第4話

『……面倒なのが、来たもんじゃわい』


茶筅のどこか緊張をはらんだ呟きが、店の静寂に重く響いた。

私の視線は、入口に佇むその女性の姿に釘付けになる。

先ほどの男の子とは比べ物にならないほど、その存在感は濃密だった。

上等なのだろう、夜の闇に溶けそうなほど深い色の地に、繊細な花の刺繍が施された着物を着ている。

年の頃は、私と同じくらいだろうか。

しかし、その身にまとう空気は、まるで何十年、何百年も生きているかのような、古風で重々しい気品を漂わせていた。


彼女の美しさは、人形のように冷たく、完璧だった。

けれど、その完璧さを揺るがすように、両の目からは底なしの哀しみが絶えず溢れ出している。

それは涙として流れるのではなく、見る者の心を締め付けるような、濃い霧のような哀愁となって、彼女の周りを漂っていた。


私の背後で、茶筅がすいと身構えるのが気配で分かった。

『澪、心せよ。あれはそこらの浮遊霊や迷子のあやかしとは格が違う。あれは……恋に破れ、長すぎる時を生きた、椿の精じゃ』


椿の精。

その言葉に、私は息を呑んだ。

目の前の女性が、人間ではないことは一目で分かった。

けれど、まさか花の化身だとは。

彼女は動かない。

ただ、じっとこちらを見つめている。

その視線は私を通り越し、この店のもっと奥深くにある何かを探しているようだった。


私がどうするべきか分からずに立ち尽くしていると、不意に彼女の薄い唇が、かすかに動いた。

「……あの方の、香りがする」


鈴を転がすような、けれどひどくか細く、寂しげな声だった。

「あの方……?」

私が問い返すと、彼女はふらりと一歩、店の中に足を踏み入れた。

その一歩で、店内の空気がひやりと冷えた気がした。


『春様のことじゃろう』茶筅が低い声で言った。

『春様は、この店の庭にそれは見事な椿の木を育てておった。あれは、その木に宿った精じゃろうな。春様が亡くなって拠り所を失い、こうして現れたか』


「おばあちゃんを……?」

私は驚いて、改めて女性を見た。

祖母と、この美しい椿の精。

一体どんな関わりがあったのだろうか。


女性はゆっくりとカウンター席に近づくと、そのうちの一つの椅子に、音もなく腰を下ろした。

まるでそこが自分の定位置であるかのように、ごく自然な仕草だった。

そして再び私に視線を向ける。

その瞳は、やはり哀しみに濡れていた。


「あの方は、私に菓子をくれました」ぽつりと彼女は言った。

「私が決して手に入らぬ恋に泣いていた夜に……。温かく、甘い……心の棘を溶かしてくれるような、優しい菓子を」


彼女の言葉は、私の胸にちくりと刺さった。

手に入らぬ恋。

それは、私にとって遠い記憶ではなかった。

パティシエとしての未来を失ったとき、私を支えてくれると信じていた恋人は、あっさりと背を向けて去っていった。

「味が分からない君に、僕の気持ちは分からないよ」という残酷な言葉を残して。

彼の好きだったケーキを、私はもう二度と作れない。

その喪失感と、彼の言葉が残した棘は、今も私の心に深く刺さったままだ。


目の前の彼女の哀しみが、少しだけ自分のものと重なる気がした。

『澪』と、茶筅が私を現実に引き戻す。

『あやつには、「練り切り」を作ってやるのじゃ。春様の甘味帳にも、とっておきの意匠が載っておるはずじゃ』


「練り切り……?」

それは、和菓子の中でも特に繊細な技術を要する、芸術品のような菓子だ。

白餡に求肥や山芋を混ぜて作った生地を、様々な形に細工していく。

私が専門としていたフランス菓子の細工とは、また違う種類の緻密さが求められる。


『椿の精には、椿の菓子を。しかし、ただの椿ではない。春様が考案した、「寒椿(かんつばき)」じゃ』

『冷たい冬の雪の中でも凛として咲く、あの椿を模した菓子じゃ。失った恋を慰め、新たな一歩を踏み出すための力を与える……そういう願いが込められた菓子じゃ』


茶筅の言葉に導かれるように、私は再び厨房へと向かった。

埃っぽかった厨房も、私が少しずつ掃除を始めたおかげで、いくぶんかましになっている。

