第16話 普通と特別、その線引き

 ふわふわの熱でいっぱいになっていたけれど、滔々と流れる時間が徐々に温度を下げていく。


 ようやく足から「もう大丈夫」と合図を貰った私は、ゆらりと動き出し、教室を出た。

 長く動かしていなかったせいで、力が上手く回らなくてふらっとしてしまうけれど。何とか一歩、二歩と廊下を進む。


 その時だった。私の左手首が突然フッと現れる何かにガッチリと掴まれ、思いきり左側に引っ張られる。


「わっ!」

 私はその力に抗えず、パッと隣クラスの教室へと引き込まれてしまった。そればかりか、ドンッと思いきり堅い壁に身体を打ちつける。


 もう、突然何? と、混乱する頭がやや苛立ちながら、陥った状況を把握しようと動いてくれた。

 けれど、すぐに凄まじい後悔に塗れる事となる……把握に動かなきゃ良かったって。


「愛望さん、あんな奴と二人きりで何してたの?」

 私の手首をガッチリと掴み、を壁にして私を受け止めたのは……忍足君だったのだ。


 私は、予想もしていなかった彼の登場に、ヒュッと息を飲んでしまう。けれど、直ぐさま頭の中で「彼女」がカットインしてきた。


「ま、待って。忍足君、なんでここに居るの? リラノちゃんはどうしたの?」

「あの人は、頼りになる先輩が近くに居たから、そこにちゃんと送り届けてきた。だから急いで戻って来たんだよ」

 そんな事より、答えてよ。愛望さん。と、彼は淡々と言葉をぶつけてくる。

「放課後の教室で二人きりになって何をしていたのか、答えられないの? 愛望さんが言えないなら、俺が言ってあげようか? 石井にまた、告られたんだよね?」

 冷たく突っ込まれた質問に、私はギョッと目を見開いてしまった。


「まさか、盗み聞きしてたの?」

 そうでもしていなきゃ出てこない質問だよね? と言わんばかりに突っ込む。


 忍足君は無表情のまま、私を見下ろしていた。

 それは、あまりにも雄弁過ぎる答えだった。


 私はキッと眼前の彼を力いっぱい睨めつけ「最低!」と、絶叫する。

「最低過ぎるよ! 一緒に帰りたがっていたリラノちゃんを蔑ろにして来たばかりか、私達の会話をこそこそと盗み聞いていたなんて! 本当に最低!」

「最低? ?」

 聞いた事もない位に低く、物々しい声に、私はヒュッと息を飲んでしまう。


 けれど、忍足君は私の怯えを歯牙にも掛けずに「俺の想いを本気で受け取ってくれず、他の女を押しつけようとしてくる方はどうなの?」と、淡々と言葉を続けた。

「自分は不似合いだ何だとか勝手に思って、俺の想いを軽んじ続ける方はどうなの?」

 ぎゅうっと掴まれている手首の力が強まる。

 私は「いっ」と顔を歪めてしまうが。手首の力は強まる一方で、「答えられないなら、次に行こうか」とばかりに、彼の綺麗な顔が冷ややかな笑みを作った。


「普通の恋をしよう? なんて、随分と笑わせる告白文句を貰ってたけど。まさか、そんな言葉で落ちかけてた?」

 忍足君は石井君の告白を繰り返したばかりか、ハッと冷たく鼻で笑う。


 私はそんな彼に「なんで笑うのよ!」と、沸々と込み上げてくる怒りをぶつけた。

「全然おかしい言葉じゃないの、私達普通科の人にとっては! 特別な世界に居る忍足君には、普通の恋なんて分からないんだろうけど。私が望むのは、そういう恋なの! 普通の恋なの!」

 だからもう離してよ! と、声高に叫び、ぶんっと必死に手首の力から逃れようと暴れ出す。すると


「普通だ特別だとか、そんな所まで勝手な線引きしてんな」

 物々しく打ち返されたと思えば、逃げだそうと暴れ出す手をグッと抑えつけられ、ぐいっと思いきり引き寄せられた。


 ポスンッと、前のめりになった私の身体を厚い胸板が受け止める。そしてすぐにぎゅうっと、動きを封じられる様に、強く包み込まれる。


「俺の恋だって普通だよ、愛望さん。大切な女の子、ただ一人を想う、どこにでもある普通の恋の形だ。君を振り向かせようとして、必死になり続ける事のどこに特別があるんだよ」

