる道具がごちゃごちゃ積まれている調理台兼、作業台兼、ダイニングテーブルの前に置かれた椅子は一脚のみ。
つまりこの小屋の主のもの。
森に埋もれるようにポツンと建つこの小屋の主を訪ねる客人など、滅多にありはしない……はずだった。
彼はハッとして手に持っていたパンと本を慌てて置いた。
音をたてないようにしながら、壁に立てかけていた剣をとる。
明かりを消そうか一瞬迷ったが、既に見られている可能性の方が高いのでそのままにした。森の中で明かりの灯った窓は遠くからでもよく見えるものだ。
足音が聞こえる。
一人分か。
音を隠そうとはしていない。ということは敵意はないかもしれない。
しかしこんな森深く、しかも夜分に訪ねる者は今までいなかった。
いや……覚えている四十五日間に限った話だが。経験則にするには母数が少なすぎる。
とにかく警戒して損はない。剣を構えながら扉の裏に立つ。もし突然扉を破り踏み込まれても、ここなら奇襲できる。
足音は少しずつ近づいてきて……そして……消えた。扉の前で。
再び静寂が戻る。森の獣たちの声が控えめに響き渡る。
ノエルはそっと扉を開けてみた。
「うわっ……⁉」
人が倒れているか、死体が転がっていた。
◇ ◇
「やあ、助かったよ! 辿り着いた先がいい人でよかった。もう限界だったんだ」
行き倒れを恐る恐るつついてみると、幸いにも死体ではなかったので、家に担ぎ込み介抱した。
どこか怪我でもしているのかと思ったが、ただ水と食事が欲しかっただけらしい。
食事の方は食べかけで悪いが、急を要するようだったので口に詰め込んだ。
両方与えると客人はすぐに元気そうに話し始めた。
「仲間とはぐれて、しかも山賊に会っちゃって、荷物を全部とられちゃったんだ……はあ」
「そうなんだ」
「くそっ!」と、ベッドに拳を打ち付ける旅人。
「どうしよう。大事なものもあったのに……! この辺に腕のたつ戦士はいない?」
「まさか……取り返しにいくつもり? やめた方がいいよ」
もしかしたらこの家の客人第一号かもしれないこの旅人は、名前をリコと名乗った。
年は自分と同じくらいに見える。十代半ばくらいかな。
手足がひょろひょろしていて、ベッドに運ぶ際に担ぎあげた時、その軽さに驚いた。人間ってこんなに軽くて大丈夫なの?
だから一日歩き回って旅をするより、ベッドで療養している方が似合う風体の者が、山賊に出会って命が無事だったことを喜ぶよりも荷物を取り返しに行こうとするなんて、驚愕に値することだった。
ましてや、とノエルはリコの顔にちらりと目をやった。
前髪の向こう、本来なら両目が見える部分に、包帯が巻いてある。
家に運び込んだ時に、目にひどい怪我をしているのかと思って慌てた。だが怪我をしているわけではないようで、単に視力がないだけらしい。
「今度こそ死んじゃうよ」
と諭してみるも、諦める様子がない。
「やられたのは一人だったからなんだよ! もう一人、ちょっとだけ時間稼ぎをしてくれる人がいてくれさえしたら、あんな山賊どもにやられたりなんてしなかった。……おい、信じてないだろ」
自分と同じくらいの年かと思ったけど……もっと下かなあ。
虚言癖の子なのかもしれない。仲間がもともといるというのももしかして嘘だったり。
つい疑わし気な目でじろじろ眺めると、リコもそれを感じるのだろうか、不満そうにしている。
「君みたいな、雀にも負けそうな子が山賊を倒せたら、それはほんとにもう魔法だよね」
「さすがに雀には負けないね」リコは唇をとがらせた。
「あれ? そういえば山賊のバックには大層有名な魔法使い様がいるって聞いたような……ちょっと待って」
壁に貼ったメモにランプを近づける。大事だと思う情報はこの壁に貼ってあるのだった。
*付近の山賊には逆らわないこと。魔法使いがいる。
*大賢人トロットワード←えらい
ノエルがその名前を読み上げると、背後で噴き出す音が聞こえた。
身体をくの字に折って大爆笑しているリコが見える。
「あはははははっ!」
「な、なんだよ?」自分が笑われているのかと思い、ノエルは赤面した。
「先生がこんなところにいるわけないよ、しかも山賊の後ろ盾なんてやらないやらない。名前を勝手に借りてビビらせようとしてるだけだよ。はあ……くだらないな。そんな奴らに身ぐるみを剥がされ……何やってんだろ。腹立ってきた」
「いやちょっと……落ち込む前に、訊きたいんだけど。先生?」
「うん」リコが急に沈み込みながら頷く。「魔法を使うよ」
ってことは、魔法使い⁉
魔法使いがすごい存在だというのはノエルにだって分かる。こんな山奥では滅多にお目にかかれないであろう、貴いお方たちだ。奇跡の御業を手にする方たち。
しかし、ノエルの心ににわかに膨らんだ畏敬の気持ちは、数秒後にはしゅるしゅる萎んでいく。
魔法使いだって? この、貧弱でどこにでもいそうな子どもが? どこにでもいそう度なら僕と同じくらいの、この旅人が?