祖母が遺した「甘味帳」を開き、「練り切り」の項目を探した。

そこには、茶筅が言った通り、「寒椿」と名付けられた菓子の、美しい挿絵と丁寧なレシピが記されていた。


材料は、白餡、砂糖、白玉粉、そして食紅。

幸い、材料はすべて厨房の棚に揃っていた。

まずは、生地作りからだ。

鍋に白餡と砂糖を入れて火にかけ、木べらで練っていく。

レシピには、「鍋の底からもちっと剥がれるくらいまで」とある。

味も香りも分からない私にとって、その具体的な記述だけが頼りだった。


じっくりと火を入れ、餡の水分を飛ばしていく。

きっと、甘く、優しい香りが厨房を満たしているのだろう。

私は、記憶の中にある白餡の香りを必死に思い浮かべながら、手を動かし続けた。

それは、失われた感覚を、想像力で補う作業だった。

焦げ付かないように、絶えず木べらを動かす。

腕がだるくなってきた頃、ようやく餡がレシピ通りの固さになった。


火から下ろし、水で溶いた白玉粉を加えて、さらに練り上げる。

もちもちとした弾力が出て、生地が一つにまとまった。

これを濡らした布巾を敷いた蒸し器に入れ、蒸していく。

蒸しあがった生地を、熱いうちに再び裏ごしする。

このひと手間で、口当たりが格段に滑らかになるのだと、甘味帳には書かれていた。

祖母の文字は、まるで直接語りかけてくるような優しさがあった。


出来上がった真っ白な練り切り生地を、二つに分ける。

一つはそのまま白く、もう一つには、食紅をほんの少しだけ、爪の先で加える。

淡い、淡い、桜色よりももっと儚い、雪明かりに照らされたような薄紅色。

その色合いも、甘味帳の挿絵を忠実に再現した。


ここからが、最も神経を使う作業だ。

成形。

白い生地で、中心に入れるこし餡を包む。

そして、その上から薄紅色の生地を重ねて、再び丸める。

これで、外側が薄紅色で、内側が白い、二層の生地ができた。

これを、三角棒やさじを使って、椿の花の形に整えていく。


まず、てっぺんに窪みをつけ、そこから放射状に五本の筋を入れる。

これが花びらの境界線になる。

次に、さじの背を使って、それぞれの花びらを外側にそっと広げ、ふっくらとした丸みを持たせる。

指先だけの、ごく繊細な力加減。


私が東京で作っていたケーキのデコレーションは、もっと大胆で、華やかさが求められた。

でも、この練り切り作りは、まるで瞑想のようだった。

静かな厨房で、私はただひたすら、指先の感覚に集中する。

最後に、黄色く着色した生地を小さく丸め、花の中心に、蕊(しべ)として置く。


一つ、また一つと、手のひらの上で小さな白い花が咲いていく。

それは、甘味帳の挿絵から抜け出してきたかのように、凛として、どこか儚げな「寒椿」だった。

派手さはない。

けれど、厳しい冬を耐え忍び、静かに春を待つ花の持つ、強い生命力のようなものが感じられた。


これを、祖母が使っていたのだろう、趣のある黒い漆塗りの盆に乗せる。

白い菓子が、漆の黒に映えて、はっとするほど美しかった。

私はそれを、静かに待つ椿の精の前に、そっと差し出した。


彼女は、目の前に置かれた練り切りを、ただじっと見つめていた。

その哀しげな瞳が、ほんの少しだけ、揺らめいたように見えた。

やがて、彼女は震える指先で、そっと菓子を手に取った。

そして、小さな口で、ひとかけら、ゆっくりと味わうように口に含んだ。


その瞬間、だった。

彼女の身体から、淡い、真珠色のような光がふわりと放たれた。

それは先ほどの男の子の時のような、生命力を取り戻す強い光とは違う。

もっと穏やかで、心を慰めるような、優しい光だった。

「……あたたかい」


彼女の瞳から、一筋、きらりと光るものが頬を伝った。

それは、今まで彼女の周りを漂っていた霧のような哀愁とは違う、本物の涙だった。

「あの方が作ってくれた味……。いいえ、それよりも、もっと優しい……」

「まるで、凍てついた心が、春の陽だまりに溶けていくようです」


彼女は、一口、また一口と、大切そうに菓子を味わう。

