第13話 粉々のガラスの向こうに

 美咲がこの家に来てからというもの、俺は何をどうすればいいのか、毎日手探りで生きていた。

 十代の娘、それも自分をまったく信頼していない相手と、同じ空間で暮らす——どこまで近づいていいのか、どこから先は絶対に踏み込んではいけないのか、その境界線が分からないまま、神経がすり減るような毎日だった。

 とにかく、気を使って接することだけを心がけていた。

 朝は「おはよう」と短く声をかけて、無理に会話を広げない。返事はないことは当然だと諦める。食事はできるだけ美咲の好きそうなものを選ぶ。一口だけでも食べてくれると、心底ほっとしてしまう。

 家の中では、絶対に不用意に近づかない。物音もできるだけ立てず、静かに歩く。特に、彼女の一メートル以内には決して入らないようにした。

 風呂やトイレも、娘が使った直後には絶対に入らない。最低でも一時間は空ける。結婚前、元妻と同棲していた頃ですら、ここまで気を使ったことはなかった。

 お風呂は必ず美咲が先。入浴の時間帯も自由にして、彼女が入らない日には、俺もその日は我慢する。洗濯もまた、気を遣う作業だった。洗濯機や乾燥機から服を取り出す時は、できるだけ無心で手を動かす。美咲の制服、靴下、そして淡い色の下着——可能な限り見ないように、触れないように、とにかく「ただの布」とみなして黙々と畳んだ。

 恐らく気持ち悪いと思われているのだろうが、美咲は何も言わない。ただ、絶対に目を合わせてはくれなかった。下着の数が明らかに足りていないと気づいた時も、「必要なものがあれば買えばいい」とだけ伝えてお金を渡した。返事もなく、ただ無言でお金を受け取るが、その指先からは拒絶の空気が痛いほど伝わって来た。仕方がないとはいえ、余計に嫌われている気がして、胸の奥がずんと重くなる。もっといい方法があるのかもしれないが、何も思い浮かばなかった。


 そんな毎日を送っていると、家の中で心からくつろぐ時間はすっかりなくなってしまった。

「自分が不用意に何かしたら、美咲の警戒心を刺激してしまうんじゃないか」——そんな不安が、家の空気に張り付いて離れない。また帰って来てくれなくなるかもしれない……。そう思うと怖くて、一歩踏み込むことなんてとてもできなかった。


 ある日曜の午後、俺は美咲のことを考えながら散歩に出た。最近は、たとえ休日でも、日中はできるだけ家にいないようにしていた。

 気がつくと俺は、近所の公園のベンチに座っていた。仕事も家事もないのに、体がどっと重たく感じた。ぼんやりと青空を眺めているうちに、いつの間にかまぶたが重くなり、うたた寝していた。目が覚めると、空はすっかり夕焼けに染まっていた。家にいるよりもずっと深く眠れてしまったことに、どこか寂しさを感じてしまう。

「はあ……」

 つい深い息を吐いてしまい、ハッとする。キッチン越しに、ソファでうたた寝する娘の姿が遠くに見えた。彼女は絶対に横になって眠ろうとしない。俺が家にいる間は、いつも膝を抱えて丸くなっている。それでも、最近はほんの少しだけ、目を閉じている時間が増えた気がする。

 ——いつか、美咲がこの家で肩の力を抜いて、安心して眠れる日が来るのだろうか。

 その日を夢見て、俺は今日も静かに、家の片隅で気を使い続けている。



 ある夕食後のことだった。

 美咲が皿をシンクに運ぼうとテーブルの脇を通ったその時、肘が飾り棚に当たり、ガラスの置物がぐらりと揺れた。「あっ」と思う間もなく、床に落ちて派手な音とともに粉々に砕け散った。

 その音が、部屋の静寂を突き破った。

 胸の奥に、冷たいものが一気に広がっていくのを感じた。

 それは前の会社で、もう亡くなってしまった先輩からもらった物だった。俺にデザインを教えてくれた恩人だ。雫型のオブジェで、流れる水滴を閉じ込めたような美しさを気に入っていた。それが今、美咲の足元で砕け散っている。

 顔から血の気が引くのが自分でもわかった。美咲は無言で、きらめくガラスの破片をただ見つめていた。そして、チラリと俺の顔をうかがうと、その場にしゃがみ込み、ガラスの破片を拾おうとした。

「触るなッ!!」

 思わず大きな声が出た。

 美咲がびくっと体を震わせた。いつも無表情な彼女が、まるで子供のように怯えた顔を見せた。だが、気を使う余裕がなかった。急いで玄関に出てスリッパを手に戻ると、美咲に差し出した。

