MONSTER
@BAD-QUEEN
興味
黒い物が溜まっていく。それは吐き出す事の出来ない、気持ちの悪い物…。
勇気と共に発した「お帰りなさい。」という言葉が、今も桜の耳に残る。階段の掃除を終えて一階の廊下に立つ桜。洗面所で手を洗いリビングへと向かう母親。そんな桜の肩と母親の体がすれ違いざまぶつかる。ぶつかった後に聞こえる母親の舌打ち。桜は聞こえなかったふりをする為に別の事を考えようとするも、ぶつかった瞬間、頭の中が真っ白になり何も考えられない。ぶつかった強さ自体は弱く、それで小さな桜がよろけたりもしなかった。それなのに、衝撃は肩から全身へと、波を打った水面の様に広がった。頭皮は静電気を帯びた様にチリチリして、胸の奥には冷たい風が抜けていく様な感覚がある。更に冷たい風は通る度に、刃物で切った様な傷みを伴った。それらの感覚に襲われながら、桜は肩に痛みがない代わりに、胸の奥が傷む事を不思議に思った。
桜の後ろで勢いよくリビングの扉を開閉する音が響いた。音は廊下全体に響くと共に、桜から不思議という思いを一瞬で消し去り、その意識を目の前の現実へと引き戻した。その直後、今度は弱々しい音を立てて玄関の扉が開いた。入って来たのは桜の父親だった。
思考の停止した頭で桜は床を眺めている。そんな桜を見ながら父親は何も言わなかった。ただ、その目には余計な事をしてくれたとでも言いたげな攻撃的な感情が宿っている。
父親がリビングへ入ると、そこから母親の強い口調で繰り出される言葉が微かに聞こえる。いつもの事だ。その言葉だけを何とか脳内に入力した桜はフローリングワイパーで再び廊下を拭き始めた。
廊下の掃除を終えた桜はトイレへと入り、常備されている泡用のクリーナーを便器の内側に吹きかけ、ブラシで満遍なく磨き始める。休める事なく手を動かし続ける桜ではあるが、桜の頭の中には先程から声が聞こえてくる。その声に対し、桜は自身の正当性を証明する言葉を並べて、これを遮断する。
そうだ。あたしは悪くない。ただ、挨拶をしただけだ。それを無視し、わざわざ、あたしのそばを通り、ぶつかって来た母の方が悪い。
言葉を並べていくうちに桜の頭が思考を取り戻していき、桜はいつもと同じ疑問に辿り着く。何故、母も、父も、自身を無視するのか?母は無視をするのに、何故攻撃をして来るのか?何故、父は助けてくれないのか?こうなった桜の思考の先にある結論も、いつもと同じだ。それは両親が自身を嫌っている。それが桜の結論だ。では何故、嫌っているのか?その理由は桜にも分からないし、心当たりもなかった。ただ、桜はそれを深く考えない事にしている。それはその理由を考える事に意味があると思っていないからだ。なにより、その理由が自身では変えようのないものだったら、無意味に傷つくだけだという事も桜は知っている。桜にとっては嫌われているという事実だけで充分だった。それでも、当然、嫌な思いはする。嫌われている事を理解出来ているからと言って、その言動に寛容という訳でも、慣れてしまっている訳でもない。そんな思いをした時、桜はいつも時が過ぎる事に身を任せるのだ。
便器の内側を磨き終えると、今度はドアノブや壁、水洗タンク、蓋、便座、便器の外側、床を除菌シートで拭いていく。その作業をしながら桜は今回の間違いを振り返る。
桜は時が過ぎれば、その思いが薄まっていく事を理解していた。理解していたからこそ、もしかしたらと思ってしまった。両親が無視を始めてから一月程が経った。その間に自身も両親の事を避け、話し掛けなかった。それでも、その一月という時間の経過が、自身の中の嫌な思いを薄めた様に、両親の中の自身への嫌悪感も薄めてくれたかと思った。
あたしは悪くない。悪くないと思いつつも、こちらがもう気にしていない事を示せば、案外何事もなかった様に接する事が出来るのではないのかと桜の頭は考えてしまった。
そうだ。これが間違いだ。
使用を終えた除菌シートをトイレに流し、その様子を眺めながら、桜は今回の間違いを理解した。しかし、間違いは逆に新たな学びとも言える。
今回の間違いから桜が新たに学んだ事。それは時間の経過だけで、心は変わったりしないという事だ。両親の自身に対する嫌悪感。それと自身の中の嫌な思い。それは時間の経過と共に薄まってなどおらず、実は確実に蓄積されている。
小学三年生の桜はその心を持って、それを学んだ。
