第15節 第二回新聞印刷

 藤沢家からの帰路は、降り出した小雨のように、ひどく重苦しいものだった。「真実を明らかにしてほしい」という両親の切実な願い。その言葉の重みが、湿った空気と共に染みわたるようだった。隣を歩く松戸も、硬い表情のまま、いつも以上に口数が少ない。彼の冷静さの奥底にも、きっと複雑な感情が渦巻いているのだろう。今はただ、その沈黙に寄り添うしかない。

 学校に戻ると、部室には三鷹、荒川、久留里が、どこか落ち着かない様子で待っていた。我々二人の纏う重い空気を感じ取ったのだろう。久留里が心配そうに口を開いた。

「……お疲れ様です、部長、松戸先輩。どうでしたか?」

「ああ……とても貴重なお話を聞けたよ」

 私は短く答え、リビングでのやり取り、ご遺族から見た藤沢くんの人となり、そして彼らが抱える深い悲しみと犯人への切なる願いを、慎重に言葉を選びながら伝えた。部室には、先ほどまでの議論の熱気とは明らかに異なる、静かで息苦しいほどの空気が満ちた。荒川は唇を強く噛みしめた。

「……絶対に、俺たちが真相を突き止めないと」

 荒川が、床を見つめたまま、絞り出すように言った。

「ええ。ご遺族の想いに応えるためにも、そして、我々新聞部としての使命のためにも」

 三鷹が顔を上げ、その目には決意の光が宿っていた。

「よし。改めて方針を確認するぞ。警察や学校からの圧力はあるが、我々は第二回の号外を発行する。今日の藤沢家での取材内容を基に記事を作るが、それ以外に何か盛り込むべき情報はあるだろうか」

 私が問いかけると、三鷹がすぐに手を挙げた。

「部長、今回の号外では、藤沢くんのご遺族のお話に加えて、我々が昨日聴取した剣道部員たちの証言、特にその矛盾点やアリバイの曖昧さについても詳述すべきです。さらに、我々が考察している事件のトリック…遺体移動の謎や二本の竹刀の意味についても、読者に問題提起する形で掲載してはどうでしょうか。多くの情報を提供することで、事件への関心を一層高め、読者自身にも考えてもらうきっかけになるはずです。今こそ、我々新聞部が持つ情報を最大限に活用し、事件の核心に迫るべき時だと考えます」

 三鷹の言葉には、ジャーナリストとしての強い使命感と、事件の真相解明への渇望が溢れていた。彼の提案は、新聞のインパクトを格段に高めるだろう。しかし、私は首を横に振った。

「三鷹の言うことも分かる。情報が多い方が読者の関心を引くかもしれない。だが、考えてみてくれ。我々が得た剣道部員たちの証言は、あくまで限られた状況下でのものであり、その全てが客観的な事実であるとは限らない。ましてや、トリックに関する我々の推測は、まだ仮説の段階。それを断定的な情報として報道することは、憶測を助長し、無関係な人々を傷つける危険性も孕んでいる。それは、我々が目指すジャーナリズムのあり方とは違うと思う」

 私は、静かに、しかしはっきりとした口調で続けた。

「報道の自由は、多角的な視点から物事を捉え、読者に判断材料を提供することにある。だが、それは無責任な情報発信を許容するものではない。特に、人のプライバシーや名誉に関わる事柄については、最大限の慎重さが求められる。真実の究明は警察の仕事であり、我々新聞部の役割は、現時点で確かな事実と、それによって明らかになる問題を報じることだ。今回の事件で言えば、それは藤沢くんという一人の高校生が理不尽に命を奪われたという事実、そして残されたご家族の深い悲しみだ。今は、その一点に集中すべきだと、私は思う」

 部室に、しばし沈黙が流れた。三鷹は、私の言葉をじっと聞いていたが、やがてゆっくりと頷いた。

「……部長の考え、理解しました。確かに、現段階で憶測を含む情報を流すのは危険かもしれません。藤沢くんとご遺族のためにも、今は確実な情報を伝えることに専念すべきですね」

 三鷹は納得したようだ。

「ですが部長、印刷はどうするんですか? 学校の印刷機は、使えないでしょう。確実に先生方に察知されてしまいます」

 松戸が、最も現実的な課題を口にした。

「そこだよなあ……」

 私が考えを巡らせた、まさにその時だった。

「やあ、君たち。残っていたのか。感心だねぇ」

 部室のドアが開き、布留川先生が顔を覗かせた。

「先生……」

「おっと、どうしてそんな目をするんだい? 私はいつだって君たちの味方だよ。……で、印刷場所で困っている、というところかな?」

 やはり、この人の笑顔の裏には何か得体のしれないものがある気がする。

「学校の印刷機は、今は避けるべきだ。下手な動きは、連中に格好の口実を与えるだけだからな」

 先生は腕を組み、部室内を見渡した。

「だが、心配はいらない。私にいい考えがある」

「先生に……?」

「ああ。私の知り合いが経営している印刷会社があってね、追分町駅前の『若山印刷』という所なんだが。社長とは古い付き合いだから、少々無理は利く。ここなら、人目を気にせず印刷できるだろう」

