第11話

厨房の古びた木の作業台。

その上に並べられた七つの天桃は、薄暗い店内でも自ら光を放つように静かに輝いていた。

私は腕を組み、うんうんと唸りながら、その神秘的な果実を眺めていた。

山の主の言葉が、頭の中で何度もこだまする。


『この山の夏の心を写し取ったような菓子』


山の夏。

それはどんなイメージだろうか。

照りつける強い陽射し。

けれど、木陰に入れば涼やかな風が吹き抜ける。

突然の夕立。

そして、雨上がりの濡れた土と草いきれの匂い。

生命力に満ち溢れ、時に厳しく、時に優しい、そんな山の夏。

それを、お菓子で表現する。


「うーん……難しい……」


私が頭を抱えていると、カウンターの隅で茶筅がふんと鼻を鳴らした。


『何を悩んでおる。答えは既におぬしの中にあるではないか』


「え?」


『レシピ帳に答えがないからと途方に暮れておるのか? 春様の菓子作りは、そんな凝り固まったものではなかったはずじゃ』


茶筅は続ける。


『春様はいつも言っておった。「菓子は心で感じるもの。レシピはただの道標」と。おぬしは、この天桃を見て何を感じる?』


私が、感じること。

私は改めて、手のひらの上の天桃を見つめた。

淡い黄金色の皮。

ほんのりと伝わる温かさ。

そして、この圧倒的な生命感。

皮をむけばきっと、太陽の光を凝縮したような甘い果汁が溢れ出してくるのだろう。


『それじゃ』と、茶筅が言う。

『太陽の光をそのまま菓子にする。夕立の清らかさも菓子にする。夏の山の全てを、一つの器の中に閉じ込めてみせい』


茶筅の言葉が、霧の中に差し込む一筋の光のように、私の進むべき道を照らし出してくれた。

そうだ。

一つの菓子で全てを表現しようとするから、難しいんだ。

二つの要素を組み合わせればいい。

太陽と雨。

光と水。

私の頭の中に、一つの完成図が浮かび上がった。


一つは、この天桃の生命力と甘さを最大限に引き出した、黄金色のコンポート。

太陽の力強さの象徴だ。

そしてもう一つは、山の夕立とその後の澄み切った空気を思わせる、どこまでも透明な水の菓子。

この二つを、一つの器の中で融合させる。


『ほう。面白いことを考えたな』


私の考えを読み取ったのか、茶筅が楽しそうに穂先を揺らした。


『だが、ただの水では山の清らかさは表現できんぞ。あの山の命の源ともいえる、特別な水が必要になるじゃろう』


「特別な水……。もしかして、豆腐屋のおじいさんが言ってた山の湧き水のこと?」


『いかにも。あの水でなければ、山の主は納得せんじゃろうな』


また一つ、課題ができた。

でも、不思議と嫌な気はしなかった。

最高の菓子を作るためには、最高の素材が必要だ。

豆腐屋のおじいさんの言葉が蘇る。


「よし。その水はなんとか手に入れよう。まずは、この桃の準備からだ」


私は七つの天桃のうち六つを、丁寧に、薄く皮をむいていく。

包丁を入れると、私の想像通り、黄金色の果汁がじわりと滲み出した。

匂いは分からない。

けれど、その果汁に触れた指先がじんわりと温かくなるのを感じる。

まるでこの実に宿った生命エネルギーが、私に流れ込んでくるかのようだ。


種を取り除き、果肉を少し大きめの角切りにする。

これを鍋に入れ、ごく少量の砂糖とレモン汁を加えて火にかける。

ここでも、私のパティシエとしての経験が役に立った。

桃のコンポートは火を入れすぎると食感が失われ、風味が飛んでしまう。

かといって、加熱が足りないと砂糖と馴染まず水っぽくなる。

味見ができない私は、果肉の色が透き通った琥珀色に変わる瞬間を決して見逃さないように、鍋の中をじっと見つめ続けた。

数分後、完璧なタイミングで火から下ろしたコンポートは、鍋の中で宝石のようにきらきらと輝いていた。

これを丁寧に瓶詰めし、冷蔵庫で冷やしておく。

太陽の菓子は、これで完成だ。


残るは、雨と水の菓子。

そのためには、どうしてもあの山の湧き水が必要だった。

どうしたものかと思案していると、店の戸ががらりと開いた。


「よう、姉ちゃん! この間のどら焼き、美味かったぜ!」


元気な声と共に、海斗さんがひょっこりと顔を出した。

彼は、私が何か思い詰めた顔をしていたのに気づいたらしい。


「どうしたんだ? また何かあったのか?」


「海斗さん……」


私は彼に、山の主のことは伏せたまま、正直に相談してみることにした。


「あの、この辺りで、すごく綺麗な飲める湧き水が湧いている場所って知りませんか? お菓子作りに使いたくて」


私の言葉に、海斗さんはぽんと手を打った。


「ああ、湧き水か! それならいい場所、知ってるぜ!」


「本当ですか!?」


「おうよ。山の中腹くらいにある古い泉だ。じいちゃんが昔、『日本一美味い水だ』なんて自慢してた場所だよ。最近は誰も行かねえけどな」


それは間違いなく、茶筅が言っていた水だ。


「よかったら、明日俺が案内してやろうか? 一人じゃ危ねえだろうし」


海斗さんの思いがけない申し出に、私は心から感謝した。


「ありがとうございます! お願いします!」


「はは、任せとけって! じゃあ、明日の朝、迎えに来るからな!」


彼はにっと笑うと、また嵐のように去っていった。

彼の優しさが、凝り固まっていた私の心を温かく解きほぐしてくれる。

この町に来て、本当によかった。

私は明日への期待を胸に、作業台の上を綺麗に片付けた。

カウンターの隅では、茶筅がどこか満足げに、私と海斗さんのやり取りを見ていたようだった。


『人間も、たまには役に立つもんじゃな』


その呟きは、いつもの憎まれ口とは少し違う響きを持っていた。

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