桜には下校時にいつも寄り道する場所がある。それは住宅街の中に存在する神社で、名を柴春神社という。境内には物置小屋よりも少し大きいくらいの社があり、その社をコの字に囲んだ銀杏の木が合計七本、植わっている。それ以外に境内にあるのは木製の長椅子が一つと街路灯と時計が合わさった物が一つだけである。周囲は住宅街だが、民家と隣接している訳ではなく、神社の周囲には狭い道路が通り、民家と距離を取っている。
桜がここを訪れるのは明日がテストだからという訳でも、どうしても叶えたい願い事がある訳でもない。桜にとって学校の帰りに、この神社に寄るという事は小学一年生からの習慣で、当たり前の事なのだ。
元々は友達が訪れていた事につられて桜も訪れる様になった。最初の頃こそ多くの子供が集まり、皆で同じ遊びをしていたが、次第にゲームやカード、おもちゃを持ち寄り、それぞれのグループへと別れて遊び始めた。やがて、それらのグループは神社ではなく、グループ内の自宅を交代で巡り、集まる様になっていった。又、遊び以外にも塾や習い事で訪れなくなる人も増えていった。気が付けば、当時一緒に訪れていた友達は誰一人いなくなった。それでも桜が今も変わらずここを訪れるのは、他の友達の様に遊べる道具を持っていない、塾等に通わせてもらえないという理由の他に、ここでの楽しみがあったからだった。桜の楽しみはこの神社を訪れる動物や昆虫の観察だった。観察自体は友達がそれぞれのグループに分かれる前の頃から、友達と共にしていた。その時の桜は動物や昆虫に直接触れる事が面白いとしか思っていなかったが、周りに付いて行けず、一人で観察する様になってからは自身と同じ様にゲームやおもちゃを持たず、習い事に通う訳でもない動物や昆虫に共感めいたものを覚え始めていた。桜は彼等を見習い、ありのままを楽しむ事にした。以降の桜の観察は直接触れようとするだけなく、遠目から眺める事もあった。
石鳥居の前で桜は一礼し、その後、社の前では二拝二拍手し、「ただいま。」と呟く。最後にもう一礼すると、桜は赤いランドセルと黄色の帽子を社の階段の前に置き、今日のお相手を求め、境内に植わっているイチョウの木々を一本、一本、ゆっくりと丁寧に観察し始めた。そんな桜の元に一人の人物が静かに後ろから近付いてくる。
「コラァ、何してる。」
後ろから急に響く大きな声に桜は一瞬体を縮めたが、その後は落ち着いた様子で、ゆっくりと後ろを振り返った。後ろに立っていたのは人懐っこい笑顔を浮かべた桜と同じ年頃の少女だった。少女も桜と同じくここへは寄り道をしたようで、黄色の帽子と赤いランドセルを背負っている。
少女と桜の見た目を比べた場合、桜の方がお金を掛けられている印象を受ける。桜の肩にまで届く程の黒い髪はその一本一本が毛先まで綺麗に整えられており、首元に白いレースの付いた水色のワンピースには汚れやシワもなく、見ただけでも良い生地を使っている事が分かる。一方で少女の方は背中にまで届く、黒い髪の中にいくつか枝毛があり、まとまりもない。着ているピンク色の半袖Tシャツと青のオーバーオールどちらも、長く着ているのかくたびれた感じがある。
それでも、満ち足りた表情をしているのは少女の方だった。
そんな色々な意味で自身とは反対の雰囲気の少女に対して、桜は溜息を一つ吐くと、呆れる様な口調で少女の名を口にした。
「音春(ねはる)ちゃん。」
「こんにちは。桜ちゃん。」
音春と呼ばれた少女も桜と同い年ではあったが、通っている学校は違った。
そんな二人の出会いはこの柴春神社であった。数ヵ月前、神社から友達がいなくなり、その状況にも桜が慣れ始めていた頃、今の様に音春が一人で木に留まった蝉を眺めていた桜に声を掛けた事から二人の関係は始まった。
「今日はどう?何かいた?」
「あぁ…うん。べつに…。」
桜の答えは曖昧だった。桜がこの神社にて観察対象の動物や昆虫を探す際、その対象は見掛ける事が少ないか、或いは見掛ける頻度に限らず好みかどうかを条件としている。これはこの条件以外の動物や昆虫の観察に飽きが来てしまったからだった。ただ、この時の桜は動物や昆虫を探していなかった。正確に言えば、桜の頭は探す事にではなく、想像の方に働いていた。更に、そう働きかけたのは桜の気持ちだった。桜の気持ちはこうしていれば、いつもの様に音春が話し掛けてくれる。それを桜に想像させていた。それ故に、桜の瞳はイチョウの樹木を映していたが、そこから何かを探すという処理は脳内で行われていなかった。
