エルグ〜天下侠盗の地心遊記〜
火之元 ノヒト
始まりの旅
第1話 記憶喪失の男
「ん……んん……」
冷たい水の底から無理やり引き上げられるような、不快な浮上感。意識の深淵から覚醒する中で、男の五感が、おぞましい現実を一つ、また一つと拾い上げていく。
最初に感じたのは、背中に突き刺さるような鋭い痛みだった。ごつごつとした岩の感触が、肉を削ぐように硬い。次いで、頬を撫でる容赦のない冷気が、肌の感覚を麻痺させていく。それはまるで、死者の吐息のようだった。
耳鳴りのように絶え間なく響く音。鼓膜を劈く高音の混じったそれは、獣の咆哮にも似た荒々しい風の音だった。空気が乾燥しきっているのか、呼吸をするたびに喉の奥がひりつく。鉄錆のような臭いが、微かに鼻をついた。
重い瞼をこじ開けると、まず視界に飛び込んできたのは──希望の一切を塗りつぶしたかのような──どこまでも広がる鉛色の空。そして、目の前を巨大な帳のように塞ぐ灰色の絶壁。岩肌は無数の傷跡に覆われ、永劫の時をこの場所で耐え忍んできたかのようだった。
自分が、岩壁から申し訳程度に突き出た岩棚の上に横たわっているのだと理解するのに、そう時間はかからなかった。身じろぎすれば、そのまま奈落へ吸い込まれそうな、僅かばかりの足場。大の男が一人、どうにか横になれるだけの広さしかない。
恐る恐る首を巡らせれば、眼下は遥か渦巻く濃密な霧が地上を隠し、世界の果てにでもいるかのような途方もない孤独感に襲われる。
心臓が肋骨を内側から激しく叩いた。その鼓動だけが、自分がまだ生きていることを証明している。
──何故、こんな場所にいるのだ?
記憶を手繰ろうとしても、頭の中には分厚い靄がかかったように、何も思い出せない。男は喘ぐように呼吸を繰り返す。
上へ登る術もなく、かといって、助けを呼ぶ声も荒れ狂う風に弄ばれかき消されるだけだろう。八方塞がりという言葉が、これほど身に染みたことはなかった。
男は巨体を丸め、岩棚の狭さに呻いた。並の男より一回り以上も大きいその屈強な肉体は、この不安定な足場ではあまりにも持て余す。少しでも重心を誤れば、たちまち均衡は崩れ、奈落へと身を投じることになるだろう。
このまま風に体温を奪われ、じわじわと衰弱していくのを待つだけなのか。
死の予感が肌を粟立たせた、その時だった。
渦巻いていた眼下の霧が、巨大な幕が開くようにゆっくりと引いていった。
現れたのは、大地に穿たれた巨大な湖。その水面は不気味なまでに赤く、大地の裂け目からとめどなく流れる血が水溜まりを形成しているかのようだった。
水面は油のようにぬらぬらと光り、時折、気泡が浮かび上がっては弾け、微かな腐臭を風に乗せて運んでくる。
絶望が、男の心をじわりと侵食する。
男は風に煽られ、白髪を激しくたなびかせながらも、僅かな足場に屹立していた。その瞳には、狂気と諦念の入り混じった光が宿っていた。
正気の沙汰ではない。
そんな事は百も承知だった。しかし、上は行き場のない絶壁、下は血色の湖。どちらも地獄であることに変わりはないのならば、このまま岩棚の上で惨めに凍え、力尽きるのを待つよりは――。
「南無三……!」
乾いた唇から絞り出した言葉は、誰に聞かれるでもなく風に溶けた。男は意を決し、両腕を広げ、虚空へと巨体を投げ出した。
一瞬の浮遊感。
風を切り裂き、赤い水面が急速に迫る。着水の衝撃は、しかし想像したものとはまるで違った。それは──水というよりも──生ぬるい泥のように体中に纏わりついた。男が不気味な感触に身を震わせた瞬間、足首に冷たい感触がぬらりと纏わりついた。
「ぐっ……!?」
それは、抗いがたい力で男を水面下へと引きずり込む。赤い粘着性の水が視界を奪い、肺に残っていた空気がごぼりと泡になって漏れた。
湖の底から伸びる腕のような「何か」は、男の巨体すら玩具のように軽々と扱う。一本、また一本とそれは増え、両足に、腰に、腕に絡みつき、底なしの深みへと引きずり込もうとする。
男は必死に手足をばたつかせるが、それらの力はあまりに無力で、体は沈みゆく一方であった。