 追分町(おいわけちょう)駅。この学校から数駅の距離だ。

「私の車で送ろう。幸い、7人乗りだ。……まあ、少し窮屈かもしれんがな」

 先生はこともなげに言う。そして、腕時計をちらりと見た。

「ただし、あまり時間はかけられんぞ。今日は早く帰らないと、妻に小言を言われるんでね。夕飯当番なんだ、実は。……まあ、君たちのためだ。少しだけ、付き合ってやろう」

 そう言って鼻の頭を掻く先生の姿は、いつもとは少し違って見えた。この人、結婚しているんだ……。

「ありがとうございます、先生。助かります」

 今は、この提案に乗るのが最善策だ。私は素直に頭を下げた。

「よし、決まりだな。記事は私と松戸で分担して書く。三鷹は全体の構成と我々の記事のチェックを頼む。荒川と久留里は、レイアウトと見出しを。午後6時までには完成させるぞ!」

 私の号令の下、部員たちは再び活気づいた。時刻は午後3時。残された時間は少ない。

「今回の号外では、藤沢くんの人物像に焦点を当て、ご遺族の言葉を通じて、彼の死がどれほど大きな悲しみをもたらしたのかを伝える。我々が直接見聞きした、確かな情報だけをもとに構成するんだ」

「承知しました。私は藤沢くんの学校生活や友人関係について、ご遺族から伺った内容をまとめます」

 松戸は頷き、自身のノートパソコンを開いた。三鷹もすでにキーボードを叩いている。

「じゃあ、レイアウトは私と荒川先輩で! 先輩、足を引っ張らないでくださいよ」

「う、うるせーな! お前こそ、暴走して好き勝手やるなよ!」

 荒川と久留里は、いつもの調子で言い合いながら、共用のパソコンに向かった。


 しばらくして、荒川の悲鳴に近い声が部室に響いた。

「うおっ!? 久留里さん! なにこの見出しのフォント!?」

「え? 何か問題でも? インパクト重視です」

 久留里はケロリとした顔で答える。画面には、達筆……というか、物凄くイカツい極太の行書体が表示されていた。

「インパクトありすぎだろ! 読めねーよ、これじゃ! しかもなんだ、この本文の文字!? なんか妙に潰れてないか!?」

「あー、それはですね、枠内に収まるように文字をちょっと圧縮したんですよ。平体ってやつです。スタイリッシュじゃないですか?」

「全然ちょっとじゃないよ!? 読みづらすぎるわ! 読者の目を潰す気か!?」

 荒川のツッコミは止まらない。

「あと、この写真と記事の間! 余白が全然ないぞ!? ギチギチじゃねえか!」

「余白は無駄ですから。情報を詰め込めるだけ詰め込むのが、紙面の有効活用です」

 久留里は自信満々に言い放つ。

「有効活用にも程があるだろ! それに……なんだこれ!? 背景にうっすら見えるこの模様は!? ……ウサギ? ウサギが跳ねてる地紋が入ってんぞ!?」

「あ、それ可愛いでしょう? 私のお気に入りの素材なんです。無地だと寂しいと思って、アクセントに入れてみました。読者の心が和むかなって」

「和むかー! 事件報道の新聞だぞ!? なんでウサギがぴょんぴょんしてるんだよ!」

「えー、そうですか? センスないですね、先輩」

「どっちがだよ!」

 荒川の絶叫と久留里のどこ吹く風な態度が、狭い部室に響き渡る。私と松戸、三鷹は、そのやり取りに苦笑しつつも、それぞれの作業に集中した。久留里の独創的すぎるセンスはともかく、彼女の作業スピード自体は速い。荒川が必死に軌道修正しながら、なんとか紙面の体裁は整えられていった。

 そして、午後6時前。ついに紙面データが完成した。最終チェックを全員で行い、誤字脱字、レイアウトの崩れがないことを確認する。

「よし、行くぞ!」

 完成したデータをUSBメモリにコピーし、私たちは足早に部室を出て、布留川先生が待つ駐車場へと急いだ。先生の車は、高級そうな大型車だった。潤ってるんだなあ。

「さあ、乗りたまえ。後部座席はちょっと狭いかもしれんが」

「先生、本当にありがとうございます」

 助手席に座った私が改めて礼を言うと、先生はバックミラー越しにちらりと後部座席を見て、口元を少し緩めた。

「礼には及ばんよ。これも、まあ……一種の課外活動だ。それに、君たちがどんな『爆弾』を投下するのか、純粋に興味もあるしね」

 車は夜の街へと滑り出す。車内では、小声で記事の内容についての最終確認が行われた。布留川先生は黙って運転しているが、時折、我々の会話に聞き耳を立てているのが分かった。この人は、我々の行動をどこまで理解し、そして何を期待しているのだろうか。

