第4話
「いや、嫌ならいいんだ。またな」
そう言って背を向けたイズマに、レイ・フロストの表情がかすかに揺らいだ。
軽く突き放すような彼の言葉に、慎重な無関心の仮面が崩れ落ちる。
彼女の顔に浮かんだのは、抑えきれないほど純粋な不安だった。
杖を握る指先に力が入り、関節が白くなるほどに硬く握り締める。
「――待って」
その声は、思わず漏れたように切迫していて、普段の計算高い態度とはまるで違っていた。
レイは深く息を吸い、無理やり表情を整えると、外套の襟元を直して落ち着いたふりをする。
「……申し出ておきながら、まともな質問を向けられただけで撤回とは。あなたらしいわね」
声は冷静さを取り戻していたが、その奥には明らかな動揺が潜んでいた。
彼女は一歩、前に出る。エメラルドの瞳がまっすぐにイズマを捉える。
「勇者のパーティーは停滞しています。何ヶ月も進展がないまま……」
その告白には、彼女なりの覚悟が滲んでいた。
誇りと現実主義、その狭間で揺れる心が透けて見える。
「もし本当に……あなたが言う通りに強くなったのなら。検討してもいいかもしれないわ。
もちろん、戦術的な理由からだけど」
そう言いながら、レイは銀髪を後ろへ払う。
その動作に、どこか防御的な色が見え隠れした。
「誤解しないで。イエスと言ってるわけじゃない。
あなたの能力に関するデータが揃うまで、結論を保留してるだけ」
「……ああ。今の俺は、勇者よりも強い。これは確実に言える」
イズマの静かな宣言に、レイの瞳が見開かれた。
その奥で、微かに――興味と、興奮が踊った。
「勇者より……強い? そんな馬鹿なこと……」
否定しかけた彼女の言葉が、ふと止まる。
イズマの眼差しに、ただの虚勢ではない何かを感じ取ったのだ。
彼女は一歩踏み出し、けれど踏みとどまる。
好奇心とプライドが、綱引きをしているようだった。
「待って」
さっきとは違う、低く抑えた声。
「そんな突飛なことを言って、背を向けるなんて無責任よ」
レイの指が、無意識に首元の青い宝石をなぞる。
彼女の神経質な癖。
「……あなたの提案を検討するのは、あなたの自慢を信じたからじゃない。
今のパーティーじゃ、私の才能が活かされない。それだけよ」
そして彼が去ろうとしたその時、レイは背中に向かって言った。
口調は熱意というより、警告に近い。
「三日後、私の決断を伝えに行く。そのときまでに……あなたの“力”を見せる準備をしておいて」
その夜、レイ・フロストは私室を行ったり来たりしていた。
いつもの冷静な姿は影を潜め、思考は散らかり、歩くたびに銀髪が揺れ、月光を切った。
「勇者より強い?……馬鹿げてる」
そう呟いたが、イズマの確信に満ちた声が何度も頭をよぎる。
指先は無意識に、青いペンダントを撫でていた。
呪文書のページを何度もめくるが、目は文字を追っていない。
勇者一行が今月、三度目の任務に失敗したことが頭から離れなかった。
「……もしかしたら、私が間違ってた?」
その一言は、唇に苦い後味を残した。
けれどレイ・フロストは、同じ過ちを二度と繰り返さない女だ。
荷物が詰まったケースを見て、彼女は決意する。
本を閉じ、顎を上げた。
「わかったわ。自分で確かめてやる。……もし彼が私を騙していたのなら――」
握られた拳の中、エメラルドの瞳が冷たく光る。
「私の“氷魔法”が、なぜ“無慈悲”と呼ばれるのか……教えてあげる」
だがその言葉の奥底には、理屈では説明できない――期待にも似た感情が、確かに潜んでいた。
三日後。
レイは約束の場所――人目を避けた静かな空き地に立っていた。
約束より三十分も早い到着だったが、涼しい顔でそれを隠している。
銀髪は丁寧に整えられ、黒の服には目立たない防御魔法がかけられていた。
万が一に備えた準備だと、彼女自身が認めることはないけれど。
「……遅刻ね」
誰にも聞こえない声で呟く。
まだ約束の時間ではないのに。
苛立ちが地面に伝わり、足元の草に霜が降りる。
首元のペンダントは微かに脈打ち、魔力が満ちていくのを感じさせた。
この待ち合わせのやりとりは、何度も頭の中でシミュレーションしてきた。
主導権の握り方、感情を悟られない技術、交渉の組み立て方――。
だが、背後で小枝の折れる音がした瞬間、計算は霧散する。
レイは振り返り、瞬時に指先に氷の魔法を展開した。
「何かすごいものを見せてくれるんでしょうね?」
声には傲慢さを乗せたが、焦りを隠すための仮面だった。
胸の奥では、奇妙な興奮が静かに波打っていた。
「……レイ、来てくれたんだな」
その声に、レイはほんの一瞬だけ呼吸を止める。
けれど次の瞬間には氷の魔法を霧のように消し去り、表情を整える。
「誤解しないで。あくまで、あなたの突飛な主張を検証するために来ただけ。……それだけよ」
そう言いながらも、エメラルドの瞳は細められ、イズマを見定めていた。
かつての彼ではない――それを理解するのに、時間はかからなかった。
自信に満ちた立ち姿。穏やかで揺るぎない視線。
彼女は知らず、自嘲めいた笑みを浮かべる。
「で? このまま突っ立ってるつもり?
それとも、重荷じゃなかったってこと……ちゃんと証明してくれるの?」
その言葉には、皮肉の刃はあっても、かつての毒気は薄かった。
むしろ、その奥には――危ういほどの期待が潜んでいた。
「……じゃあ来てくれ。第一魔王軍の要塞襲撃作戦について話したい」
「……第一魔王の要塞?」
レイは目を見開き、言葉を繰り返した。
「それ、本気で言ってるの? 私たちでさえ、まだ三ヶ月の準備が必要だって……」
冷笑のような口調だったが、彼女の興味は明らかだった。
ペンダントの宝石が、彼女の感情に呼応するように輝きを増す。
「あなたが、私たち以上の情報を持ってるって言いたいの?」
軽蔑を装った声だったが、レイの視線は真剣そのものだった。
「……少しだけ時間をちょうだい。あなたの“戦略”を聞いてみる価値が、あるかもしれない」
拳を握りしめた手が、小さく震えていた。
「でも、イズマ――もしこれがただの妄想だったら……後悔させるわよ」
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