意識が朦朧とし始める。赤い水が口や鼻から侵入し、鉄の味が口内に広がった。絶望が男の意識を塗りつぶそうとした、その時だった。
水面に一条の光が差し、きらりと輝く紐状の「何か」が目の前を通り過ぎた。男は僅かに残った力を振り絞り、それを掴む。頼りないほど細く、しかし不思議と手に馴染む冷たい金属の感触。
次の瞬間、男の体は信じがたい力で浮上し始めた。
無数の腕が、なおも両の足に食らいつくが、紐から伝わる力はそれを上回り、ついには男の巨体を岸辺の赤い泥濘へと乱暴に引きずり上げた。
「げほっ、ごほっ……!」
泥にまみれ、激しく咳き込みながら、肺に侵入した不快な液体を吐き出す。意識が朦朧としている。男は必死に息を整え、ズレた焦点を合わせる。すると、そこには自分を見下ろす人影があった。
そこに立っていたのは、まだあどけなさの残る一人の金髪の少女だった。そのあまりの可憐さに、男は目を奪われていた。それはまさに、泥中の花といった出で立ちであった。
血の湖の不気味さや、荒涼とした周囲の風景とはあまりに不釣り合いな、清らかで凛とした瞳。汚れ一つない白い肌、月光を束ねたような金色の髪。
その小さな手が、先ほどの紐の一端――それが細い鎖であることを、男は今になって理解した――を、こともなげに握りしめている。自分の命を救ったのが、そのか細い腕から放たれた力だという事実が、男にはにわかには信じられなかった。
その存在は、この地獄のような風景の中にあって、あまりにも鮮烈な光を放っていた。男は、恐怖も混乱も忘れ、ただ呆然と彼女の姿を見つめていた。そして、朦朧とする意識のまま、喘ぐように言葉を絞り出した。
「お前は一体……」
その声は掠れていた。彼の問いに答える代わりに、どこか中性的な澄んだ声が男の耳朶を打った。
「良かった……。生きてたんだね」
目の前の存在は、心配そうに屈み込み、男の顔を覗き込む。その大きなアメジスト色の瞳には、警戒よりも、純粋な好奇心が浮かんでいた。
この異様な場所で平然と振る舞い、男の巨体をいとも容易く引き上げた神懸かり的な力。男の口から、思わず疑念が漏れる。
「人間……なのか?」
少女の形の良い眉がピクリと動く。可憐な顔が、心外だと言わんばかりに僅かに歪んだ。
「……当然」
ぷいっと顔をそむける、その人間らしい仕草に、男はかえって安堵を覚える。少なくとも、湖の底で絡みついてきた得体の知れない化け物とは違う、意思を持った存在らしい。
助けられた礼を言うのが先だと気づき、彼はなんとか身を起こした。
「名前は……。お前の名前を教えてくれるか?」
少女は再び彼の方を向くと、ぶっきらぼうに答えた。
「……俺はクムダだ」
その一人称に、男はわずかな違和感を覚えた。その響きは、目の前の存在の繊細な佇まいとは、どうにも不釣り合いに思えた。疲弊しきった頭は深く考えることを放棄する。
「俺? 変わった女だな」
悪意はなかった。全くもってなかったのだ。ただ、目の前の存在の見た目から、てっきり少女だと信じて疑わなかった。
素直な感想が、そのまま口から滑り出ただけ。しかしその一言が、乾き切った大地に落ちた
クムダと名乗った少女の顔が、みるみるうちに朱に染まっていく。それまでの、どこか掴みどころのない落ち着き払った態度は消え失せ、吊り上がった眉と固く結ばれた唇が、嵐の前の静けさを物語っていた。
場の空気が張り詰める。乾いた風が止み、まるで世界から音が消えたかのような錯覚に陥った。
「なっ……!」
静かだが、煮え滾るような声が響いた。それは、先程までの鈴を転がすような澄んだ声色とは似ても似つかぬ、地を這うような低い声だった。
「誰が……女だ」
少女──クムダは、男の胸倉を掴まんばかりの勢いで一歩踏み出した。
「……よく見ろ! 俺は男だ!!」
叫びは雷鳴となって赤い大地に轟いた。驚愕に見開かれた男の瞳に、怒りに燃えるクムダの顔が悪夢のように焼き付いていた。
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