はいよろこんで

koko

第1話 笑顔という名のマスク

午前8時25分。

東京・中目黒駅前、喧騒と曖昧な曇り空の下で、結城翼はいつもと変わらない黒いスーツを身にまとい、スマホをポケットに滑り込ませた。


「今日も一日、よろしくお願いします」


口先だけの言葉。喉元に引っかかったまま、誰に聞かれることもなく霧散する挨拶。


ビルのエントランスを抜けて、エレベーターのボタンを押す。何度も押さなくてもいいのに、指は自然と二度三度、強く押し込む。まるで、その日一日の疲れを先取りしているようだった。


オフィスのドアを開けると、周囲の目線が一斉に向けられる。


「おはようございまーす!」

翼はそれに、機械的な笑顔で応えた。


「結城くん、昨日の資料、やっぱり修正入りました! 午前中に差し替えたいんで、すぐお願いしていいですか?」

「あと、午後からのクライアントの件、結城くん同席してもらえる?急でごめんね!」


「はい、よろこんで。」


言い慣れたこの言葉は、もはや翼にとって返事ではなく、自衛本能のようなもので面倒を避けるための万能ワード。


“断らない人”というラベルは、いつのまにか彼の社会的地位を固め、同時に精神をじわじわと削っていた。



---


時計は、12時45分を指していた。昼休憩のはずだった。


コンビニで買ったパンとコーヒーは、デスクの端で冷めていくばかり。

画面には、修正依頼が重なった広告案のスライド。右上のチャット通知は途切れることがない。


「翼、昨日言ったとこ、もうちょっとカッコよくならない?“攻めのクリエイティブ”ってやつ?あはは」

上司の軽口が空中に浮いて、重力を持たずにしぼむ。


「かしこまりました。はい、よろこんで。」


返事のあと、翼はふと、自分のデスクに置かれた透明の瓶の隅に映った自分の姿に気づいた。

今朝コンビニで買った瓶のオレンジジュース、そこに映った、自分の顔。どこかひどく、他人のように感じた。



---


終業時間を過ぎたオフィスには、まだ数人ほどの社員が残っていた。

翼のスライドに修正の指示をしていた若手社員が、申し訳なさそうに頭を下げる。


「ほんとすみません…。何回もやり直しになっちゃって」

「大丈夫。こっちのほうが分かりやすいよ。ありがとう」

「さすがっす、結城さん…!」


笑顔でそう言ったあと、翼は不意に立ち上がりトイレに向かう。トイレの個室にこもり、マスクを外して静かに息をついた。


トイレの手洗い場に有った鏡の中の自分の目は、もう何も訴えない。ただ焦点の合わない魚のように、瞬きもしなかった。



---


深夜0時前、帰宅途中。

人気のない裏道に差し掛かったとき、小さな灯りが漏れるカフェが目に入った。

“深夜喫茶 月の裏”──外観は古びていたが、どこか温かみのある木の扉。


こんな店あったかなと思いつつもドアを開けると、チリンと鈴の音。カウンターには一人の女性が立っていた。


「いらっしゃいませ」

その声には、どこか無理をしていない感じがあった。


「まだ大丈夫ですか?」


「はい、大丈夫ですよ。うち、24時間営業なんで」


驚いたように顔を上げた翼に、彼女はふわりと笑って見せた。


「お客さん、何か疲れてる疲れてる顔してるね、あっ、もしかして「はいよろこんで」って言いながら仕事してるとか?」


翼は、かすかに笑った。

彼女との出会いが後に自分を救うことになるとは、まだ知らずに

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