 約30分後、車は追分町駅前の、少し古びた雑居ビルの前で停車した。

「ここだ。若山印刷。社長には話を通してある。さあ、降りたまえ」

 ビルの2階にある印刷会社の扉を開けると、インクと機械油の混じった独特の匂いが鼻をついた。奥から、人の良さそうな、恰幅の良い初老の男性が現れた。

「おお、布留川先生、お待ちしてましたよ。こちらが、例の学生さんたちですか」

「ああ、若山社長、急にすまないね。これがデータだ。部数は……1200部で頼むよ」

 先生がUSBメモリを手渡すと、若山社長は「はいはい、お任せください」と快く受け取り、手際よく印刷機の設定を始めた。

 ガチャン、ウィーン、と小気味よい機械音が響く。最新の機械なのだろう、学校の旧式な印刷機とは比べ物にならない速さで、刷り上がった新聞が次々とトレーに積み重なっていく。紙面には、我々が魂を込めて作り上げた見出しと記事、そして写真が鮮明に印刷されていた。

『追悼・藤沢智也くん その人柄とご遺族の想い───新聞部独自取材』

 大きな見出しの下には、藤沢くんの人柄や剣道への情熱、そして彼を失ったご両親の深い悲しみと切なる願いが、そのままの言葉で綴られていた。

 1200部の印刷は、ものの30分で完了した。時刻は午後8時ちょうど。

「ありがとうございました、若山さん、布留川先生」

 私たちは深々と頭を下げた。

「いやいや、お役に立ててよかったですよ。若い人が熱心にやってるのを見ると、こっちも元気をもらえますわ」

 若山さんは笑顔で言った。

「さて、私はこれで失礼するよ。……新聞の運び込みは、キミたちで頼むよ」

 布留川先生はそう言い残し、今度こそ足早に印刷会社を後にした。最後まで、掴みどころのない人だ。


 残された我々新聞部員5人は、刷り上がったばかりの、まだインクの匂いが微かに残る新聞の束を前に、しばし言葉を失っていた。1200部という量は、想像以上のボリュームだ。ずっしりとした重みが、見た目からも伝わってくる。

「……さて、これを学校に運び込み、明日の朝、全校生徒の机に入れるぞ。骨の折れる作業になるが、やるべきことだ」

 私が決意を込めて言うと、部員たちは無言で、しかし力強く頷いた。その目には、疲労の色と共に、確かな使命感が宿っている。

「タクシーを呼ぼう。手分けして運ぶしかない」

 松戸が冷静に提案し、スマートフォンを取り出す。幸い、駅前だったため、タクシーは比較的すぐに捕まりそうだ。

「私と松戸で半分。残りの半分を、三鷹、荒川、久留里さんの三人で頼む。校門前で落ち合おう」

 それぞれのタクシーに、重い新聞の束を慎重に積み込む。紙の束は、気を抜くと角が折れたり、汚れたりしてしまう。まるで貴重品を扱うかのように、そっと後部座席やトランクに収めた。

 学校へ向かうタクシーの車窓から見える市内の繁華街は、いつもと変わらない賑やかさに包まれている。

 校門前でタクシーを降りると、辺りは深い闇に包まれていた。幸い、人通りはほとんどない。我々は息を殺し、新聞の束を抱え直し、校舎の陰へと身を滑り込ませた。

「裏門から入ろう。あちらの方が人目につきにくい」

 私の指示で、五人は音を立てないように慎重に裏門へと向かう。古びた鉄製の門は、幸いにも施錠されていなかった。ギィ、と小さな軋み音を立てて門を開け、校地内へと足を踏み入れる。

 夜の校舎は静寂に包まれ、窓の奥は暗い。昼間とは全く異なる表情を見せていた。自分たちの足音と、荒い息遣いだけが、やけに大きく聞こえる。

「……なんか、不気味っすね」

 荒川が呟く。

「大丈夫ですよ、先輩。私がついてますから。何かあったら、先輩を盾にします」

 久留里が小声で物騒なことを言う。

「頼むから、そういう冗談はやめてくれ……心臓に悪い」

 僅かな月の明かりを頼りに、一歩一歩進んでいく。新聞の束が、ずしりと肩に食い込む。額には汗が滲み、呼吸が自然と速くなる。

「もう少しだ。頑張れ」

 松戸が、冷静ながらも皆を励ますように声をかける。

 ようやく文化館の入口にたどり着き、鍵のかかっていないことを確認して中に入る。階段を上り、二階の部室へ。

 部室の中は、昼間の熱気がまだ残っているようで、むわりとした空気が漂っていた。

 私たちは、抱えてきた新聞の束を、床にそっと下ろした。ドサッ、という低い音が、静かな部室に響く。

「……あとは、これを明日の朝、全校生徒の机に入れるだけですね」

 三鷹が、息を整えながら言った。その声には、疲労と共に、確かな達成感が滲んでいる。

「ああ。だが、油断は禁物だ。明日の朝も、細心の注意を払って行動する。……皆、今日は本当にご苦労だった。明日は朝7時から配布作業を行う。気を付けて帰ってくれ」

 私たちは、互いの健闘を称え合うかのように視線を交わし、静かに部室を後にした。

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