第五章:世界で一番、優しい嘘

 その日を境に、あかりの心と言葉のずれ――僕が「不協和音」と感じていたもの――は、ますます顕著になっていった。それはまるで、今までユニゾンで歌っていた二人の歌手が、それぞれ別のメロディを歌い始めたかのようだった。


 ある朝、僕が教室に入ると、灯が駆け寄ってきた。


「おはよう、奏君。あ、髪、少し切ったんですね。すごく似合ってます」


 彼女はにこやかにそう言った。一見、いつもと変わらない朝の挨拶だ。しかし、彼女の心の中は、嵐のようだった。


(うわ、かっこいい……! どうしよう、昨日よりずっと素敵に見える。なんでこんなにドキドキするんだろう。心臓の音が聞こえちゃいそう。落ち着け、私。普通に、普通に挨拶しないと)


 彼女の言葉は静かな賛辞だったが、心は情熱的な賛歌を歌っていた。


 放課後、僕が一人で図書室に向かおうとすると、後ろから声がかかる。


「奏君、今日も図書室ですか? 私も行こうかな」


(奏君がいるところなら、どこだっていい。本当は本なんて、今日は読む気分じゃない。でも、少しでも長く、奏君の隣にいたい)


 彼女は、僕と一緒にいるための口実を作っている。それは


 図書室で、僕が手に取ったニーチェの本を見て、彼女は言う。


「『ツァラトゥストラはかく語りき』……難しそうな本ですね。でも、面白そう」


(全然面白そうじゃない……。タイトルからして意味がわからないわ。でも、奏君が読んでる本だから、興味があるふりをしなきゃ。彼が好きなものを、私も好きになりたい……!)


 僕は、混乱しながらも、気づき始めていた。彼女のつく嘘は、僕がこれまで聞いてきた他人の嘘とは、


 伊吹蓮がついた嘘は、面倒事を避けるための自己中心的なものだった。クラスメイトたちの心の声は、嫉妬や見栄、自己防衛、退屈といったネガティブな感情から生まれるものがほとんどだ。


 しかし、灯の嘘は、誰かを貶めたり、自分を守ったりするためのものではない。むしろ、その逆だ。


 彼女は、自分の溢れ出しそうな好意を、僕を困らせないように、必死にオブラートに包もうとしている。その不器用な嘘は、誰かを傷つけるどころか、


 ある日の夕暮れ時、僕たちは学校の屋上にいた。立ち入り禁止の札がかかっていたが、鍵が開いていることを知っていたのは、僕たちだけの秘密だった。


 フェンスの向こうに、茜色と紫色が混じり合った空が広がり、街のシルエットを黒く縁取っていた。息をのむほど美しい光景だった。


「きれいですね……夕日」


 灯が、フェンスにもたれかかりながら、ぽつりと呟いた。しかし、彼女の心の声は、まったく違うことを語っていた。


(うそ。夕日なんて、ほとんど見てない。私はずっと、奏君の横顔ばかり見てる……。夕日に照らされた髪も、真剣な眼差しも、全部きれい……。この時間が、永遠に続けばいいのに……)


 その心の声を聞いた瞬間、僕の中で何かが弾けた。

 ああ、そうか。

 これが、彼女の「嘘」の正体なのか。


「あかり」


 僕は、風に吹かれる彼女から目を離さずに、名前を呼んだ。


「君、最近、変わったね」


「え?」


 灯は、驚いて僕の方を振り返った。その表情には、明らかな動揺が浮かんでいる。


……? 私のこの気持ち、奏君に気づかれてるのかな。だとしたら、どうしよう。気持ち悪いって、思われるかもしれない)


「前は、心で思ったことを、そのまま話してくれてたのに」


 僕は、彼女の心を探るように、静かに言った。


「そ、そんなこと……ない、ですけど……」


 彼女の声は、か細く震えていた。明らかに動揺している。そして心の声は、悲鳴に近い。


(どうしよう、どうしよう。奏君に恋してるなんて、言えるわけない。でも、こんな風に心を隠す自分が嫌だ。だけど、本当のことを言ったら、今のこの関係が壊れちゃうかもしれない。それだけは、絶対に嫌……!)


 僕の心は、奇妙な感情で満たされていた。それは、落胆でも、怒りでも、悲しみでもなかった。


 あかりが、僕に嘘をついている。


 でも、それは僕が今まで忌み嫌ってきた、醜く、利己的な嘘ではなかった。


 それは、相手を大切に想うがゆえに生まれる、臆病で、不器用で、そして……とてもだった。


「あかり。僕に、何か話せないことがあるの?」


 僕は、もう一度、優しく問いかけた。


「な、ない、です……」


 彼女は、俯いてしまった。長い髪が、彼女の表情を隠す。


。たくさん、。でも言えない。言ったら、奏君が困るかもしれない。私のこの気持ちが、奏君の静かな世界を乱してしまうかもしれない。壊してしまうかもしれない。それだけは、したくないの……)


 その時、僕は、完全に理解した。


 彼女の心と言葉がずれているのは、僕が他の人間たちの中に見てきたような、心の濁りが原因ではない。


 彼女が、からだ。


 僕への、まだ名前もつけられない淡い恋心を、とても繊細な壊れ物を扱うように、大切に、大切に胸に秘めているからなのだ。


 胸の奥から、熱いものがこみ上げてきた。


 人間は嘘つきだ。


 でも、その嘘の中には、こんなにも温かくて、美しいものが存在し得たのか。


 生まれて初めて、僕はのだ。


 そしてその嘘は、僕のためだけにつかれた、世界でたった一つの、宝物のような嘘だった。


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