「どうかしたの?」
「あ、うん。」
こうして桜の想像通り音春は話し掛けてきてくれたが、その後、どうすればいいのかを桜は考えていなかった。困った桜が取った行動は、とにかく今、抱えているものを口にする事だった。
「音春ちゃん。」
桜の力強い口調にも音春は動じる事なく、優しい笑みを浮かべながら応じた。
「なぁに?」
「またお話、聞いてくれる?」
「もちろん。それなら、すわって話そうよ。」
「うん。」
音春が桜の手を引く。二人は社の横に設置されている木製の長椅子に腰を下ろした。
「さぁ、聞かせて。今回は何があったの?」
自身の足元を見ている桜の横顔を見ながら音春は尋ねた。桜が音春に両親の事を話すのはこれで三度目である。元々、両親が家での出来事を口止めしていた為、桜は両親との事を誰かに話したりはしていなかった。それでも、音春に話す様になったのは、音春との何気ない会話の中で、両親との歪な関係の綻びが露見してしまったからだった。その時の音春はその綻びを見逃さず、巧みな質問で桜に真実を話させた。一方、上手く喋らされてしまった桜だったが、話した後にあったのは軽くなった自身の心だった。それからの桜は自身の中で限界を迎えた時、音春にだけは胸の内を話す様になった。勿論、音春には口外しない事を約束して貰っている。
桜は視線の先を変えずに、昨日起きた事を静かに話し始めた。話していくうちに桜の声は震え出し、何度も途切れたが、音春は変わらない笑みを浮かべながら黙って耳を傾けた。
桜の話が終わると、音春は桜に身を寄せながら桜の両肩に両手を静かに置き囁いた。
「そうだったの。それで桜ちゃんはお母さんとお父さんのことをどう思ったの?」
「…あたしはひどいと思った。無視した上に、わざと肩をぶつけにくるお母さんも、お母さんのやる事に何も言わないどころか、それに乗じて来るお父さんも、ひどい人だって思った。でも、それで分かったの。お母さんも、お父さんも、あたしが嫌いなんだって…。嫌っているからあんな態度をとるんだ。音春ちゃんも、そう思うよね?」
先程よりも少し熱の入った口調で、赤く腫れた目をしながら桜は音春に問うた。それでも、音春は動揺する事なく答えた。
「落ち着いて、桜ちゃん。はい、深呼吸。」
音春はそう言って自ら深呼吸を始め、桜もそれに倣い何度か深呼吸を繰り返した。
桜から熱が抜けるのを見計らい、音春は切り出した。
「落ち着いた?」
「うん。ありがとう。」
「どういたしまして。まぁ、桜ちゃんが興奮するのも無理はないよ。あたしからしても、ひどいと思うもん。それで、桜ちゃんはどうなの?そんなひどい事をする人達のことを桜ちゃん自身は嫌っているの?」
「あたしは…」
桜は言葉を探している。既に持っているにも拘らず、探しているふりをする。そして、見つけたふりをして、別の答えを取り出した。
「…分からない。」
それでも、その答えに音春は納得した様子を見せ、応える。
「そう。なら、あたしが教えてあげる。嫌いになっていいよ。」
全身が粟立ち、体温が僅かに下がった様な感覚が桜にはあった。それを合図に桜の心の中で急ブレーキが掛かる。音春の嫌っていいとの言葉が、神経を介して桜の全身に恐怖を伝達させる。その結果、桜は境内に設置されている時計を見て、言葉を発する。
「あたし、そろそろ帰らないと…」
そう言い残し、桜は立ち上がろうとするも、上手く立てなかった。
桜の左腕には、いつの間にか音春が右腕を絡ませていた。そして、桜が立ち上がろうとすると音春はそれにしがみつき、桜が立ち上がるのを阻んだ。
「音春ちゃん。」
困惑した顔で音春を見る桜。そんな桜に対し音春は説いた。
「桜ちゃんが言ったじゃない。ひどい人だって。間違ってないよ。その気持ち。そんな気持ちにさせる人達なんだから、むしろ嫌いになるのは当たり前のことだよ。」
桜は自身の心の中に音春が静かに入り込んで来ている様な気がした。しかも、そんな音春が差し出した答えに疑問を感じながらも、桜の心は傾いていく。
「あたしは別に嫌っているわけじゃ…」
傾く心を水平に戻して、桜は弱々しい口調で否定する。
「なら、好きなの?」
食いつく様な音春の質問に、桜は時間を置いてから答えた。
