バニシング

紫陽_凛

Banishing

 宇宙ステーション9ナインの壁に磁石つきの靴のかかとを付けて、水晶すいしょう琥珀こはくを待っていた。


 彼は今頃、大きな任務を任される両親とつかの間の別れの挨拶をしているはずだ。そう長くはない任務だけれど、琥珀は「パパっ子、ママっ子」だ。とにかく親にべったりしていて、十三にもなるのに、まだ子供っぽい。

――本当の血のつながりがあるわけじゃあるまいし。

 いや、血のつながりなんか気にするのは旧人類みたいだな、と水晶は考え直す。細胞から生まれたから、実際に育てられたから親になるのではない。子供が親と認めたときのみ親は親になる。水晶は琥珀ほど自分の両親に固執していなかったから、琥珀の言動も行動もどうも幼く見えた。


 琥珀とは、人工子宮から取り出されて産まれ、保育器に入れられたときからの長い付き合いだ。それこそ「水晶」、「琥珀」という地球遺産への愛着じみた名付けネームドをされる前から一緒だった。それなのに、琥珀の気持ちは未だ水晶には理解しがたい。

――血が繋がってたら、俺も母の死を悲しめたんだろうか。


 ふとよぎる思考は、響き渡るアラートに遮られる。

 水晶はそれが、探査艇発進の合図だと知っていた。水晶――彼の思索は補助AIのスクリーンに吸い込まれていった。ライブ映像として映し出される探査艇、その数三つ。つまるところ、琥珀の両親がステーションを離れていったのだ。


 地球が消滅banishしてから百年の節目を迎える頃――ちょうど水晶と琥珀が生まれた十三年前のことだ。

 「渦」が発見された。――いや、認識されたのだ、と水晶は考える。「渦」は人類のそれまでのテクノロジーでは観測できなかっただけで、ずっとそこにあったのだから。

 ようやく人間に認識された「渦」は、膨大な質量を持つブラックホールのようでいて、星々を蓄えた巨大なミルキーウェイを渦状にしたかのように輝きを放っていた。人類に理解できたのは、それがあらたな銀河に匹敵する存在でありつつ、人類のこれまでの叡智をもってしても把握しきれない未知の物体であるということだけだった。

 水晶と琥珀のいるこの宇宙ステーション9は、もっとも「渦」にちかく、そのため「渦」の調査員たちが多く在駐していた。

 今回琥珀の両親に課された任務は二つある。一つ、「渦」への接触を行いそのデータとサンプルを持ち帰ること。一つ、渦の中央に目のように存在する「VOID」と呼ばれる空洞の内部観測を行うこと。この「虚」に関する二つ目の任務が、今回の探査の目玉だ。


 その時、待ち人の声が下から叫んだ。

「おい、水晶。緊急事態でもないのに壁に立つなよ!」

 水晶はライブ映像を映したウインドウを閉じて、答えた。

「――重力なしの環境で立つも立たないもないだろ」

「ある! 会話がしづらい」

 水晶は壁に立ったまま床に足を付けている琥珀を見下ろした。少し長く伸ばした髪が、無重力に遊ばれて揺れる。水晶はつっけんどんに言い返す。

「ここは宇宙だし、とうの昔になくなった地球と違って重力も地面もない」

「それでも、床はフロアって書いてあるんだから床を歩くべきじゃない?」

「いいこちゃんの琥珀」

 水晶はとんと壁を蹴ってくるりと宙で一回転し、言われたとおり床に足を付ける。琥珀が甘い顔でにっこり笑った。水晶は、自分に足りないものについてよくよく自覚していた。琥珀が持っていて、自分が持っていないもの。

「琥珀。挨拶はちゃんと済ませた?」

「もちろん。帰ってきたら美味しいもの一緒に食べるんだ」

「いいね、仲がよくて」

 水晶はまたウインドウを開いた。ライブ映像はとうに途切れて、普段通り星間ニュースが流れているのみだった。



 ライブラリ・アカデミアから配信される知識を頭に入れながら、隣に浮かんでいる琥珀と話していると、ふと不安に駆られることがある。きゅうくつなウインドウの中の知識だけで、狭いステーション9の中だけで、自分の生が完結していく感覚。そして、ステーション9が消失したら、もし地球と同じように消滅banishしたら、自分の寄る辺はどこにいくんだろうという、不安。

 この言語化しがたい感情をどうにか言葉にのせて琥珀に打ち明けると、琥珀は核心に切り込んできた。

 

