第5話 誰かからのSOS

週の半ば、水曜日。

少し疲れの色が出始める社内の空気の中、結城翼は自席で書類に目を通していた。


ふと、向かいの席でカチャリと小さな音がした。

若手社員、坂口光(さかぐち ひかる)。新卒で入社して3か月目。目立つタイプではないが、真面目にコツコツと仕事をこなす子だ。


今日は朝から少し様子がおかしかった。

声が小さい。目が合わない。質問にもどこか上の空で、返事が曖昧だ。


昼すぎ、会議室から戻った翼は、自分の席の端に置かれていた書類の山を見て眉をひそめた。

どれも、坂口が担当していた進行資料。しかも、提出期限を1日過ぎている。


彼の席を見ると、本人の姿がない。

周囲に聞いても「さっきから見てないですね」とのこと。


(まさか──)


咄嗟に、休憩室へと足を向けた。

そこに、彼はいた。


坂口が、椅子に座り、両手で顔を覆っている。

肩が微かに震えていた。


翼は、声をかけるべきか一瞬迷った。

でも、そのまま何もしなかった2年前の自分を思い出した。


あのとき、兄もこんなふうに、誰にも気づかれないようにしていたのかもしれない。


「坂口くん」


声をかけると、彼は驚いたように顔を上げた。目が真っ赤だった。


「あ……す、すみません……。資料、遅れてて……」


「大丈夫。資料のことはあとで確認しよう。

でも、今は、君のことを確認させてほしい」


翼のその言葉に、坂口は視線をそらして黙った。


「無理してない? 大丈夫って言わなきゃいけないって、思い込んでない?」


坂口の唇が、何かを飲み込むように震えた。

そして、絞り出すように言った。


「僕……ほんとは、今日、もう来たくなかったんです。

昨日、家で倒れて。誰にも言えなくて……でも、欠勤したら“使えない”って思われそうで。

だから、“はい、よろこんで”って顔して来たんです。

でも、もう……しんどくて……」


翼は、胸の奥がズキリと痛んだ。

かつて自分が言った言葉が、そのまま返ってきたようだった。


「坂口くん。……“はい、よろこんで”って言わなくていいんだよ。

僕もね、ずっとその言葉に縛られてきた。

でもね、それを言うためには“余裕”がなきゃダメなんだ。

今の君には、“はい”と言う返事よりも、“助けて”と言うメッセージのほうが必要だよ」


その言葉を聞いて、坂口の目から、音もなく涙がこぼれた。

彼はポケットから、くしゃくしゃになった紙を差し出した。


「朝、書いたんです。誰にも渡すつもりなかったけど……今の自分に対して書いたんですけど、伝えられる相手もいなくて」


翼は、それをそっと受け取った。


うまく笑えない。

でも笑わなきゃ。

怒られたくない。

嫌われたくない。

逃げたいけど、逃げる場所もない。

どうしたら、"普通"になれますか。



その文字を見て、翼は静かに頷いた。

それは、まるで2年前の自分が書いたような叫びだった。


「坂口くん、これ……書いてくれてありがとう。

この声、ちゃんと受け取ったよ。

大丈夫、君は“普通”だよ。

むしろ、“壊れそうな自分に気づけてる”時点で、すごく大事な感覚を持ってると思う」


「でも……もう、頑張れないんです」


「頑張らなくていい。

今日は、帰ろう。君のことは僕が上に話す。

しばらく休んでいい。

その代わり、また戻ってくるって、心だけは手放さないでほしい。」


坂口は、ゆっくりと頷いた。


その日の夜、翼はいつものように「月の裏」にいた。

藤沢梨央は、彼の顔を見るなり言った。


「……今日は、誰かを助けてきた顔だね」


「わかりますか?」


「うん。自分が誰かに“救われた人”って、自分も誰かを救えるんだよ。

ちゃんと伝わるもん。声も、表情も」


翼は、そっと胸ポケットから折りたたんだ紙を取り出し、梨央に見せた。


「これ、後輩が書いたんです。

2年前、兄が残した言葉に似てて……。

でも、今ならちゃんと向き合える気がしたんです。」


「その子、きっと君が声かけてくれなかったら、もっと深く沈んでたと思うよ。よくやったね」


梨央の言葉に、翼の背中に乗っかっていた何か落ちて軽くなった感じがした。


「“はい、よろこんで”じゃなくても、人は誰かを支えられるんですね」


「うん、“よろこび”って、心から生まれるものだから。

無理して笑う必要なんてないんだよ。ちゃんと感じて、ちゃんと泣いて、ちゃんと喜べる自分でいれば、自然と、人に届くから」


夜のコーヒーは、少しだけ香ばしく、少しだけ甘かった。


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