「…あたしはただ、あたしのことを嫌ってもいいけど、自分達のしていることが間違っている。人として悪いことだって分かってほしいだけ。学校でね。友達が友達を嫌いになった時、どちらの友達も嫌いを優先しちゃって、お互いへのいじわるをやりすぎちゃうの。」
「つまり、その嫌い合っている友達も、桜ちゃんのお母さんとお父さんも、根本は同じで、嫌う気持ちが強くなって、正しいことと悪いことの見境がつけられなくなっているといいたいの?」
「そういうこと。最悪なのが、嫌い合った者どうしはその後、お互いのいじわるをぶつけあうことしかできなくなっちゃうの。だって、どちらの言動も悪意があるんだもん。歯止めがかからなくなるのも当然なのよ。」
「だから、桜ちゃんはどんなにひどいことをされても嫌いたくない。でも、それって表に出さないだけで、内心では嫌いを認めているのと一緒なんじゃないの?」
痛い所を突かれたという顔で桜は音春の方を見た。その顔を確認する為か、音春はしがみついていた桜の腕から離れ、自身を見る桜の顔を覗き込み言った。
「だったら、素直になろうよ。大丈夫、桜ちゃんの嫌っているのはお母さんとお父さんそのものじゃないもん。桜ちゃんが本当に嫌っているのは二人の言動に対してだもん。ちがう?」
桜の中に音春の言葉が滑らかに入って来る。先程とは違い、何の疑いも湧いてこない。そして、音春からの言葉を自身の心に差し出して、尋ねてみる。
桜は何も言わずに頷いた。
「やっぱり。あたしね。桜ちゃんの不満をきいていくうちに、桜ちゃんの本音がわかったんだよね。桜ちゃんが本当は何を嫌っているのか。いや、これもちがうと思うんだ。」
「どういうこと?」
「桜ちゃんの抱えた不満は、桜ちゃんが気づかない間に、限界をむかえていたんだよ。それで、今度は限界をむかえた不満が、いつの間にか怒りに変わっちゃっていて、それを桜ちゃんは嫌いという気持ちだとかんちがいしちゃっただけだと思う。さっき、あたしの問いに分からないと答えたのは、かんちがいした嫌いを認めたくなかったからだと、あたしは話をしていくうちに思ったんだけど、どう?」
桜は音春の言葉を呑み込む。自身の考えにしっくりくる答えをずっと探していた事もあり、その答えが桜に妙な高揚感を与える。
「音春ちゃんの言う通りだと思う。あたし、自分の気持ちが分からなかったけど、今はすごく納得出来ている。」
「ごめんね。あたしは最初、桜ちゃんがお母さんとお父さんそのものを嫌っていると思っちゃったから、それを確かめたくて変なこといっちゃった。」
笑い掛けた音春に桜は首を横に振って返した。
「でも、そのことが分かったのなら、すなおになっても大丈夫だよ。」
「まだ嫌いを表に出せっていうの?」
「嫌いじゃなくて、訴えだよ。桜ちゃんが抱えているのは不満からくる怒りなんだから。そして、その不満は桜ちゃんのお母さんとお父さんに自分達のしている事が間違いだと分かってほしいというもの。だったら、こっちから訴えないとはじまらないよ。それとも、まだ例の嫌い合っている友達の様にお互いが行き過ぎるんじゃないかって不安?あたしは何に対して不満を持っていることがわかった今の桜ちゃんなら大丈夫だと思うけど。」
「大丈夫かな?」
恐がった声で桜は最終確認を始める。
「何度でもいってあげる。大丈夫だよ。」
「意見をいってもいいのかな?」
「当然だよ。」
「でも、何ていえばいいのかな?」
「それはね。」
音春は桜に囁いた。
桜が音春から貰った答えに対し、間違いだったのかと疑念を抱いたのはその日の夜の事だった。
音春と別れ、帰宅した桜には仕事がある。まずは干しておいた洗濯物を畳み、タンスへと仕舞う仕事。リビングや寝室等に置きっ放しの食器やコップを回収し洗う仕事。それから、家の中の掃除をする仕事。
範囲は広く、まずは両親が帰宅してすぐに使う為、浴室から始まる。次に洗面所、母親及び父親専用の部屋を除いた一階と二階の各部屋、階段、廊下となる。それぞれの部屋にある棚の上や手摺りは専用の布巾で磨き、床や廊下にはワイパーをかける。最後にトイレを掃除し終わりとなる。
これらが桜に与えられた仕事であるが、桜はこの日、生まれて初めて仕事を放棄した。
この行動こそ桜の訴えであり、音春による入れ知恵だった。
