第四話 幸福の童歌(お題:口ずさむ)
今でも思い出す光景があるんだよ。
あれは五歳くらいの頃だったと思う。
そこは古いお屋敷の縁側だった。目の前には和風の庭園があった。時間はお昼過ぎで、日光がさんさんと降り注いでいたものだから、お庭がとてもきれいに見えたんだ。子どもの私は縁側に座り、その美しい庭園を眺めている。
私の隣には女性が座っている。赤い着物を着た、黒い長い髪の人だった。年齢は私の母親くらいに見えた──当時、母は四十歳手前だったから、多分そのくらいの年齢だっただろう。
その人が私に向かってにっこり笑って、スイカの入った皿を渡してくる。私は皿を受け取り、半月の形に切られた大きなスイカにかぶりつく。
口の周りをスイカの汁でベトベトにしながら、夢中で食べていると、隣の女性が歌を口ずさむ。それは聞いたことがない童謡のような歌だった。女性の澄んだ歌声を聞きながら、スイカを食べる──そこまでが私が覚えている光景だ。
後で親に聞いた話では、五歳ごろ、私は行方不明になったことがあるらしい。家族と警察が三日三晩探して、家からほど近い、雑木林の中で私を見つけたそうだ。もしかすると、私はその女性に誘拐されて、やがて雑木林に放置されたのかもしれない。私が覚えているこの光景は、女性と過ごした時の記憶かもしれないね。
──誘拐された時の記憶ってだけで済めば良かったんだけどさ。
時は流れて大人になり、会社で忙しく働いているとさ。どうしてもしんどいことって出てくるんだ。
ある夜の帰り道、ふと、子どもの頃に見たその記憶を思い出したんだ。たとえ誘拐事件だったとしても、明るい縁側で女性とスイカを食べたその記憶は、私にとってすごく美しく楽しいものだった。女性が歌っていた童謡も覚えていた。私はその歌を口ずさんだ。
すると、目の前に大きなお屋敷が現れた。築何百年だろうか、とにかく古めかしいお屋敷で、門は開け放たれていた。門の向こうにはあの時会った女性が立っていた。彼女は私の腕を掴み、門の内側に引き込んだ。
それから、私はここにいる。ここから出られないでいる。
ここは良いところだよ。仕事もないし、理不尽なことを言ってくる人もいない。私はとっても幸せだ。
でも、それでも、お客さんには、真っ当に生きてほしいと思ってしまうんだ。君みたいな小さな人は、特にね。
だから、私はあの時聞いた歌を歌わないよ。
君は、そのスイカを食べたらすぐにお帰り。
そして、このお屋敷のことは忘れるんだ。
いいね?
どうか幸せに。
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