君の声だけが、世界を照らす ―視えない彼女と、声だけで始まった恋の話―
流石翠香
声から始まる
第1話 雨と、声と
その日、村瀬蒼太は心底うんざりしていた。
同期に無理やり連れられた飲み会、流れで始まったカラオケ、誰もが気を使って笑い合う地獄みたいな空間。彼には、場違いという言葉がよく似合った。
ひとつ歌っただけで、もう限界だった。喉じゃなくて、心が。
蒼太は適当に「トイレ行ってくる」と嘘をつき、カラオケボックスを抜け出していた。冷たい夜風にほっとしたのも束の間、ぽつ、ぽつと空から落ちてくる雨に肩をすくめて、地下街へと滑り込む。
湿った空気と蛍光灯の白い明かり。人通りの少ない地下通路に入って数歩、ふと足が止まる。
白杖を持った女性が、立ち止まっていた。長い黒髪にベージュのコート。手元のスマホをいじりながら、眉をひそめている。
蒼太は躊躇した。関わらないほうが楽だ。いつもそうしてきた。でも、彼女の声が、その思考をかき消した。
「すみません……この先にエスカレーターって、ありますか?」
柔らかい、でもどこか不安を隠した声だった。
蒼太は喉が詰まったようになりながらも、なんとか言葉をひねり出す。
「……あ、あの……あります。あと、10メートルくらい先に……」
「そうですか。教えてくれて、ありがとうございます」
女性はほっとしたように微笑んだ。その笑顔に、なぜか胸の奥がじんとした。
気づけば、蒼太は一歩前に出ていた。
「……案内、しましょうか。段差とかあるんで、危ないかもしれないし」
彼女は少し驚いたように顔を上げ――そして、微笑む。
「じゃあ……お願いします。あなたの声、安心できるから」
その言葉に、蒼太の心が、少しだけ温かくなった。
蒼太は女性の一歩後ろ、少し横を歩いた。彼女が何かにつまずかないよう、周囲に注意を払いながら。
「えっと……もうすぐ段差です。右側に手すりがあります」
「ありがとうございます。……慣れてるんですね、こういうの」
「いえ、全然……。普段、人に話しかけるのも苦手なんで……」
言ってから後悔した。こんなこと、いちいち言う必要あったか? きっと変な奴だと思われた。
けれど、彼女はくすっと小さく笑った。
「でも、優しいですよね。無理に話そうとしてくれるの、伝わってます」
蒼太の胸が、また少し熱くなる。
「……エスカレーター、見えました。もうすぐです」
「ありがとうございます。本当に、助かりました」
彼女は立ち止まり、体を少しこちらに向けた。視線は当然合わない。でも、蒼太にはなぜか、自分の目を真っすぐ見られている気がした。
「あなたの声、不思議ですね」
「ふ、不思議?」
「なんていうか……静かなんですけど、ちゃんと届く。怖くない声です」
蒼太は言葉を失った。今まで、自分の声について何か言われたことなんてなかった。いや、それ以前に、自分をこんなふうに“見て”くれた人すら――。
「……俺の方こそ、ありがとうございます。声かけてくれて」
「ふふ、変な人ですね。普通は逆なのに」
エスカレーターが目の前に現れ、動くベルトの音が空気を変える。蒼太は足を止めた。
「この先、上りエスカレーターです。手すり、右側です」
「了解です」
彼女は軽く頭を下げ、エスカレーターに足をかける。が、その前に、ふと立ち止まった。
「……また、どこかで会えたら、嬉しいです」
「え……」
蒼太が何かを言う前に、彼女はエスカレーターに乗っていった。上昇するその背中を、ただ見送るしかなかった。
名前も、知らない。
でも、確かに心に残った。
あの雨の夜、世界が少しだけ優しくなった気がした。
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