「危ないから、これ履け!」

 美咲は少し戸惑った顔をしながらも、スリッパを受け取り、素足の上から履いた。

「俺が拾うから、向こうに行ってなさい!」

 俺はゴミ袋を広げ、その中に手早く破片を集めて行く。ソファの脇に立った美咲が、ジッと様子をうかがっている気配は感じた。


 掃除を終えて、俺は息をついた。

 ゴミ袋の中に割れたガラスの置物が沈んでいる。ふと視線を感じて顔を上げた。

 美咲が、ゴミ袋の中をじっと見つめていた。

「……怪我はないか?」

 できるだけ柔らかく声をかける。

 美咲は自分の掌を見下ろし、ゆっくりと指を曲げて確かめてから、小さく首を横に振った。 

「よかった……」と、俺は安堵した。

 俺はごみ袋の中身を見る。

「ああ、これ……。昔、知り合いにもらってな。ずっと飾ってたんだ。まあ、でも割れちゃったのは仕方ないよな……」

 美咲はごみ袋を見つめたまま、何も言わない。

 俺は笑おうとしたが、笑えなかった。顔から力が抜けて行く。そのオブジェは、会社を辞めてデザイナーとして独立する俺に、先輩が選別として贈ってくれた。意味は自分で考えろと、あの人らしいぶっきらぼうな口調で直接手渡された。

 一粒の雫が水面に落ちれば、波紋が広がる。

「お前も世の中を驚かせる一粒の雫になれ」

 そう言われた気がして、いつも仕事場のデスクの片隅に飾っていた。でも、ある日、そのオブジェを通して部屋の灯りを見てみると、内部に閉じ込められた気泡の影響か、少し変わって見えた。試しに夕日を見てみると、屈折した光が世界に降り注ぎ、全てが幻想的に見えた。俺は何かのたびに、雫を通して世界を見るようになった。いつしか、狭い仕事部屋から、リビングへと場所を移していた。

 移さなければよかったな、と思った。

 俺だけの世界が、先輩との思い出が……こんな簡単に壊れてしまうなんて。

 昨日まで、いや、つい数分までは考えてもみなかった。明るく振る舞おうとしたが、声の奥にどうしても寂しさが滲んでしまう。

 美咲は、ずっとうつむいたままだ。

「さっき、ごめんな怒鳴って。怪我したら危ないと思って、つい……」

 もう遅いことは分かっていた。今まで気を遣っていたことの全てが、この置物のように一瞬で砕け散ってしまった。

「でも、お前が怪我しなくて本当に良かったよ」

 本心から、そう伝える。

 その瞬間、美咲がハッとしたように顔を上げ、こちらを見た。その目がほんのわずかに揺れ、きらりと光るものが滲んだ。

 彼女は唇を噛みしめて、涙をこらえるように視線を伏せた。

 多分、彼女なりに自分が割ってしまったものが、俺にとって大切なものなのだと理解してくれているのだろう。

 でも……確かにとても大切なものだが、俺にとっては美咲が無事でいてくれることの方がもっと大切だった。先輩との思い出は、あの美しい世界は、俺の心の中にしっかりと残っている。きっと、もう大丈夫だと——立派な雫になったと先輩が言ってくれたのだろう。

 しばらくして、美咲が細く震える声で言った。

「……ごめんなさい」

 その言葉は、まるで壊れ物を扱うような繊細さで、そっと空気に落とされた。

 俺は何も言わず、ただ静かに頷いた。


 それはほんの一瞬の、ささやかなやりとりだった。でも、その瞬間だけは、二人の心がわずかに触れ合ったような、不思議な温かさがあった。



 翌朝、いつも通りに目を覚ますと、静かなリビングにほんの少しだけ違う空気が流れていた。キッチンで朝食を作りながら、ふとソファの方を見ると、美咲が毛布にくるまって、横になっていた。膝を抱えたまま眠っていた昨日までとは違い、体を伸ばして、穏やかな寝顔で寝息を立てている。無意識に力が抜けたようなその寝姿に、俺は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。

 リビングのテーブルにそっと朝食を並べると、美咲はやがて目を覚まし、ぼんやりと天井を見上げていた。

「おはよう」

 声をかけると、彼女はうつむきながら、ほんの少しだけ頷いた。


 会話が増えたわけではなかった。仕事に出かけるとき「行ってくる」と言えば、彼女はやっぱり何も言わない。それでも、俺が部屋を出るとき、毛布にくるまりながら横になって目を閉じている姿が、どこか安心したように見えた。

 夕方、帰宅してリビングのドアを開けると、また美咲はソファで横になっていた。俺の気配に気づくとさっと体を起こし、すぐに膝を抱える姿勢に戻るけれど、もう昨日までのような張り詰めた警戒は薄れていた。

 食事の時、箸を渡した時、食後に皿をシンクに置く時——美咲の動きがほんの少しだけ、柔らかくなったように思う。


 何かが劇的に変わったわけではない。

 それでも、ソファに横になって眠れるようになった美咲の姿は、確かな前進を思わせるには十分だった。

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