サイレンスシンフォニア
白咲実空
第一楽章 ヴィーヴァ
1
曇りひとつない窓ガラスから太陽の光が降り注ぎ、グランドピアノの真っ黒な屋根を照らす。椅子に腰掛けたヴィーヴァは、誰に見られているわけでもないのに背筋をピンと伸ばし、足を揃えて静かに前を見た。そして、譜面台に落ちた埃を躊躇いなく、白く長い指先で拭うと、一呼吸おいた後、鍵盤に両の手を這わせ、強く、柔く押し込んだ。
リブ・ヴォールト天井に、深い音が響く。ヴィーヴァは目を閉じ、身体を揺らし、手を止めず、一心不乱に音を紡ぐ。空っぽの花瓶、高貴なブラウンが艶めく空席の長椅子、灯のないアイアンシャンデリア、誰の靴音もしない真っ赤な絨毯、空っぽだった教会が、ヴィーヴァの音によって微かな熱を宿し、徐々に勢いをつけて彩られていく。止まっていた時を動かすように、無色だった景色に色をもたらすように、ヴィーヴァはゆったりと、重厚な、上質な音を奏でる。ただ、無我夢中にピアノを弾く。
「ヴィーヴァ!」
ぶつんっ。と、ヴィーヴァの音が途切れた。重々しい教会の扉を蹴破るようにして開けた男は、鍵盤から手を離すヴィーヴァを視界に捉えると、「ヴィーヴァ!」ともう一度叫んだ。
「またピアノを弾いていたのか! 今、何時だと思っとるんだ!」
巨体を揺らして、男はヴィーヴァに近づいていく。男がダンっと大袈裟に絨毯を踏みしめる度、ヴィーヴァの音の残像にヒビが入り、壊れ、消滅していく。すっかり元の色に戻ってしまった教会に、ヴィーヴァの無遠慮な舌打ちが響いた。
「なっ……⁉ 親に向かってなんだその態度は──」
男が言い終わるより先に、ヴィーヴァは自身の靴を脱ぐと思い切り男に向かって投げつけた。パンプスはみごと男の顔に命中し、高いヒールが目の周りにでも刺さったのか男はすぐさまその場にしゃがみ込むと顔を抑えて蹲る。
「な、にをするか、この野蛮人が……」
「黙れ。そして今すぐここから出て行け」
「なんだその口の利き方は! ヴィーヴァ、お前が今すぐこの教会から出て行け! 今すぐにだ!」
顔を抑えていた手を扉に向け、唾を飛ばす男。ヴィーヴァが思い切り顰め面をすると同時に、ボーンと低い音が空気を震わせた。教会の時計塔が鳴ったのだ。
「ああああああ、もうこんな時間だ! ヴィーヴァ、叱るのは後だ! すぐに支度をしなさい! 服はもうそのままでいいから、今すぐ客室へ向かうんだ! お前が我儘を言ったせいで、向こうから来てもらっているんだぞ! それなのに待たせるわけにはいかん!」
ピアノの鍵盤蓋を丁寧に閉じたヴィーヴァは、男から逃げるように歩き出す。男はヴィーヴァを追いかけながら、唾を飛ばす。
「いいか? もう四十九回になるんだぞ! 今回の縁談も失敗すれば五十回だ! お前は自分の立場が分かっていない! 五十回も縁談を持ってきた私と、五十人の男に感謝するべきなんだ! 縁談が失敗してきた原因は誰にあると思う? 全部お前だ! お前がピアノばかり弾いているせいだ! 中にはそんなお前に寄り添ってくれた男もいたというのに……そうだ、三十九番目の男にお前はなんと言った? 私は今でも忘れない。食卓の席で、白身魚を相手の顔に投げつけて、邪魔だ消えろボケなどと暴言を吐いたあの日の光景をな! 温和だったリチャード家のご子息をあんなに怒らせて……! いいかヴィーヴァ、お前が何かやらかす度、双方の家柄だけでなくお前自身の価値も下がっているんだぞ! もし縁談がどこからもこなくなってしまったら、お前はどうやって生きていくんだ!」
「ピアノを弾く」
男の長ったらしい説教に、ヴィーヴァはたった一言で答えた。
「ピアノを弾いて生きていく」
男が頭を抱え、足を止めた瞬間を狙ってヴィーヴァは教会の扉を開けた。だが、扉を開けた先には二人のメイドが待ち構えていた。
「お待ちしておりましたヴィーヴァ様」
「ヴァルス様がお見えです。早くご支度の準備を」
メイドはヴィーヴァの両脇にそれぞれ腕を差し込むと、無理矢理にでもヴィーヴァを引っ張っていく。罪人を連行するような強硬手段に、ヴィーヴァは勿論力づくで抵抗する。
「放せっ! 私はこの家の娘だぞ! 偉い奴なんだぞ!」
「こんな時だけ地位を持ち出さないでくださいませ」
「どんな方法でも良いからヴィーヴァ様を連れて行けと、旦那様からのご命令です」
公爵家の娘を無遠慮に引きずり回すメイド。その光景を見て、男──ヴィーヴァの父親であるアガートは、深いため息を吐いたのだった。
