第11話
遠藤さんとの一件から、数日が過ぎた。資料室での日々は、すっかり穏やかなものになっていた。
様々な部署からの細々とした依頼にも、私はもう以前のように心を乱すことはない。佐野さんの的確なナビゲートがあれば、大抵のことは解決できる。そして何よりも、定時で帰るという私の絶対的な目標は、揺るぎないものになっていた。
むしろ最近では、定時の十五分も前には全ての業務が片付いてしまう日さえあるくらいだ。それはとても喜ばしいことのはずだった。心が平穏で、波風が立たない毎日。燃え尽きていた私にとって、これ以上望むべくもない環境のはずだった。
なのに。
ここ数日、私は自分の心の中に、ほんの米粒ほどの小さな、しかし無視できないある感情が芽生え始めていることに気づいていた。
それは「退屈」という感情だった。
その日も私は手際良く午後の仕事を終えてしまい、時計の針が定時を指すのをぼんやりと待っていた。パソコンの画面を意味もなく眺める。ネットサーフィンをする気にもなれない。
静かだ。あまりにも静かすぎる。佐野さんも、私が完璧に仕事をこなすようになってからは、タイプライターを叩く回数がめっきりと減っていた。
私は少しだけ、いけない考えが頭をよぎるのを感じた。前の部署のように目が回るほど忙しい方が、もしかしたら充実していたのだろうか。
いや、違う。二度とあんな日々には戻りたくない。
でも……。
そんな私の心の揺らぎを見透かしたかのように、その「事件」は起こった。
ふとデスクの上のペン立てに目をやった時、私は違和感を覚えた。いつも一番手前に挿しているはずの、お気に入りのボールペンがない。
あれ? どこかに置いたかな。
机の上を探してみるけれど、見当たらない。引き出しの中も空っぽだ。
まあ、いいか。明日また探そう。
そう思った、次の瞬間。
パソコンのモニターの上で、マウスのカーソルがすっと、誰も操作していないのに勝手に動いた。画面の右上から左下へ。ほんの一瞬の出来事。
「え?」
思わず声が出た。見間違いだろうか。
そして今度は、自分のマグカップがいつも置いている場所から数センチだけ右にずれていることに気がついた。それは佐野さんお気に入りの、コロンビア・スプレモを淹れるための来客用のカップだ。私がこんな場所に置いた覚えはない。
何かが、おかしい。この部屋の空気がいつもと違う。まるで誰かが静かにくすくすと笑いを堪えているような、そんな気配。
「……佐野さん? 何かしましたか?」
私がタイプライターに向かって尋ねると、少しの間を置いて返事が返ってきた。
『知らんな』
その、しらばっくれたような短い返信。絶対にこの部屋の主の仕業だ。
その日から、佐野さんのささやかな、しかし的確な嫌がらせ……いや、悪戯が始まった。
私がデータ化しようと手に取ったファイルが、なぜか中身が別のものと入れ替わっている。
私が書類の不備にため息をつくと、誰もいないはずの書架の向こうから、わざとらしい深いため息が聞こえてくる。
私が少し眠気を感じてうとうとし始めると、資料室の空調が突然最大風量になって、冷たい風が私の顔を直撃する。
「ちょっと、佐野さん!」
さすがに我慢ならずに私が抗議の声を上げると、タイプライターが待ってましたとばかりにカタカタと音を立てた。
『君の近頃の働きぶりに、少し覇気がないように見えたのでな。喝を入れたまでだ』
その言葉に、私は一瞬言葉を失った。
覇気がない。確かにそうかもしれない。仕事にもこの環境にもすっかり慣れてしまって、どこか惰性で毎日を過ごしていたかもしれない。最初の頃のような緊張感も、新しい発見への喜びも薄れていた。
佐野さんの悪戯は、ただの嫌がらせではなかった。それは彼の不器用なコミュニケーション。「おい、ちゃんと俺を見ろ」「この部屋の時間を感じろ」「仕事と向き合え」。そんな無言のメッセージ。
あるいは、もっと単純に。
「最近、構ってくれないから、つまらん」
そんな子供じみた独占欲だったのかもしれない。
そのことに思い至った瞬間、私は怒る気も呆れる気も失せてしまった。そして、たまらなくおかしくなって声を上げて笑ってしまった。
なんて面倒くさくて、愛おしい幽霊だろう。
「分かりましたよ、先輩。シャキッとします。だから、もう意地悪するのはやめてください」
私が降参の意を示すと、資料室のいたずらっぽい空気はすうっと消えていった。
そして、その日の業務を始めるために最初に手に取るべきだったファイルの、一番上のページにクリップで、私の失くしたはずのお気に入りのボールペンがそっと留められていた。
そのあまりにも分かりやすいお節介に、私はまた笑ってしまった。悪戯も仕事のリマインダーも兼ねているらしい。本当にどこまでも仕事人間な幽霊だ。
その日から、私と佐野さんの間には新しい空気が流れ始めた。静かな敬意だけではない。お互いをからかい、笑い合うような、もっと軽やかで温かい関係。
この資料室は、もうただの静かな避難場所ではない。気難しい同居人と日々小さな攻防を繰り広げる、私の大切な「すみか」になっていた。
心が癒されるというのは、ただ平穏なだけじゃない。こうやって誰かと笑い合える日常の中にこそ、本当の癒しはあるのかもしれない。
私は、定時で帰るという目標はそのままに、もう一つ新しい目標を心に加えた。
それは、「このお節介な幽霊を、退屈させないこと」。
明日からまた、少しだけ忙しくなりそうだ。
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