音春は両親に対し、自分達の行動が悪意に歪んでいる事を気付かせたい、それもこちらは悪意のない行動でそれを伝えたいという桜の希望を汲み取り考えた。その結果、音春が導き出した答えは、その悪意に屈しないという姿勢をみせるというものであった。音春は殴り掛かってきたのならば、防御する様に、両親が無視をした上で、攻撃をするのならば、こちらは与えられた仕事を放棄すれば良い。そうする事で、自身は貴方達を恐れないし、言いなりではないという意志を表すと桜に説いた。
桜は音春の考えに納得し、そのように行動する事を選んだ。
自室の机に向かい座っている桜の肩には力が入り、手は汗ばんでいる。自身で納得し、選んだ事とは言え、桜の心は張り詰めている。桜の鼓動が全力疾走した時の様に高まっていく。そんな鼓動を玄関の鍵の開く音が更に高めた。玄関から聞こえる声は二人分。母親と父親は同時に帰宅したようだ。機嫌が良いのか二人の声は明るい。明るい分、その反動を桜は考えてしまう。
リビングへと消えていった二人の声は、直後に怒号へと変わり二階の桜の部屋まで響き渡った。階段を駆ける大きな足音。桜の全身に力が入る。
少しの間を置いてから桜の背後の扉が勢い良く開く。桜は敢えて振り返らなかった。自身の行いにやましい事はない。寧ろ正しい事をしていると桜は思っている。だから、振り返るつもりはない。振り返るとしても、それは両親が言葉を掛けてからと決めていた。
息が苦しく、全身を巡る血液が加速するのを感じる。何もない机の上、そこに置かれた両手は震えている。そんな状態でも頭は働き、後ろの両親を意識する。何を言われるのか、或いは、生まれて初めて殴られるのか、桜の緊張が限界を迎えようとしている。そんな時、後ろでタンスを開く音が聞こえてきた。
自身の想像と違う展開が起きた事を不思議に思った桜は、決意をあっさりと撤回し、振り返った。そこで桜が見たのは、自身の黒いスカートを刺繡ハサミで切る母親の姿とピンクのセーターにプラモ用の黒い塗装スプレーを吹きかける父親の姿だった。
両親の顔は憎悪に歪んでいる。
思わず立ち上がった桜だったが、それ以上は何も出来なかった。桜は両親の予想外の行動にただ困惑し、二人から感じる悪意に恐怖した。
気の済んだ両親は一緒に持ってきていたゴミ袋に、先程まで衣類だった物を入れた。ゴミ袋の中身は燃えるゴミであり、その中には生ゴミも含まれている為、離れた場所にいる桜にもその独特の腐臭とスプレーの塗料の臭いが届いた。
母親は、椅子から立ち固まったままの桜を睨み付けながら言った。
「文句あんのか?」
桜は反応する事が出来なかった。それを察した母親は続けて主張した。
「あるわけねぇよな。やしなわれている分際で、その分の恩返しもできねぇんだもんな。それなら、あたえてやった物をダメにされるのは当然のことだよな。」
「行こう。」
父親が母親にそう伝えると、母親は素直に従った。部屋を後にした二人はそのまま家からも出て行った。
部屋に漂う生ごみと塗料の臭い。それが桜の鼻を突く事で、今、起きた事は現実だと認識させる。更に、時間の経過と共にその現実感が強くなる。
限界までせき止めていた桜の感情が溢れ出す。元々の原因は自身に対する態度、両親の過ちのはずだと、それなのに、何故こんな仕打ちまで受けないといけないのかという理不尽な行いに怒りを抱く。しかし、その怒りに対し、恐怖心が問い掛ける。そう思うのならば、何故、母親へ言い返さなかったのかと。言葉でも主張する事は出来る。主張とは意見であり、罵詈雑言ではないのだから、悪意をぶつける事にはならない。それなのに何故、言い返さなかった?答えはその恐怖に負けたからだ。
目の前のゴミ袋の口を縛り、それを見ながら、桜の頭に母親の言葉が甦る。
確かにあたしは今、両親に養われている。それならば、仕事をして返すのは当たり前の事だ。それを果たさないという事はただの自分勝手じゃないの。
音春がその事に気付いていたのか、気付いていなかったのか、桜には分からなかったが、いずれにしても、そう考えた桜はこうする様に助言した音春の事を無責任な奴と思った。そして、その思いは桜の中で激しい怒りの燃料となった。
助言をするならば、その先にどんな結果が待っているのかも含めて助言をするべきだ。それを怠った所為であたしは今まで以上に恐い思いをする羽目になった。これでますます当たりが強くなったら、どうするつもりなんだ。こうなったのは結局、音春ちゃんのせいじゃないか。