 特別なのは君だけって、いい加減分かってくれよ。と、耳元で苦しげに囁かれた。


 まっすぐ、そしてこんなにも力強くぶつけられる想いに、私はぎゅうっと締め付けられていく。身体ばかりか、内側の世界に居る私までも、彼に強く引き寄せられて囚われてしまったのだ。


 嗚呼、こんなにまっすぐ私だけを想ってくれた人が今まで居たかな。私だけに、こんなに熱く「好き」を伝えてくれる人がいたかなぁ。


 初めての想い「ドキドキ」がドンドンと積み重ねられ、ぐらぐらと大きく揺らぎ出す……けれど。

 その揺らいだ柱をしっかりと支える様にして、ぐるぐると色々な出来事が巻き付いてきた。

 リラノちゃんの事、石井君の事、忍足君の事、お姉ちゃんの事……そして踏み台として生き続けている私の事。


 鮮烈に蘇る数々に、私はグッと奥歯を噛みしめた。


 嗚呼、そうだ。私は、彼の特別には相応しくなさ過ぎる。だから駄目なんだ、私なんかじゃ。私なんて言う存在じゃ……。


 私はゆっくりと口を開き、彼の胸に吐きかける様に告げた。


「私は……忍足君の特別には、なりたくない」

 締め付けられる腕の力が、突然フッと緩む。


 私はその隙を広げる様にしてドンッと彼の胸板を押し出し、パッと離れた。


「だって、私は、忍足君の特別になれる女の子じゃないから! それに住む世界が違いすぎると、そういう想いも迷惑にしかならないのよ!」

 声高に張り叫ぶや否や、私はパッと身を翻してダッと駆け出した。


 廊下を全速力で走り、校舎を急いで飛び出す。

 外は、真っ暗だった。夕陽が落ちきっている事も要因の一つではあるだろうけれど、あれだけ晴れていた空に分厚い黒色の雲が広がっている事が、この暗闇の最たる原因だろう。今は天候が一気に不安定になり、一気に変わる時期だ。だからこういう事があっても、何も珍しくない。普通、なのだ。


 私はキュッと丸めた唇を噛みしめたまま、曇天の下を走りだす。


 ゴロゴロッと、雷鳴が轟いた。すると瞬く間に、ざーっと空が雨粒を降り注ぎ始める。


 私の足は伝令を送るまでもなく、帰路を駆け続けた。

 ざあざあと大粒の涙を流す空の下で立ち止まる……なんて事はしない。今の私は、そんな事が出来る立場じゃないから。


 私はグッと奥歯を噛みしめ、ハッハッと短く吐き出されようとする息を内側に封じ込んで走った。


 ……あの時、忍足君の顔は見えなかった。と言うよりも、見なかった。ギュッと目を瞑っていたから。

 まぁでもこれで、綺麗さっぱり、忍足君には嫌われた。もう付き纏われもしないだろうし、これで私よりもリラノちゃんの方が良いってなったはず。

 うん、そうよね。

 あんな事を言ったんだし、強情っぱりで可愛げのない女よりも本当に可愛い女の子を選び始めるに決まってる。


 心の中でキッパリと紡いだ言葉に、私は何度も頷く。


 ……なのに、どうしてだろう。ぼやけた視界が一向に晴れてくれないのは。心がぎゅうぎゅうと苦しくて、ズキズキと痛み続けているのは。どうしてだろう。


 私はぐいっと手の甲で目元を拭った。


 そうか、分かった。きっと、雨のせい。全部、全部、急に降り出した雨のせいだ。



 それから翌日、登校しようとする私の前に忍足君は現れなかった。その翌日も、憑かれる事は愚か、彼と顔を合わせる事もなくなってしまったのだった。

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