ヴィーヴァが住むグロッソ邸は、湖と山々に囲まれた土地にポツンと建てられている。街に出かける際はボートに乗る必要があるため、グロッソ邸に住む者が人と会う場合はできる限り向こうからではなく、こちらから湖を渡って会いに行くようにしている。ご足労願うのは失礼だから、とアガートは言うが、公爵貴族ならそれらしい振舞いをしても文句は言われないだろうに、とヴィーヴァは疑問に思う。
「いやはや、わざわざご足労いただきありがとうございます」
「いえいえそんな、グロッソ邸の大自然は素晴らしいもので。ここでしか見られない小鳥や魚、美しい花々が見られて、ボートの旅はとても優雅な時間でした」
客室のソファーにはヴィーヴァとアガート、縁談相手のヴァルスとヴァルスの従者であろう青年が相対して座っている。扉をノックして入って来たメイドが、テーブルに紅茶の入ったカップを四人分置いた。喉の乾いていたヴィーヴァは早速それに口をつけ、飲み干す。と、アガートがぺしりとヴィーヴァの手の甲を叩いた。
「お前っ、挨拶もまだなのに! それに、一気に飲み干すとは!」
「ヴィーヴァ・グロッソだ。メイド、紅茶のお代わりを頼む」
「かしこまりましたヴィーヴァ様」
「名を名乗るのが遅い! それに、お代わりをすればいいってもんじゃない!」
「あっははは、聞いていた通り、茶目っ気のある方だ」
「茶目っ気……? ヴィーヴァが、ですか?」
笑みを零すヴァルスに、アガートが愕然とする。ヴィーヴァは至極どうでもいいといった態度で、二杯目の紅茶にも口をつけると一気に飲み干した。そして、立ち上がるとヴァルスを鋭い眼光で睨みつける。
「で? お前は何をしにここに来たんだ」
「おいヴィーヴァ!」
アガートがすぐさまヴィーヴァのドレスの裾を引き、座り直すよう促す。
「この方が誰か解っていないのか⁉ トゥルノ貴族公爵ステラ家のご子息、ヴァルス卿だ! 社交界で何度もお会いしただろう⁉」
アガートが言うも、ヴィーヴァにはピンとこない。舞踏会などのパーティー会場では常に音楽団の演奏に耳を傾けていたため、人の顔よりワルツの音色をよく覚えている。もしかしたらヴァルスとは何度か会ったことがあるのかもしれないが、ヴィーヴァの記憶に残っていないということは、ヴィーヴァにとってヴァルスは興味のない男だったというわけだ。
「トゥルノ貴族か。レナータ貴族より下の奴らじゃないか」
「ヴィーヴァ!」
今日一番の怒鳴り声を上げるアガート。だが、ヴィーヴァは知らん顔でヴァルスをじっと見つめる。ここムジツォーネ王国には王族公爵の下に、臣民公爵がおかれている。レナータ貴族、トゥルノ貴族、フォニア貴族、ラプディ貴族、ルーディ貴族の順番で序列がつけられており、大きな差はないが、レナータ貴族のヴィーヴァはトゥルノ貴族のヴァルスを小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「ああ、思い出した。ステラ家と言えば確か、息子が三人と娘が一人いたんだったな。で、次男だったか三男だったかがヴァルス卿だったと聞いたことがある」
「僕は次男ですね」
にっこりと微笑むヴァルス。ヴィーヴァは「どちらでもいいが」と一蹴し、話を続ける。
「長男は確か結婚していて、三男と長女も婚約を結ばれているとかいう話を、風の噂で聞いた覚えがあるな。もしこの噂が本当なのであれば、ヴァルス卿も私と同じ売れ残り、というわけだ」
「ヴィー──」
「お父様? 常日頃から口を開けば私を売れ残りと呼ぶのは誰でしたっけ? 他でもないお父様でしょう。十八を過ぎた娘が結婚どころか、誰とも婚約を結んでいないなんて……と嘆いていたお父様が、なぜ同じ条件下のヴァルス卿に対してのみ売れ残りという名称を拒否されるのか、私は甚だ疑問でございます」
「こ、こんな時だけわざとらしく丁寧な物言いをしおって、腹立たしい……!」
下唇を噛むアガートに内心ほくそ笑みつつ、ヴィーヴァは黙ってしまったヴァルスに再度目を向ける。姿勢こそ綺麗だが、目の先はとっくに冷めた紅茶の水面に注がれており、表情に色はない。公爵家らしからぬ地味で暗いオーラを漂わせ始めるヴァルスに、ヴィーヴァは隠しもせず大きなため息を吐いた。
「ヴァルス卿、おま……あなたも今年で十九を迎えるのだろう? どういう訳があって売れ残ったのかは知らんが、だからといって無作為に相手を選ぼうとするのは迷惑だ。私はおま……あなたと結婚する気はない。帰れ」
「ヴィーヴァっ! ヴァルス卿に向かってなんだその口の利き方はぁっ!」
「いいんです、アガート閣下」
ヴァルスが紅茶を一口だけ飲み、力ない瞳をアガートとヴィーヴァに向ける。先ほどまで浮かべていた爽やかな笑みはどこにもなく、化けの皮が剥がれたヴァルスの本性はどこまでも陰気な、元気のない男であった。
