第8話:救世教団
街道を歩き始めて、さらに三日が経った。
足の裏の豆は潰れ、硬くなり、痛みは最早、体の一部と化していた。日に焼けた肌はひりひりと熱を持ち、乾いた唇からは時折、血が滲む。それでも、俺は歩みを止めなかった。アルトハイムという目的地が、かろうじて俺の心を支えていた。
そんな矢先、地平線の先に小さな村の影が見えた時、俺は思わず安堵の息を漏らした。水も食料も、もう底をつきかけていた。藁にもすがる思いで、俺は最後の力を振り絞り、その村へと向かった。
しかし、村に足を踏み入れた瞬間、俺は眉をひそめた。
活気というものが、ほとんど感じられない。家々の壁は手入れが行き届かず、屋根には補修の跡が目立つ。道端に座り込む人々は皆、一様に痩せており、その顔には日々の暮らしの疲労が色濃く浮かんでいた。活気はないが、死んでいるわけではない。ただ、皆が明日をどう生きるかという重圧に、静かに耐えているような空気が漂っていた。
「……ひどい有様だ」
思わず呟いたその時、村の中央広場から、人の集まる声が聞こえてきた。何事かと思い、そちらへ向かうと、奇妙な光景が広がっていた。
純白のローブを身にまとった一団が、集まった村人たちに何かを説いている。その中心に立つ男は、穏やかな口調で語りかけていた。
「我らが神を信じなさい。さすれば、魂は救済されるでしょう」
救世教団。それが、彼らの名前らしい。
俺はしばらく、その光景を遠巻きに眺めていた。宗教の勧誘か何かだろうか。村人たちは熱心に聞き入っている者もいれば、無関心な者もいる。
その時だった。
「――お前は、まだ神への信仰が足りないようだ。その薬は、より信仰深き者に与えられるべきだ」
教団の男の一人が、薬草の入った小袋を受け取ろうとした老婆の手を、ぴしゃりと叩いた。老婆は悲しそうな顔で、すごすごと人垣から離れていく。
俺は、その光景に違和感を覚えた。彼らは無償で人を救っているわけではないのか。信仰の深さで、与えるものを決めるというのか。
さらに観察を続けると、その違和感は拭いがたいものへと変わっていった。
教団の者たちの目は、確かに村人を想う優しさに満ちている。しかし、その奥底に、時折ちらつく熱狂的な光は何だろうか。彼らが語る言葉は慈愛に満ちているが、「我らを信じる者だけが救われる」「神の教えに背く者に、恵みはない」といった言葉には、どこか排他的な響きが混じっていた。
救いの手を差し伸べる一方で、何かを選別しているような、ちぐはぐな印象。それが、俺の中で言い知れぬ疑念となって渦巻き始めていた。
師の言葉が、脳裏をよぎる。
『自分の意志で道を選び、何をするかを決め、その結果に責任を持つ。それが本当の意味で『生きる』ということであり、『自由』ということだ。』
この村人たちに、その「自由」はあるのだろうか。病や不安という弱みに付け込まれ、一つの価値観を盲信するよう仕向けられているだけではないのか。
俺は、言い知れぬ違和感を覚え、これ以上関わるのはやめようとその場を離れようとした。
その時、怒声が響いた。
「ふざけるな!あんたたちのやっていることは、偽善だ!」
声のした方を見ると、一人の若者が、教団の信者数人に囲まれていた。若者は痩せてはいるが、その瞳にはまだ反抗の光が残っている。
「病気の母親のために薬が欲しいと言ったら、まずは神に祈りを捧げろだと?祈りで病気が治るものか!」
「口を慎め、不信心者め!」
信者の一人が、若者の胸ぐらを掴んだ。
「我らが神の御力を疑うか。貴様のような者に、救いを受ける資格はない!」
「うるさい!離せ!」
若者が信者の手を振り払おうとした瞬間、別の信者が若者の腹を殴りつけた。
「ぐっ……!」
地面にうずくまる若者を、信者たちは冷たい目で見下ろしている。周囲の村人たちは、怯えたように遠巻きに見ているだけで、誰も助けようとはしない。教団に逆らうことの恐ろしさを、骨身に染みて理解しているのだろう。
――そこまでだった。
俺の体は、思考よりも先に動いていた。
「やめろ」
気づけば俺は、信者たちと若者の間に割って入っていた。俺の大きな体が、若者を守るように立ち塞がる。アルフレッドとの森での生活で鍛えられた体は、平均的な男たちと並ぶと、その大きさが際立った。
信者の一人が、俺の体格に一瞬怯みながらも、忌々しげに睨みつける。
