未来から来た5歳児と始める、不器用パパの子育て逆転生活

☆ほしい

第1話

俺、相生健人(あいおいけんと)の人生は、Adobe Illustratorのレイヤーパネルみたいなものだ。オブジェクトはすべて適切なレイヤーに分類され、名前がつけられ、完璧に整列している。午前9時の始業、午後1時の昼食、午後7時の終業。寸分の狂いもなく繰り返されるルーティン。都心のデザイナーズマンションの1LDKは、生活感を排したモデルルームのように静まり返っている。白とグレーを基調とした部屋に、色彩と呼べるものは観葉植物のモンステラの緑だけ。俺はこの静寂を、何よりも愛していた。孤独?いや、これは平穏だ。


だから、その夜の出来事は、完成されたデザインデータに突如として現れた、出所不明のビットマップ画像みたいなものだった。


その日は、朝からずっと雨が降っていた。窓の外では、アスファルトを叩く雨音が単調なリズムを刻んでいる。俺はヘッドフォンでミニマルなエレクトロニカを聴きながら、クライアントから突き返されたロゴデザインの修正作業に没頭していた。ベジェ曲線を1ミクロン単位で調整する、神経のすり減る、しかしどこか瞑想にも似た時間。集中力が最高潮に達した、まさにその時だった。


ピンポーン。


無機質なチャイムの音が、ヘッドフォンの音楽を突き抜けて鼓膜を揺らした。こんな時間に誰だ?時刻は午後8時を少し回ったところ。宅配便の指定はしていないし、そもそも俺を訪ねてくる人間など、いるはずもなかった。


無視を決め込もうとしたが、チャイムは執拗に繰り返された。ピンポーン、ピンポーン。苛立ちを隠さずに席を立ち、インターホンのモニターを覗き込む。だが、そこには誰も映っていなかった。レンズに付着した雨粒が、ぼやけた視界をさらに歪ませている。いたずらか。舌打ちをして作業に戻ろうとした、その瞬間。


トントン、トントン。


今度は、チャイムではなく、ドアを直接叩く音だった。それも、大人の力強いノックじゃない。子供が、小さな拳で遠慮がちに叩いているような、か細い音。さすがに不気味に思えて、俺は音を立てないように玄関へ向かった。ドアスコープを覗くが、やはり誰もいない。ただ、雨に濡れた共用廊下の床が、オレンジ色の照明に照らされているだけだ。


チェーンをかけたまま、そっとドアを数センチ開ける。

「……どなたですか」

返事はない。雨音だけが、やけに大きく聞こえる。気のせいだったか。そう思ってドアを閉めようとした時、足元に何かが置かれていることに気づいた。


それは、スーパーで貰えるような、何の変哲もない段ボール箱だった。雨に濡れて、少しふやけている。そして、その上には一通の封筒。俺は訝しみながらも、チェーンを外し、ドアを大きく開けた。周囲を見渡すが、やはり人影はない。まるで最初から、この箱だけがそこに存在していたかのように。


封筒を手に取る。宛名はなく、ただ湿った感触が指先に伝わる。警戒しながら封を開けると、中から出てきたのは一枚の便箋だった。そこに、クレヨンで書かれたような、拙い文字があった。


『パパ、おむかえにきました』


パパ?

脳がその単語の理解を拒絶する。俺は結婚もしていなければ、恋人すらいない。子供など、いるはずがない。悪質ないたずらか?いや、それにしても手が込みすぎている。混乱する頭で、俺は足元の段ボール箱に視線を落とした。


大きさは、みかん箱より少し大きいくらいだろうか。ガムテープで封はされておらず、ただ蓋が乗せられているだけ。まさか、とは思う。最悪の可能性がいくつも頭をよぎる。爆弾?あるいは、もっと悍ましい何か?警察に連絡すべきか。いや、その前に中身を確認しなければ。


俺は覚悟を決めて、箱を室内に引き入れた。ずしり、と想像していたよりも重い。リビングの中央に箱を置き、唾を飲み込む。ゆっくりと、蓋に手をかけた。


心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。


蓋を開けた先に見えたのは、びっしりと詰められたタオルケットだった。そして、その中心で。


すう、すう、と。


小さな寝息を立てて、子供が眠っていた。


時間が止まった、と思った。いや、俺の思考が停止しただけか。

肩まで伸びた黒髪。長いまつげ。閉じたまぶたが、時折ぴくりと動く。年齢は、5歳か、6歳くらいだろうか。ピンク色のスウェットに、キャラクターもののズボン。その小さな手には、古びたゼンマイ仕掛けのぬいぐるみのようなものが、大事そうに握りしめられていた。


俺は、その場に立ち尽くした。

雨音。パソコンから流れ続ける、ミニマルな音楽。そして、この部屋には存在しないはずの、子供の寝息。

俺の完璧に整列されたレイヤーパネルに、規格外のオブジェクトが、何の断りもなくドロップされた瞬間だった。

静寂は破られた。平穏は、終わった。

窓の外で、稲光が一度だけ空を裂いた。その光に照らされた少女の寝顔は、不思議なほど安らかで。

俺は、自分が今、どんな顔をしているのか、まったく分からなかった。

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