よみかえり
白蛇
第壱章 とおりゃんせ
壱
とおりゃんせ とおりゃんせ
ここはどこの細道じゃ
天神さまの細道じゃ
ちっと通してくだしゃんせ
御用のないもの通しゃせぬ
この子の七つのお祝いに
お札を納めにまいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも とおりゃんせ とおりゃんせ
——————
山道は、人一人がようやく身を捩じり抜けられるほどに痩せ細っている。湿りを孕んだ闇に沈む枝葉が、夥しく交叉して天を塞ぎ、地上には光の澱一つ落ちてはこない。夕暮れの刻、子どもたちはそこを避け、罪でも負ったかのように後ろめたく遠回りを選んだ。
村ではその細い道を『
その日、細道の先にある
「とおりゃんせ とおりゃんせ……」
誘のか細い声は、石畳の表面をなぞる柔らかい響きだった。その声に功が応える。
「ここはどこの細道じゃ」
二人は手を繋ぎ、片方が門になり、もう片方がその下を潜る。古びた本殿の神鏡に向かって、まるで神楽のように何度も。
誘はいつも唄の終わり——「帰りはこわい」のところだけ、小さく、噛み締めるように声を伸ばした。御影様の細道の帰りが本当はどこへ続いているのか、幼いながらに知っているとでもいうように。
「お兄ちゃん、烏が哭いてるよ」
烏が鳴くと良くないことが起きる——そう教え込まれてきたせいか、誘は声を潜めて功の腕にしがみ付き、「誰か、死んじゃったのかな」と言う。功は「大人が脅かしてるだけだよ」と口先で笑い飛ばしながら、喉の奥に小さな棘みたいな不安が引っ掛かったまま、空を仰いだ。
本殿は夕陽を背に溶けた朱の光を受けている。奥の神鏡は沈む陽を淡く返すだけだ。その鏡の中でだけ二人は、半歩ほど隔てられて映っていた。音はない。ただ、皮膚の裏をすっと冷気が撫でた。
鳥居の影が石畳の上で長く伸びる。夕陽が沈むたび、影と光の境目は曖昧になっていく。誘はいつも功の手を離したがらなかった。「輪からはみ出したら、もう帰ってこられないんだよ」と、誘はよく口にしていた。
境内の砂はまだ熱を抱いていて、裸足の裏にじりじりとした痛みを残す。掌には誘の汗がうっすらと滲んでいる。その温かさだけが、自分をまだこの世側に繋ぎ止めている気がした。
「もう一回やろうぜ」
功が笑って言う。輪になった子ども達の誰かが「じゃあ、今度は誘が鬼な」と声を上げた。誘は首を振る。
「いや。お兄ちゃんと一緒がいい」
笑い声が周りで弾ける。
「まただ」
誰かが囁く。遊びは続き、唄は、何度も繰り返された。そのたび誘の胸の底で膨らんだものが、あたかも自分の感情であるかのような重みをもって、功の胸にも沈み込んでいく。
——「ここはどこの細道じゃ」
どこまで行っても、功の手から外れた道は闇に続いている気がした——輪からはみ出したらもう戻れない、という誘の幼い予感だけが、胸の底でじくじく疼く。
「お兄ちゃん、とおしてよ」
誘は笑いながら言う。声は唄の調子に紛れて、誰にも拾われない。
「ずっと、いっしょに、いてね」
そのとき、ふと風が止んだ。誘は顔を上げる。神鏡の奥に誰かが立っている。同じ顔で、少しだけ違う目。
鏡の中の功と誘は半歩だけ離れて映っている。けれどその隙間の黒みが、誰かの肩の線のように盛り上がりかけていた。
——もし、功くんが輪の外、あっち側に行っちゃったら。
唇の裏で、幼い誘はそっと呟いた。
「じゃあ、わたしも一緒に行くからね。この世の果ての細道でも、神様のところでも、どこでもいいから、一番奥まで、同じところまで」
誰にも届かない幼い誓言。その言葉の僅かな温度だけが、神鏡の下の水底へそっと沈殿していく。誘の手がふいに、氷片を握ったような冷たさを帯びた。指の骨ばかりが掌に当たり、血の気だけがすっと抜けていく。功が振り向く。そこに立っていたのは——確かに誘のはずだったのに。
目が覚めた。
