第9話

田中さんへ葉書を出してから、僕の心は驚くほど軽くなっていた。

何かが劇的に変わったわけではない。

相変わらず小説を書くことはできないままだし、将来への不安が消えたわけでもない。

それでも僕の世界を覆っていた分厚い霧が、少しだけ晴れたような気がしていた。


月詠堂へ通う足取りも、以前とは少し違っていた。

今まではどこか縋るような、逃げ込むような気持ちがあった。

でも今は純粋な好奇心と、楽しさを感じている。


ガラスケースに並んだ万年筆の、一本一本の違い。

壁一面のインクが持つ、それぞれの物語。

それらを知ることが、単純に楽しかった。


「海斗さん、最近いい顔をするようになったね」


ある日の午後、カウンターでインクの色見本帳を眺めている僕に、志筑さんが不意に言った。


「沼に、足を踏み入れる覚悟ができた顔だ」


「沼、ですか?」


「そう、インク沼。一度ハマると二度と抜け出せない、深く、美しく、そして恐ろしい沼さ」


志筑さんは、悪戯っぽく笑う。

その隣で、ホシマルが「にゃあ」と相槌を打った。

その言葉を証明するかのように、店の扉がカランと鳴り香月先生がにこやかに入ってきた。


「志筑さん、約束のものは届いているかしら?」


「ええもちろん。お待ちしておりましたよ、先生」


二人の間には、僕の知らない約束があったらしい。

志筑さんがカウンターの下から取り出したのは、海外から届いたと思しき小さな小包だった。

香月先生は嬉しそうにその包みを開けると、中から出てきたいくつかの小さなインク瓶を、カウンターの上に並べた。


「まあ、なんて素敵な色なの!」


先生はまるで宝石を眺めるように、目を輝かせている。

それは僕が今まで見たこともないような、不思議な色合いのインクばかりだった。


「海斗さんも、いかがかな。今日はささやかなインクの観賞会だよ」


志筑さんに誘われるまま、僕は二人の輪に加わった。


「これはね、ドイツの小さな工房で作られているインクなのよ」


香月先生は、僕に説明してくれる。


「書くと、色が二つに分離するの。デュアルカラーインクって言うのよ」


彼女はガラスペンの先に、淡い紫色のインクをつけた。

そして試し書きの紙に『紫陽花』と書く。

すると、信じられないことが起きた。

インクが乾くにつれて、紫色の文字の縁がふわりと水色に変わっていく。

まるで雨に濡れた紫陽花の花が、日の光を浴びて色を変えるようだ。


「すごい……」


僕の口から、感嘆のため息が漏れた。


「こっちは金色の粒子が入ったインク。書いた文字が、キラキラ光るの」

「こっちは乾くと、チョコレートの香りがするのよ」


次から次へと現れる、魔法のようなインクたち。

僕は夢中になって、その一つ一つを試させてもらった。


インクの沼。

その言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。

これは、ただの筆記用具じゃない。

一つ一つが独立した、小さな芸術作品なのだ。


僕たちは、時間を忘れてインク談義に花を咲かせた。

インクの「sheen(シーン)」と呼ばれる、金属的な光沢の話。

色の濃淡、「shading(シェーディング)」が出やすい紙の話。

万年筆のペン先の太さによって、インクの表情がどう変わるかの話。

二人の会話は僕にとって知らないことばかりだったが、聞いているだけで胸が躍った。


書くことの、なんと豊かで奥深い世界。

僕はその入り口に、ようやく立てたのかもしれない。


その中で僕の心は、ある一つのインクに強く惹きつけられていた。

それは香月先生が持ってきたものではなく、月詠堂の棚に以前からあったインクだった。

名前は『曇り空の海』。

緑と青と灰色が混じり合ったような、複雑で静かな色。

晴れた日の、きらきらした海じゃない。

嵐の前の、静寂をたたえた曇り空の下の海の色。

今の僕の心の色に、一番近い気がした。


「その色が、気になるかい」


僕の視線に気づいた志筑さんが、優しく尋ねた。

僕は、こくりと頷く。


「ガラスペンで試すのもいいが、インクの本当の良さを味わうなら万年筆を使ってみるといい」


彼はそう言うとガラスケースから、一本の万年筆を取り出した。

それは、高価な装飾が施されたものではない。

透明な樹脂でできたシンプルな作りの、スケルトンタイプの万年筆だった。


「これは初心者のための一本だ。だが、侮ってはいけない。値段以上に、滑らかな書き心地を約束してくれる」


彼はその万年筆の使い方を、丁寧に教えてくれた。

インクカートリッジではなく、コンバーターという器具を使って瓶から直接インクを吸入する方法。

ペン先の、正しい角度。

紙にインクが染みていく、心地よい感触。


「……僕、これを買います」


気づけば、僕はそう口にしていた。

そして、『曇り空の海』のインク瓶も一緒に。

それは僕にとって、大きな決断だった。

誰かに頼まれたわけじゃない。

自分のために、書く道具を買う。

小説家を目指していた頃以来の、久しぶりの感覚だった。

でもあの頃のような、悲壮な覚悟はない。

そこにあるのはただ、静かで確かな喜びだけだった。


アパートに帰り僕はさっそく、買ってきたばかりの万年筆にインクを吸入した。

透明な軸の中に、『曇り空の海』の色がゆっくりと満たされていく。

それを見ているだけで、心が満たされるようだった。


僕は新しいノートの、最初のページを開いた。

何か物語を書こうと思ったわけじゃない。

ただこのペンで、何かを書いてみたかった。


ペン先を、そっと紙に下ろす。

カリカリ、というガラスペンの硬質な音とは違う。

サラサラと、流れるようにペンが滑る。

インクが生命を得たかのように、紙の上に言葉を描き出す。

僕は夢中で、思いつくままに言葉を書き連ねた。


インクの色について。

海の匂いについて。

ホシマルの瞳の色について。

僕は書くことが、こんなに楽しかったのだということを思い出していた。


誰かに評価されるためじゃない。

お金のためでもない。

ただ自分の心の中にあるものを、形にする喜び。

長い間忘れていた、創作の原点。


しばらく書き続けた後、僕はふとノートの一番下に、ある一文を書いていた。

『海の色は、ひとつじゃない』

それは、小説の一節ではなかった。

詩でも、物語でもない。

でも僕にとっては、どんな名作の一文よりも価値のある言葉だった。


曇り空の海もあれば、凪の海もある。

夕焼けの海もあれば、星屑の海もある。

僕の心も、きっと同じだ。

絶望だけじゃない。

これからは違う色の心も、描いていけるかもしれない。


僕は、そっと万年筆のキャップを閉めた。

窓の外は、すっかり夜になっていた。

でも僕の部屋は、不思議なほどの明るさと静かな熱気に満ちているような気がした。

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