「僕にレディのような方は、釣り合っていなかったみたいです。今回の縁談は、こちらから申し出ておいてなんですが、なかったことに……」
「そっ、そんなっ、考え直してくださいヴァルス卿! ヴィーヴァには後できちんと言っておきますから!」
「やめておけ。ヴァルス卿だって来たくてここまで来たわけじゃないだろうさ。どうせ私みたいに、親に言われて無理に結婚を考えさせられていたんだ。いや、私はお父様に言われても結婚なんて一ミリも考えなかったけど」
「ヴィーヴァ! 謝りなさい!」
「やだね。用事が済んだなら私はピアノを弾きに行く」
縁談は終わったのだから、後はヴィーヴァの自由時間となる。残りの紅茶を一滴も残さず喉に流し込むと、ヴィーヴァはアガートが止めるのも構わず客室を後にした。背中に、ヴァルスの従者である青年の視線を感じながらも、無視をして。
赤くなった空の下、ヴァルスはぼんやりとした顔でグロッソ邸を見上げていた。もとは修道院だったというシンプルな外観は、邸宅を囲う緑豊かな自然とよく合っている。ボート乗り場からグロッソ邸の扉まではすぐで、歩いて一分も掛からない。道幅は広すぎず狭すぎず、三人程度なら横並びになっても余裕がある。人員が少ないのか何人ものメイドが並んで来客を迎えるようなこともなく、来客の際は二人のメイドが荷物を持って道を案内するだけ。室内はどこを歩いても窓が開いており、空気が循環しているおかげか居心地が良い。たまに小鳥のさえずりが耳を撫で、蝶が廊下を舞い踊る。
そして何より、ここの空気は美味しい。温かくて、けれどもひんやりとした涼しさもあって。どんな高級食材より、身体のエネルギーになる気がする。
もし自分がステラ家ではなく、グロッソ家の息子だったなら……。そんな、考えても仕方のないことで悩んでしまい、ヴァルスは小さなため息を吐いた。
「お待たせしました、ヴァルス様」
グロッソ邸の扉が開き、ヴァルスの従者が荷物を持って顔を覗かせる。
「ヴァルス様? 暗い顔をしておられますが、お気分が優れませんか?」
「無理もありません! ほんっとうに、ヴィーヴァが失礼なことばかり……」
見送りに来たアガートが、今日五回目の謝罪をするべく頭を深く下げた。ヴァルスは慌てて、首を横に振る。
「閣下、その件につきましてはもう充分です。お気持ちは伝わりましたし、僕は本当に、何とも思っていませんから」
「ですがっ──」
アガートが言い終わる前に、グロッソ邸の東側、上から二番目の小窓から地を鳴らすような低音が響き渡った。縁談が強制的に終了し、アガートとヴァルスが暫く歓談していた間も聞こえていた音。ヴィーヴァが弾くリードオルガンの音色だ。
「あいつは……全く!」
アガートは地団太を踏んで怒りを露わにするが、ヴァルスと従者は黙って音に耳を傾けていた。音は低い音をベースに、高い音が飛んで跳ねる。ゆっくりとしたメロディーの中に子供の笑い声のような幸福感があり、それらはここに吹く優しい風のようにさぁっと駆け抜けていく。目を閉じると、太陽の香りが鼻を突くようだった。心地良い、夕暮れ時にはぴったりな音色にヴァルスの頬は緩んでいく。
「……素晴らしいですね」
「ああ。彼女が音楽を愛しているのが、よく解る」
従者に頷いてヴァルスが言うと、アガートは小窓に向かって大きなため息を吐く。これ以上アガートの心労を増やすまいと、ヴァルスは最後まで聞くことを諦めてグロッソ邸に背を向けた。だが、従者は立ち止まったままグロッソ邸を見上げている。まるで、何か名残惜しいことでもあるように。
「ドルチェ?」
ヴァルスが従者──ドルチェを呼ぶ。振り返ったドルチェは翡翠色の瞳を細めると、「いえ……」と下を向く。それはヴァルスがよく知る無表情だが、想いに揺れているようでもあった。何という名前の想いなのか、ヴァルスには解らないが。
「行きましょう、ヴァルス様」
「ああ──」
「ヴァルス様、私はまたこの家に……いえ、私はまた、ヴィーヴァ様の音を聴きたいです」
思いもよらないドルチェの言葉に、ヴァルスは目を見開く。
「珍しいな。ドルチェがそんなふうに、自分の要望を言うなんて」
「そうでしょうか。私はただ、ヴァルス様に早くご婚約を結んでほしいだけです」
「それは……ヴィーヴァ様と、ということか?」
ドルチェは何も言わなかった。が、沈黙は肯定とも捉えられる。ドルチェはさっさと歩き出し、ヴァルスの先を行く。ヴァルスも遅れないようついていく。
ちらと、ドルチェが振り返る。目の先は、おそらくヴィーヴァがいる方向を見ているのだろうとヴァルスはなんとなく思った。
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