第8話
佐野さんの生前の声を聞いた翌日。
資料室の扉を開けた私の心は、昨日までとは違う新しい種類の親近感で満たされていた。
あの情熱的な声の主が、今もこの部屋のどこかにいる。
そう思うだけでこの薄暗い空間が、少しだけ色鮮やかに見えるようだった。
私は通勤途中に少しだけ遠回りをして、デパートの地下で買ってきた特別な豆で朝のコーヒーを淹れた。
『コロンビア・スプレモ』。
佐野さんがかつてリクエストした銘柄だ。
豆を挽くといつもより深く、そして甘い香りが資料室の空気に広がっていく。
私は自分のマグカップと、そしてもう一つ来客用の綺麗なカップにもコーヒーを注ぎ、タイプライターの隣にそっと置いた。
「佐野さん、おはようございます。どうぞ」
声に出して挨拶をし、自分のデスクにつく。
さあ今日はどんな返事が返ってくるだろう。
コーヒーの感想か、それとも昨日の声についての照れ隠しか。
私は期待を込めて、タイプライターが動き出すのを待った。
……しかし。
一分経っても五分経っても、タイプライターは沈黙を守ったままだった。
キーの一つもぴくりとも動かない。
あれ?
おかしいな。
いつもなら私が挨拶をすれば、すぐに『うむ』とだけでも返事が来るのに。
それだけではない。
いつも部屋のどこかに濃密に感じられる「気配」が、今日は妙に希薄なのだ。
まるで霧が晴れた後のように、がらんとして静かすぎる。
「……佐野さん?」
私はもう一度、呼びかけてみた。
返事はない。
資料室は私が最初にここへ来た日のように、ただの物言わぬ書類が並ぶ空っぽの部屋に戻ってしまったかのようだった。
一抹の不安が、胸をよぎる。
まさか昨日のことで、機嫌を損ねてしまったんだろうか。
それとも元同僚をポルターガイストで脅したことで、何か力を使い果たしてしまったとか?
いや幽霊に、そんなエネルギーの概念があるのかどうか分からないけれど。
その日一日、私は全く仕事に集中することができなかった。
データ化を進める手は何度も止まり、意味もなく部屋の中を見回してしまう。
静かだ。
静かすぎる。
いつもなら私が少しでも雑な作業をしようものなら、どこかの書架から「カタン」と咎めるような音がした。
私がため息をつけば、タイプライターが『集中しろ』と叱咤のメッセージを送ってきた。
けれど今日は何もない。
何の干渉も、何の反応もない。
それは望んでいたはずの「平穏」だったのに、いざ与えられてみるとたまらなく心細く、そして寂しかった。
この広大な資料室に、本当に私一人きり。
その事実がずしりと重く、肩にのしかかる。
昼休み、私は佐野さんの気を引こうと、わざと書類の束を少し乱暴に机に置いてみた。
いつもなら即座に、『書類の扱いは、基本の「き」だ』というお説教が飛んでくるはずだ。
……シーン。
何の反応もない。
午後はさらに大胆な行動に出てみた。
パソコンのメモ帳に、これ見よがしにこう打ち込んだのだ。
『やっぱりスキャナーは、ボタン一つで作業が終わるから効率的で最高ですね! 紙の時間なんて、気にしていられません!』
最大限の煽り文句。
これにはあの仕事の鬼も、黙ってはいられないだろう。
……しかしタイプライターは、沈黙を守ったまま。
まるでそこに存在しないかのように、静まり返っている。
もう何をしても、ダメだった。
彼はいない。
どこかへ、行ってしまったんだ。
その考えに至った時、私の胸にちくりと鋭い痛みが走った。
いなくなるなんて、考えたこともなかった。
ずっとここにいるのが、当たり前だと思っていた。
お節介で口うるさくて、でもいつも私を見ていてくれた、見えない同居人。
その不在がこんなにも、私の心を揺さぶるなんて。
定時のチャイムが無情に鳴り響く。
私は帰り支度もできずに、ただ呆然とデスクに座り込んでいた。
その時ふと視界の隅に、あるものが映った。
それは私が今まで全く気にも留めていなかった、部屋の隅の古い書庫の壁にピンで留められた、一枚の古びたカレンダーだった。
黄ばんで端が破れかけた、何十年も前の会社のカレンダー。
私は何かに引かれるように、そのカレンダーに近づいた。
それは佐野さんがまだ生きていた頃のものであろう、昭和の年号が記されている。
そしてその中のある日付に、赤いインクで太い丸がつけられていた。
今日の日付だ。
そしてその丸の横に、震えるようなしかし丁寧な筆跡で、こう書かれていた。
『慰霊の日』
慰霊の日。
私はその言葉の意味を、反芻した。
会社に殉じた社員を弔う日。
そういえば昔、会社の創立記念日とは別にそういう日があると、聞いたことがあったような気がする。
もちろん今ではそんな風習は、とうの昔に廃れてしまっているけれど。
……そうか。
今日はそういう日だったのか。
佐野さんにとって特別な日。
会社で亡くなった仲間たちのことを、静かに偲ぶ日。
あるいは彼自身の魂を、鎮める日。
だから今日は、「仕事」を休んでいるんだ。
あのモーレツ社員の幽霊が、年に一度だけ取る休暇。
その事実に思い至った瞬間、私の胸を占めていた不安と寂しさが、すとんと別の感情に変わった。
それは安堵と、そして深いいたわりの気持ちだった。
なんだ。
いなくなったわけじゃ、ないんだ。
ただお休みしているだけなんだ。
私は踵を返し、自分のデスクに戻った。
そして帰り支度をする代わりに、おもむろに資料室の掃除を始めた。
自分の仕事のためではない。
明日の朝、休暇を終えた佐野さんが気持ちよく「出勤」できるように。
床を掃き、書架の埃を払い乱雑になっていたコード類を束ねる。
そして一日中沈黙を守っていた、黒いタイプライターを柔らかい布で、丁寧に丁寧に磨き上げた。
最後に朝私が淹れた、すっかり冷めてしまったコロンビア・スプレモをもう一度、新しく淹れ直す。
湯気が立ち上るマグカップを、磨かれたタイプライターの隣にそっと置いた。
そしてパソコンのメモ帳に、短いメッセージを残す。
『今日は、ゆっくり休んでください。一年間、お疲れ様です』
私はそれだけを伝えると、今度こそ自分の鞄を手にした。
資料室の電気を消し、静かに扉を閉める。
いつものように定時ぴったり。
けれど今日の定時退社は、いつもとは全く違う温かい満足感に満ちていた。
そして翌朝。
少しだけ緊張しながら、資料室の扉を開けた。
部屋の空気はいつもの、濃密な「気配」を取り戻している。
彼は帰ってきたんだ。
私は自分のデスクに歩み寄り、そして思わず笑みを浮かべた。
コーヒーカップは空になり、綺麗に洗われて伏せられていた。
そしてタイプライターの紙受けには、新しいメッセージが一枚。
そこにたった一言、こう記されていた。
『……かたじけない』
古風で不器用な、最大限の感謝の言葉。
私はそのメモを、そっと胸に当てた。
私たちの間にまた一つ、誰にも邪魔されない大切な秘密が生まれた瞬間だった。
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