遠くで烏が哭いた。その声に導かれるように、光が天井を這った。村では烏は忌み嫌われていた。死んだものの匂いを連れてきて、良くないものを呼び起こすのだ——大人たちはいつもそう言っていた。子どもの頃は真顔で囁き合った話だが、今となっては笑い話みたいな迷信に過ぎない。
閉め忘れたカーテンの隙間から西日が射している。背中が汗でじっとり濡れていた。まだ鈴のような声が鼓膜の裏側で揺れていた。
「またか……」
夢を見るたび、決まってあの神社だ。祭りが近付くほどに頻繁になる。けれど夢の中の誘は、いつも途中で別の誰かに変わってしまう。顔が、髪が、手の温度が——その誰かの顔だけは、どうしても思い出せない。
スマートフォンが震え、布団の上を滑った。画面を見るまでもない。誰からの着信かは分かっていた。誘だ。
「功くん、起きた?」
電話越しの声に、思わず口元が緩む。
「ごめん、寝てた。夢見悪かったけどな」
「また神社の夢? なんか私のこと怖がってない?」
「違う。怖いのはお前じゃなくて……たぶん、記憶が混ざってるだけ。バイト疲れだよ」
夕陽が照らす屋上に烏が三羽、同じ向きで並んでいた。風は止み、声だけが遅れてくる。
「じゃ、準備できたら連絡ちょうだい。ご飯、行こ?」
「食べたいものは?」
「功くんの食べたいものがいい」
「じゃあ……カレー」
「子どもか!」
二人して笑った。その糸は昔から切れたことがない。——誰かが切ろうとしたことも、まだない。
誘に「準備できた」と連絡を入れ、功が部屋を出ると、隣の扉がぴたりと同時に開く。
「おっそい!」
誘は頬を膨らませる。白いワンピースに、薄桃のカーディガン。見慣れた姿なのに、今日に限って妙に、他人の影を纏って見えた。
「悪い。寝汗で着替えてた」
「ふーん。じゃ、今日は奢りね」
そう言って笑いながら、功の寝癖を指でくしゃりと潰した。指先から香水の匂いが微かに立つ——誰かを思わせる甘さ。
「昔からこれ、直らないね」
功が照れたように眉を寄せると、誘はいたずらっぽく舌を出し、腕を絡ませる。
「……勘違いされるだろ」
「じゃあ、離そっか?」
「……まあ、いいけど」
肩を竦める功を見て、誘は満足げに笑った。二人で階段を降りる。夏の終わりの匂いがした。
誘の腕が氷水に浸された冷たさを帯びている。功は振りほどくこともできず、ただ歩く。夢の中で握っていた手と同じ温度だと気付くのに、少し時間がかかった。
「そういえばさ」
信号を待ちながら誘が言う。
「桃子ちゃんとは、どうなの?」
「どうって?」
「最近、会ってないんじゃない? 私とばっかご飯行ってるし」
「バイトで毎日顔合わせてるよ」
「ふーん。そういうのじゃなくてさ。ちゃんと進んでる?」
「お前なぁ」
「功くんの一番最初は、私であってほしかったのにな」
冗談に聞こえるように笑ってはいたが、「一番最初」という言葉だけが、功の記憶の抜け落ちた部分にひたりと貼り付いた。舌の先まで出かかっているのに掴めない名前がある。そんな苛立ちだけが、喉の奥に残った。
赤信号のまま、功は思わず一歩、踏み出していた。誘の腕に引かれ、我に返る。二人の間に、風が止まった。
「……冗談、やめろ」
「冗談だよ」
笑いながらも、その目の奥は沈んでいた。
行きつけのカレー屋。誘はチーズトッピングの甘口、功は中辛。柔らかな照明の下、他愛ない会話がぽつぽつと続く。時々、誘が功の手元をじっと見つめる。功が気付くと、視線を逸らした。
食後、外に出ると夜風が少し冷たかった。誘は「ごちそうさま」と笑い、駅前で手を振る。功も応えて踵を返す。
その瞬間、背後で風鈴が鳴った。風のない場所で。振り向けば、ただ硝子玉が揺れているだけだった。紐も風見も殆ど動かないのに、玉の内側だけが震えている。音程だけが、御影神社の拝殿で鳴らす鈴の音と妙に似通っていた。
功は音だけを背中に貼りつけたまま、歩みを早めた。
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