今回の行動の原因を作ったのが両親である事を忘れ、思い浮かべるのは音春に対する文句。そんな頭で、桜は今日の一件を反省し、洗濯物を取り込むところから仕事を始めようとしたが、その手はいつの間にか塗料で汚れていた。よく見れば、ゴミ袋には少し塗料が掛かっている。こんな手で洗濯物に触れる訳にはいかないと思った桜は、一度洗面所へと移動した。そこで桜は鏡面に映る自身の顔を見て、愕然とした。自身の顔は先程の両親と同じ表情をしていた。
音春に相談を持ち掛けたのは桜であり、音春はそれに応えて助言してくれただけの事。その音春の助言を鵜吞みにするのも、咀嚼した上で、どう行動するのかを決めるのも桜次第なのだ。初めから音春に落ち度なんてものはない。それにも拘わらず、そんな音春に怒る自身は最低でしかない事を桜は漸く理解した。同時に、桜は助言を鵜吞みにしている自分が音春に依存してしまっている事に気付く。桜はこんな自身に嫌悪感を抱いた。先程までの音春への言葉が返って来る。自身を恥ずかしく思う事にも耐えながら桜は考えた。
翌日の土曜日、桜は朝早くから柴春神社を訪れていた。
「桜ちゃ~ん。」
明るい声で呼ばれた自身の名前。その声がした方を見ながら、長椅子に座っていた桜は社の前まで移動する。太陽は既にその日の内で最も高い位置にまで昇っており、雲も小さい物がまばらに存在するだけである。そんな中、今日は湿気を含んだ風が頻繫に吹いており、そのお陰で、桜とっては心地の良い気候となっている。
鳥居を潜り抜け、声の主である音春が楽しそうな笑みを浮かべながら現れる。
「こんにちは。音春ちゃん。」
それに応える様に微笑を浮かべながら桜は言った。
音春は桜の顔を見た途端、笑みを消し、不思議そうな表情を浮かべたが、すぐに同じ笑みに戻った。
「作戦はうまくいったって顔しているね。」
音春がそう言うと、桜の微笑は苦笑に変わった。
「ざんねんだけど、作戦自体は失敗かな。」
「そうなの?」
予想外の答えに音春は目を丸くしたかと思えば、今度は納得出来ないという気持ちが、眉間の皺となって表れる。
「失敗したのに、なんでそんなに落ち着いているの?」
「それはね。答えが見つかったから。」
「答え?」
眉間に加えて、音春の目が細くなる。
「順番に説明するから、とりあえず、座ろうよ。」
先程まで一人で座っていた長椅子に、今度は二人で座る。桜は空を見ながら、助言の通り行動したら、どういう事が起きたのかを説明した。
「そう。お洋服を…。ごめんね。桜ちゃん。あたしが余計なアドバイスしたせいだね。」
「まったく、そのとおりよ…って正直、最初はそう思った。でも、その後で改めて考えたら、音春ちゃんは何も悪くないって気付いたの。だから音春ちゃんはあやまらなくていい。」
自身に向く優しい桜の笑み。それが無理して作られたものではない事を音春は直感で理解した。
「むしろ、あやまるのはあたしの方だもん。ごめんね。音春ちゃん。」
「どうして、桜ちゃんがあやまるの?」
「言ったでしょ。最初はそう思ったって。あたしはお母さんとお父さんから仕返しされたことを、音春ちゃんのせいにした。でも、それはあたしが音春ちゃんに依存してたからだと思うの。自分では何も考えずに音春ちゃんの言った通りに動く。何も考えてないから、責任も感じてない。責任を感じてないから、平気で音春ちゃんのことを悪く思った。音春ちゃんはあたしの相談にのって、きちんとそれに応えてくれた。どこも悪くないし、それだけで十分なのに、あたしはいつの間にか、あたしの問題を音春ちゃんに押し付けていたの。だから、ごめんなさい。」
空を見ていた桜は音春に向きを変えて、深く頭を下げた。その後に上がった桜の顔はどこか爽やかな印象を音春に与えた。
「これからはすぐに音春ちゃんに頼らないで、まずは自分の力で考えてみる。」
「桜ちゃんの気持ち、十分、伝わったよ。だから、あえて言うけど、一人で抱えこむようなことはしちゃダメ。それに桜ちゃん自身での考えがある上でのアドバイスなら依存する様にはならないと思うよ。だから、抱え込まずに桜ちゃんの事は全部教えてよ。桜ちゃんの問題はあたしの問題。あたしの問題は桜ちゃんの問題だよ。」
「そこまで言うなら、あたしの分は上げるけど、あたしは音春ちゃんの分、いらないからね。」
「えーっ。」
音春の不満そうな声を聞くと桜は笑い、それにつられて音春も笑い出した。