「何だ、貴様は。こいつの仲間か?」
「ただの旅人だ。だが、寄ってたかって一人を痛めつけるのは、見ていて気分の良いものじゃない」
俺は背中の剣に手をかけることなく、ただ静かに信者たちと対峙する。その体格差からくる威圧感だけで、彼らはわずかに後ずさった。
「どけ!我々の救いの邪魔をするというなら、貴様も同罪と見なすぞ!」
虚勢を張るように叫び、信者の一人が、警告と共に拳を振りかぶってきた。森での訓練で染み付いた動きで、俺はその腕を掴み、軽く捻り上げる。
「ぐあっ!」
情けない悲鳴を上げて、信者が体勢を崩す。それを見た他の信者たちも、一斉に俺に襲いかかってきた。
俺はアルフレッドに教わった体捌きで、その攻撃をことごとく避ける。殴りかかってくる腕を取り、関節を極める。蹴りかかってくる足を払い、体勢を崩させる。俺は一度も殴り返すことなく、次々と信者たちを無力化していった。
彼らはただの狂信者で、アルフレッドのような本物の戦士ではなかった。その動きは素人同然で、俺の敵ではない。
あっという間に、信者たちは地面に転がっていた。
その騒ぎを聞きつけて、広場の奥から一人の男が現れた。他の信者とは違う、上質なローブをまとっている。この村の支部リーダーといったところだろう。
リーダーは地面に転がる部下たちと、その中心に立つ俺を交互に見ると、冷徹な声で言った。
「……貴様、何者だ」
その瞳には、先ほどの信者たちのような熱はない。代わりに、蛇のような冷たい光が宿っていた。
「ただの旅人だ」
「その若さで、その腕前……ただの旅人が身につけられるものではない。どこでそれを学んだ?」
リーダーの問いに、俺はアルフレッドの顔を思い浮かべながら答えた。
「師に、生きるための術として叩き込まれただけだ」
「師、だと……?」
リーダーは俺の言葉を吟味するように、目を細めた。俺の素性を探ろうとしているのが、ひしひしと伝わってくる。
しばらくの沈黙の後、リーダーは口を開いた。
「……いいだろう。今日は見逃してやる。だが、我らが救世教団の活動を妨げるというなら、次はないと思え」
それは、明らかな警告だった。
リーダーは部下たちに撤収を命じると、最後に一度だけ、俺を値踏みするような視線で射抜き、広場の奥へと消えていった。
嵐が去った後、俺はうずくまっていた若者に手を貸した。
「大丈夫か?」
「……ああ。あんた、すごいな。助かったよ」
若者は、口の端の血を拭いながら礼を言った。
「俺はカイ。あんたは?」
「リヒトだ」
「リヒト、か。本当にありがとう。でも、あんたも早くここから離れた方がいい。あいつらは、一度目をつけた相手を、決して逃がしはしない」
カイの言葉に、俺は静かに頷いた。厄介な連中に目をつけられてしまった。長居は無用だ。だが、一つ問題があった。
「……そうしたいのは山々だが、水も食料も底をついている。この村で補給しないことには、先へ進めない」
俺が苦々しく言うと、カイは少し考えた後、決意したように言った。
「わかった。少し待っててくれ。あいつらに見つからないように、裏からこっそり持ってきてやる」
「いいのか?」
「あんたは、俺の母親のために体を張ってくれたも同然だ。このくらいの恩返しはさせてくれ」
そう言うと、カイは足早に路地裏へと消えていった。しばらくして戻ってきた彼の腕には、革袋と、布に包まれたパンと干し肉があった。
「少ないけど、これで何日かはもつはずだ」
「……助かる。この恩は忘れない」
俺はカイから食料を受け取ると、固く握手を交わした。
「リヒトもな。そうだ、一ついいことを教えてやる」
カイは声を潜め、村の先を指差した。
「この先の街道は、しばらくあいつらの息がかかった場所が続く。下手に進むとまた捕まるかもしれない。だから、この村の裏手から森に入る獣道を行くといい。少し遠回りになるし、魔物も出るかもしれねえが、お前の腕なら街道よりは安全なはずだ」
「獣道か……。貴重な情報だ。ありがとう、カイ」
「ああ、リヒトも気をつけて行けよ」
カイに別れを告げ、俺は教団の者たちに見つからないよう、彼に教えられた村の裏手から慎重に抜け出した。そして、薄暗い森へと続く獣道に足を踏み入れると、アルトハイムへの道を急ぐのだった。
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