「水晶は死を恐れてるの?」

「いや、……たぶん、うん、そうなんだけど、違う」

「じゃあ、今生きてる世界が狭いことを恐れてる?」

「……それも、違う」


 琥珀はうーんと腕を組んだ。

「俺にはわかんないな、水晶の気持ち。だって宇宙ってクソ広いしさあ――」

「そうだけど……」

「それに、俺がいる場所が、俺のいる場所じゃん」

「何言ってるかさっぱりわかんないんだけど」

「俺がどこにいようと、そこが俺の居場所だし、俺の生きてる場所だよ。水晶だってそうだろ」


 琥珀が頭を振るので、長い髪がいきおいで水晶の頬に触れる。水晶は目を細めて、その髪をゆっくり取りのけた。


「琥珀はいいな、気楽で」

「気楽で何が悪いんだよ」

 水晶はきゅっとくちびるを引き結んだ。羨ましい、と思った。



 探査には地球時間(地球と太陽の関係で作られた過去の遺産のことだ)で二週間ほどかかると聞いていたので、水晶と琥珀は同じ部屋で過ごした。水晶の父は都合良くそれを黙認してくれた。おおかた仕事や、若い愛人と過ごすのに忙しいのだろう。

 その間水晶は琥珀とふたりで、アカデミアから送られてくる映像に目を通し、レポートをまとめ、暇を潰すためにしりとりをした。無重力の中で無意味に跳ね回ったり、星間ニュースを見たり、外を眺めた。

「……そろそろかな」

 星間ニュースをうつしたウインドウを水晶が眺めていると、背後に琥珀がとりついて、その首筋に抱きついた。そして一緒になって、小さなウインドウの中をのぞき込んだ。

「まだかな」

「まだ一週間だろ。折り返しだよ」

「そろそろ管制室に定期連絡が入るはずだよ」

 琥珀が言う。

「パパ、定期連絡のタイミングも教えてくれたし」

 そして間近から水晶の顔を覗く。水晶は根負けして、ぱっと琥珀の腕を振り払うと、管制室への道を辿った。

 面倒だけど、琥珀のためだ。



「……父さん、探査に出てる三機から定期連絡はあったの」

「ない」

 要件だけを手短に告げることで有名なステーション管制塔の長は、一応は息子である水晶をチラリと見た。

「要件はそれだけか」

「それだけって……定期連絡がないってことは、探査は上手くいってないってことじゃないの」

「それは子供のお前には関係ないことだ。暇ならアカデミアで勉強でもしていろ」

「……あっそ」

 こういうときに、琥珀みたいな手管がつかえればいい、と思うのだけど、水晶はそんな自分を曲げることができなかった。


 

「どうだった?」

「……連絡、来てないって。他の情報は聞き出せなかった、ごめん」

「……そう」

 言いづらいことを琥珀に言うのは気が引ける。目に見えてしょんぼりするからだ。そう言うと、琥珀は「水晶は実はめちゃめちゃ優しいんだよね」と言うのだけど。

「そうだ――虚の中に入ったのかも」

「それはわからない」

「いや、確かに入ったんだよ。パパとママは、渦に接触したし、虚の中に入って行ったんだと思う。通信状況が悪いんだ、きっと」

 琥珀は断言した。

「だから、定期通信が来ないのも納得」

「琥珀」

 水晶は琥珀の目をじっと見た。夢見がちな瞳が茫洋と遠くを見ていた。彼の目が何を見ているのか、その像がどこで結ばれているのか、水晶には分からなかった。

「……おまえ、疲れてるんじゃないのか」

「ん? んーん、全然」

 ふっと琥珀の瞳の焦点が戻ってきて、水晶に向かって微笑むから、水晶はほっとした。同時に疑問に思った。

 さっきの琥珀は。

 けれど、水晶はそのほんのわずかな違和感を、ちっとも気にしなかったのだ。



 ――数日後、星間ニュースが報じることには、三機の探査艇は通信にも反応無し、レーダーでも存在を確認できず、事実上行方不明となり、そして、琥珀の両親は帰ってこなかった。

「琥珀――」

「……――」 

 琥珀は人が変わったように無口になった。一人で自分の端末ウインドウを開き、狂ったようにアカデミアの情報を、特に宇宙物理学の分野の動画ばかりを漁っていた。両親の消えた「渦」と「虚」のことを考えているのは明らかだった。けれど水晶はそんな琥珀になにもしてやれず、何の声も掛けてやれなかった。

 琥珀は明らかに一人で部屋に籠もることが増えた。扉越しに聞こえてくるAIの解説音声と、琥珀のぶつぶつと何事かつぶやく声。規則的なタップ音と独り言。

「パパ、ママ」

 それを聞くたび、水晶は心臓を引き絞られるような感覚に陥った。琥珀がせめて泣きじゃくってくれたなら――その肩を抱いて、慰めることが出来たのに。琥珀はそれすら許してくれない。琥珀は水晶の手を必要としていない。


『水晶、しりとりしようぜ。デブリ』


 あの琥珀は、もう戻ってこないのかもしれない――そんな考えが脳裏に浮かぶから、水晶の手は、扉をノックする前にすべてを諦めてしまう。

――俺はどうしてこんなに、無力なんだろう。


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