「ごめん、ごめん。音春ちゃんの気持ちも伝わったよ。ありがとう。でも、やっぱり、まずは自分で考えてやってみたいの。」
「それで上手くいかなったら?」
「その時はなんで上手くいかなかったかを、また考えてみて、それで行動してみる。それでも、上手くいかないなら、方法自体を変えてみる。そうやって、繰り返すことであたしは自分自身を確立する。そうすれば、お母さんとお父さんにも負けない強い気持ちを持てるようになるはずだから。」
桜がそう言った瞬間、音春は先程までと違う、いつもの優しい笑みを浮かべて言った。
「どうして?弱いままでもいいじゃない。それこそ、自然界の中には依存して生きている生物だっているんだから、桜ちゃんだって依存してもいいじゃない。」
「そういう生き物は依存しないと生きていけないことが前提にあるし、依存する代わりに別の形で恩返しをしている。でも、あたしは依存しないと生きていけないわけじゃない。それに依存の先に音春ちゃんをうらむような黒い感情があるなら、あたしは依存なんてしたくない。そう考えると結局、依存はあたしにとって弱さでしかないの。お母さんとお父さんに仕返しされた時、あたしはただ、恐がっていただけだった。一方のお母さん達はあたしが仕事をサボったら、そんなあたしへの嫌悪感を強めた。どうして、そんな行動をあたしが取ったのかと思い、我に返ったりもせずに。それで分かったの。嫌悪感といってもお母さん達の気持ちの方が、あたしの抱えている怒りよりも圧倒的に強かったって。むしろ、あたしの気持ちはとても弱く、もろかった。ただ、それも当然。音春ちゃんに依存していたんだもん。でも、それも、もうおしまい。」
「ふぅん。そういうこと。それで、強くなるために、今後はお母さん達にどういうことをするの?」
笑みを消した音春は少し退屈そうに尋ねた。
「もう何もしない。例え、これからお母さん達の当たりがもっとひどくなっても、何もしない。それどころか、与えられた仕事はきちんとやるよ。」
「それは、こっちが行動を起こしても、さらにひどい仕返しがあるからじゃないの。」
音春の口調は少し強くなっていたが、桜は意識せずに返した。
「それも、もちろん理由の一つだよ。何かすれば、強く返って来るだけなら、こっちから相手に何かを訴えても意味はないもん。それこそ、無理にそれを繰り返せば、お互い意地の張り合いになって、昨日話した通り、傷つけ合うだけの関係になっちゃうし、そうはなりたくない。ただ、それとは別の理由で、仕事はするの。お母さんが言った通り、あたしはやしなわれている。今日、用意したお昼のお弁当。」
そう言って桜は弁当の入ったリュックを膝の上に乗せ、それを軽く叩いた。
「確かに、これが食べられるのはお母さん達のおかげだもん。お弁当は自分で作らないといけないけど、その食材を使えて、料理が出来るのはお母さん達がお金をかせいでくれるおかげ。だとしたら、やっぱり、与えられた仕事はしないと、後味が悪いの。だから、もうサボらない。それにあたしの目指す強さは動じない強さなの。それをこれからは守っていくの。そうなる為には、やっぱり、そういうところもしっかりしておかないといけないし、音春ちゃんを含めて誰かに依存するようなこともしちゃいけない。そうしないと、いずれぶれちゃうと思う。すぐにはなれないかもしれないけど、あたしはその強さを手に入れたいの。ただ、もしも、行きづまった時は、音春ちゃんに助けを求めるから、その時は助言をちょうだい。」
「えー、やだ。」
音春がそう言うと、先程と同じ様に桜は笑ったが、音春は全く笑おうとしなかった。寧ろ、冷ややかな視線を桜に向けている。
音春のその態度に何か寒気の様なものを桜は感じ、笑うのを止めた。
「どうかしたの?」
ススキの原っぱを風が揺らす様に桜の胸の中も何かが揺れ動く。
桜の問い掛けを無視し、音春は荷物を持って立ち去ろうとする。それを桜は慌てて追い掛け、音春の前に立ちふさがる。
「音春ちゃん。急にどうしたの?何か気にさわった?」
音春は何も応えないどころか、表情一つ変わらない。
「何かいってよ。」
縋る様に桜が言うと、音春は漸く口を開いた。
「動じない強さを手に入れたいといったわりには、かなり気持ちが乱れているね。」
冷たい目と共に自身へと向けられた音春の言葉に、桜は少し落ち着きを取り戻した。そんな桜へと続けて音春は言葉を突きつけた。