その姿を見ていると、私の胸の奥が、じんわりと温かくなるのを感じた。

味が分からなくても、想いは伝わる。

茶筅の言った通りだった。

「私は、ずっと待っていました」


涙を流しながら、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。

「人間の方でした。この町で、代々、宮大工をされている家の……」

「私は、庭の椿の木の上から、いつもその人を見ていました」

「実直で、仕事熱心で、そして、とても優しい人でした」

「いつしか、私はその人に恋をしていました」

「でも、人ならざるこの身では、想いを告げることすら叶わない」

「彼はやがて、人間の女性と結ばれ、家庭を築きました」

「私は、毎日、毎日、彼の幸せな姿を、この目で見続けました」

「嬉しいのに、苦しくて、心が張り裂けそうでした」


彼女の独白は、静かな店内に染み渡っていく。

「そんな私の心を見透かすように、ある雪の夜、この店の主……春様が、庭に出てきて、私に声をかけてくれたのです」

「『寒いでしょう。さあ、これをお食べなさい』と」

「そして、差し出してくれたのが、このお菓子でした」

「春様は言いました。『その恋は、きっとあなたを美しくする。叶わぬからといって、無駄な恋などないのですよ』と」


彼女は、そっと懐から古びた一枚の和紙を取り出した。

そこには、押し花にされた、一枚の椿の花びらが大切に包まれていた。

「私は、春様の言葉と、この菓子の温かさで、救われたのです」

「彼の幸せを、心から願えるようになりました」

「……でも、春様が亡くなり、私の心の拠り所も、また消えてしまった」

「あの温かさをもう一度味わいたいと、そう願ううちに、こうして人の姿をとってしまったのです」


食べ終えた彼女は、顔を上げた。

その表情は、店に来た時とは比べ物にならないほど、穏やかで、晴れやかだった。

目元には涙の跡が残っているけれど、底なしの沼のようだった哀しみは、すっかり消え失せている。

「ありがとう、ございます」


彼女は私に向かって、深々と頭を下げた。

「あなたもまた、春様と同じ、優しい心をお持ちいのですね」

「この菓子に込められた温かさが、私に再び力をくれました」

「私は、もう大丈夫。この庭で、また静かに、この町の人々の営みを見守り続けます」


そう言うと、彼女の身体は、足元からさらさらと光の砂のようになって崩れていく。

そして、優しい風と共に、開けてもいない戸口から、ふわりと庭の方へと消えていった。

後には、ほのかな花の香りと、彼女が座っていた椅子の上に置かれた、あの古い椿の花びらだけが残されていた。


私は、その花びらをそっと拾い上げた。

自分の作ったもので、誰かの心が救われる。

その実感は、私が東京で、何百、何千という客のためにケーキを作っていた時には感じられなかった、確かな手応えだった。

味は分からなくてもいい。

心がこもっていれば、それでいい。

茶筅の言葉が、今度こそ、すとんと胸に落ちた。


私が感動に浸っていると、がらり、と勢いよく店の戸が開いた。

「よう、姉ちゃん! アジ、どうだった?」


そこに立っていたのは、先日アジをくれた、日に焼けた漁師の男性だった。

彼はにかっと笑いながら、今度は大きな発泡スチロールの箱を二つも抱えている。

「今日はサバが大漁でよ! こっちはおすそ分けだ!」

「それと……ばあちゃんの時みたいに、何か甘いもん、作ってくんねえか? 港の奴らと食いてえんだ。金は、ちゃんと払うからよ!」


人間の、初めての客。

しかも、大量注文だ。

私は驚いて、彼の顔と、その後ろに積まれた巨大な箱を交互に見た。

『ふむ。人間の客は、あやかしよりも厄介じゃぞ。金が絡むからのう』と、茶筅が面白そうに呟くのが聞こえた。

面倒なのが去ったと思ったら、また新しい嵐の予感。

私は苦笑しながらも、なぜか胸が躍っている自分に気づいていた。

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