リコは疲れて寝てしまった(ベッドは譲ってあげた)。
ノエルは小屋の屋根に寝転ぶと、木々の隙間からしばらく星空を眺めて、考えていた。
もしリコが本当に魔法を使えるのなら、明日頼めば見せてくれるだろうか。少し変わった子だけれど、意地悪なことは言わなそう。魔法使いに会うのは人生で初めてだ。記憶がもつたった四十五日間をノエルの人生と呼ぶのであれば。
まったく嫌になる。
自分の頭蓋の中のポンコツ海馬が。何にも覚えてられない壊れかけの部品をもって生まれたせいで、自分の生い立ちも家族も一切分からない。何故彼がこの森で、この小屋で一人で生きているのかも。
ここで生まれたのか? 誰かと住んでいた? 母や父は? もしかして兄弟も? 何故今はいない? 出て行ったのか? どうして?
思考がまた同じルートを辿っている。気持ちを切り替えるように溜息をついた。考えてもどうしようもないことを延々考えてしまうのはノエルの悪い癖だ。もう寝ようと強く思うと脳内の雑音はにわかに消え森のうるさい静寂が耳に蘇ってきた。思考放棄の速度、これはノエルの良い方の癖。
そうしているといつの間にか眠っていた。まだ暖かい季節で助かった。
◇ ◇
「でもさ!」
昨日の夕飯と同じメニューの朝食(つまりパン、草、肉)だがリコは文句を言わなかった。
椅子は一脚しかないので、リコに譲り、ノエルは窓枠に腰を預けながらもそもそと食事をとった。
「魔法使いってさ、一人じゃだめなんだよ。自分に限らず。誰かが前で守ってくれないと真価を発揮できないんだよね、これは悔し紛れじゃないよ? ただ一応君が知らなかった場合のことを考えて説明してるだけだからね」
魔法使いとしてのプライドがあるらしく、寝起きから
「もう、わかったよ」
「わかってるならいいんだけどさ。とにかくだから、一人だけ誰か紹介してくれない? この辺にいないかな、強いおじさんとか」
「おじさんじゃないけど……僕が行こうか? 一応剣、持ってるよ」
「えっ?」
その辺に放っておいた剣を鞘から抜き、ブンっと音をたてることを意識しながら振ってみる。
正直言って使いやすい剣ではない。安物だろう。振るには重すぎるし、長さもノエルにはあっていない。
だが新品だった。前回、折ってしまったから、あいつが報酬とともに渡してきた。
リコは少しの間固まっていた。
もしやいきなり剣など振るから怖がらせてしまっただろうか? 気まずい沈黙の
「ね、ごめん」
と言おうと思っていたセリフをとられた。
「大切なこと、訊くの忘れてたね」
「な……なにが?」
「君の名前。なんていうの? 自分だけ名乗って、命の恩人の名を訊くのをすっかり忘れてた」
「あ、ああ……名前。そういえば言ってなかったね、僕もごめん」
相手に名乗らせて、自分だけ名前を告げないなんて。普段、一人ぼっちで暮らして誰とも話さないから、会話に慣れていないんだ、きっと。
「僕はノエル」
ファミリーネームを尋ねられたらどうしよう、という思いがさっとよぎり、適当な名前を用意しておこうと頭の引き出しを片っ端から開けていく。
自分のファミリーネームも彼は覚えていないのだった。
だが杞憂だったらしい。
リコはにこにことしていたが、名前を聞くと、ぎくりと表情を強張らせた。
でもそれも一瞬で、すぐに笑顔に戻った。「まあよくある名前だし……」と自分を納得させるように呟いている。
同じ名の、仲の良くない知り合いでもいるのだろうか。
「ノエル、君が戦えるなら願ったり叶ったりだ! 行き倒れた旅人にパンと水を与え、さらに山賊たちもぶっ殺してくれるなんて……恩が大きすぎるな」
「いや、ぶっ殺すとは言ってないよ。君が魔法を使うまで時間稼ぎをするというだけで……」
「あいつらに巻き上げられた金を取り戻せたら、お礼に渡すね」
さあ、と言いながら、椅子を蹴って立ち上がるリコ。
ゆらっと炎が燃え上がるようだ。朝日が射す中で見てはじめて気づいたが、リコは赤毛だった。
その鮮やかな揺らめきに少しだけ目を奪われ――こちらに差し伸べられた右手に気づくのが遅れた。無意識にその手に自分のものを重ねる。
「行こうよ」とリコが言う。手をぎゅっと握りしめられる。
「行こう、ってどこへ」
「今から行こうよ、山賊たちのアジトへ」
「今⁉」まだ正午にも遠い。ノエルは朝食を食べ終えたばかりだ。
「夕方に発とうよ。こっちは二人、向こうは大勢、闇に紛れて奇襲したほうがきっといいよ」
「う……そ、そっか。そうだよね。早く取り戻したくて、急いてしまった」
繋いだ手をほどきかけた。
立つときに椅子を蹴り倒したことを忘れ、そのまま着席しようとする。「おわっ……」すると勿論ひっくり返りそうになり、リコは悲鳴をあげかけた。
離れそうになった手を再び掴んで、ぐいっと引き寄せる。
照れ笑いを浮かべながらリコが言った。ちょっとだけ肌が髪の毛と同じ色になっている。
「いつもはこんなにドジじゃないんだけど……」
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