「あたし、桜ちゃんに興味なくなっちゃった。それじゃあね。」
その言葉を残し、音春は桜の横を通り過ぎる。一方の桜は音春の言葉が入って来た瞬間、自身の心の力を緩めた。
音春は速度を変えず、淡々と歩き続ける。しかし、鳥居まであと数歩という場所に至った際、その脚は止まり、体が再度桜の方へと向いた。桜は寂しさを含んだ笑みを浮かべていた。
少しの沈黙が訪れた後で、音春は独り言を呟いた。
「やっぱり、はっきり言っておこうと。」
そう言うと音春は桜との距離を少しだけ縮めた。そして、桜の目を真っ直ぐ見ながら、続けて言った。
「その態度にめんじて、特別に答えてあげる。」
音春の圧に桜の顔からは笑みが消え、この流れに少し驚いたのか、目元が大きく開かれる。
「あたしがほしかったのは、あたしのいいなりになる桜ちゃんなの。あなたじゃない。」
「いいなり?」
「そう。何でも、あたしに話して、あたしの言う通りに動く。その方があたしには良かったの。」
「でも、その結果、あたしは音春ちゃんをうらんだよ。今回はたまたま、あたしが考え直したからよかったけど、それが、ずっとつづいていれば、今度はあたしが音春ちゃんから離れていたかもしれないよ。」
「うらんだとしても、その時には、もう遅いの。現に、あなたと両親の関係は壊れている。壊しちゃった居心地の悪い相手と向き合うよりも、うらめしいけど自分を受け入れてくれる相手と接している方がまだマシでしょ。」
桜は心が少しずつ冷えていくのを感じた。
「それにあたしをうらんでいたとしても、きっと両親からの当たりはこれからひどくなる一方だろうから、そうなれば、あたしの知っている桜ちゃんはためらいながらも、あたしを受け入れると考えていたの。桜ちゃんと接してくれる人なんて、両親とあたししかいないもんね。それで、受け入れた桜ちゃんは、再びあたしに助けを求め、しだいに、今までよりもあたしに依存して、あたしのいいなりになるはずだったんだけど、まさか、あたしよりも、自分を選ぶとは思わなかった。こうなると、あたしの話なんてきかないんだから、興味もわかないって。」
「音春ちゃんはかん違いしてない?あたしは依存しないっていったけど、べつに音春ちゃんと仲良くしないってことじゃないよ。」
「あなたこそ、かん違いしているよ。あたしは仲良くしてくれる相手がほしいんじゃないの。いいなりになる相手がほしいの。だから、あなたはいらない。最後にまだあたしへの未練があるか試したけど、あなたは結局、去っていくあたしを受け入れて、引きとめようとしなかった。それに腹が立ったから、答えてあげることにしたの。」
音春の顔が歪んでいく。それを見ながら、両親や鏡面に映った自身の顔を桜は思い出した。桜は最後に音春を断ち切る為に質問した。
「…音春ちゃんはあたしとお母さん達の関係をはじめから壊すつもりだったの?」
「そう。あたしにとっては…というか、だれだって他人の家のことなんて、どうでもいいに決まっているでしょう。逆に、どうでもいいから、自分でいじってみたくなっちゃうんじゃない。関係の壊れたお母さんとお父さんとのこれからのくらし、楽しみだね。」
踵を返し立ち去る音春の背中を見つめる桜の頭は「おちつけ」と何度も唱える事で精一杯だった。
彼女の中での自分の問題はしょせん他人事。テレビのニュースを見るのと同じ感覚だったんだ。そんな彼女が悪意をもって、ちょっかいを出してきたけど、彼女を責めるのは違う。彼女があたしにしたのはただの主張で、それに耳を貸したのはあたしだ。そう納得しているのに、ゆれ動くのは、きっと悪意でしか満たされない彼女をあわれんでいるからだ。そんな彼女に何かしてあげたいと想う一方で、行動に移せないのは、彼女の言葉があまりにも色濃く残っているから。「興味がない。」その言葉が彼女に対し、行動しようとするあたしを止める。弱いあたしはまたその言葉を向けられることを嫌がっている。あたしでは何も出来ない。悪意で満たされている彼女を、何で満たせばいいのか分からない。だから、彼女のことをあきらめるんだ。
混乱した気持ちを一つ一つ丁寧に整えて、自身の思考を取り戻し、桜はそう結論を出した。
それから、四年が過ぎたが、今でも、この柴春神社を訪れる度に、桜はこの時の事を思い出す時がある。
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