第三十六話
アントンは翌朝、内務省に向かった。受付のベルを鳴らすと、ほどなく若い事務員が現れた
「文化局付通訳官、ヤノシュ・ナジを至急呼んでくれ」
事務員はアントンを小部屋に案内してすぐ、一礼して足早に去る。部屋には紙の匂いと、遠くの廊下を渡る靴音だけが残った。アントンは引き出しから白紙を一枚出し、机上のペン先の具合を確かめた。
扉が叩かれ、ナジが入ってきた。
「殿下、ヤノシュ・ナジ到着いたしました。」
言葉を継げようとするナジを手で諫めながら、アントンは言った。
「ナジ氏、サラエボ内で自治の拡大、あるいは独立を求める証拠を探してきてほしい。印刷所、教区の事務室、慈善会の帳場、役場の用紙庫、駅の詰所、紙が動く場所を幅広く当たれ。証拠になりそうなものがあれば持ち帰ってきてくれ。期限は1週間しかないが頼めるだろうか」
ナジはアントンの言葉に目を丸くしていた。
「私が、ですか?通訳官の私よりも良い人がいると思うのですが…」
「私と共にサラエボを見て、考えを共有したナジ氏にしか頼めないことだ。本来の業務ではないことはわかっているがお願いできないだろうか」
ナジは少し困った顔をしながらも即答した。
「殿下にそこまで言われたらやるしかないです」
「ありがとう、主犯格の名は求めない。あくまで証拠があれば十分だ」
アントンは通行証と照会状を二通したため、押印して渡した。
ナジは短くうなずき、踵を返した。
————
五日後の夕刻、机の上に麻紐で軽く括られた薄い紙束が置かれていた。アントンは紐を解き、上から一枚抜いた。
紙は同じ版で百枚。表題は請願書式。氏名の欄が空のままだ。紙質は端物で厚みも切り口も揃わず、文言は最初から最後まで彼らの文字であるキリルで記されていた。祈祷書で見慣れた体の活字で、綴りも現地の慣習に合わせてある。
束の一番下には、小さな紙片が貼りついていた。半分ちぎれた作業票の欠片で、「薄紙」「一束」とだけ読める。注文主の欄は破れて見えず、日付は一昨日。工房の角印は押されていない。アントンは繊維の向きを確かめ、予備刷りの癖を取った。
アントンが紙を確認していると、ノックと共にナジが入室し、さらに薄い紙を一枚机に置いた。鉛筆で「外周は未記入」「中央は穀物」と短い指示がある試し刷りだった。
「これらの紙の所在は?」
「印刷所の奥の棚です。端紙の束の上。帳面には出てきません。主人はただの見本だ、商売ではないと。夜のうちに若い者が刷ったと申しました。請求も納品もありません」
アントンは紙束を二つに分けた。覚書に添える分と、保管する分。
そして覚書の冒頭に、見たままを書いた。請願の雛形が百存在すること。提出先が空欄であること。欄の構成が署名と居所に偏り、押印の余白が計算されていること。文言が最初から最後までキリルで記されていること。印影の試しは完成前で、外周が空白のまま作業指示のみが残っていること。支払いと記録が一切残っていないこと。印刷所が見本の名目で帳外処理していること。
末尾に一行だけ注記を添えた。書式と活字の体は王冠領の標準ではなく、現地の教会と学校で用いられていた型に合致する、と。
封をする前に、アントンは顔を上げた。
「誰の手に渡る紙だと思う?」
「文字を読み慣れている知識層の手です」
アントンはその答えにうなずき、覚書に封蝋を落とした。
ここには日時も場所もない。集まりを指す言葉もない。ただ、現地の文字と作法で整えられた請願書式が先に用意されている。これが直ちに結論を証するものではないにせよ、異変の兆しを示す材料にはなる。今回の一週間の報告としては、これで足りた。
蝋が固まると、アントンは覚書を懐に収めた。
それからナジは保管分を手に取り、口を開いた。
「こちらはどうされますか?」
アントンは数秒考えた後に答える。
「三分割して保管する。官邸文庫、内務省の書庫、そして文化局の封緘箱だ。」
「では、そのように手配しておきます」
ナジは保管分を片手に一礼して退室する。扉が閉まり、廊下の足音が短く響いた。
————
長らくお待たせいたしました。隔日投稿で再開させていただきます。
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