第34話 優しくしてください

 山本は久米の手を外し、ゆっくりと振り返って、彼の黒いシャツのボタンに指をかけた。

 少し大きめのそれを一つひとつ外していきながら、静かに言った。


「……この数日、いろいろとお世話になった。日曜はちゃんと休んで、月曜の会議は――」


 その続きは、久米の唇に塞がれた。


 山本の眉がぴくりと動いたが、拒まなかった。ただ、外したばかりのボタンが、指の間で揺れている。


 酒の匂いと熱が入り混じる口づけに、背中の洗濯機が小さく揺れる。上に置かれた小瓶が床に転がり落ちる音がした。


 久米が唇を離すと、山本の瞳がゆっくりと開かれた。だがそのまま、再び久米が身を寄せてきて、もう一度、唇を重ねてくる。


 それに応じるように、山本は無意識に顎を上げ、肩口を掴む指に力が入る。

 心臓の鼓動が早まり、唇の隙間からこぼれる息が、熱を帯びていく。


 久米の手が腰に触れ、ベルトのあたりに伸びたところで、山本は息を呑み、背筋を強ばらせた。


「……待って、やめ――」


 そう言いかけた口は、またすぐに塞がれる。


 衣擦れの音とともに、ズボンが腰からずり落ち、久米の指先が下着越しに触れてきた。ぴくりと山本の身体が反応する。


「……だめ、っすか」


 久米は額を寄せ、かすかに震える声で囁く。


「今日終わったら、また俺、一人の家に戻るから……」

「……なんか、寂しいんです」


 鼻先を擦り合わせるようにして、久米が寂しげに言う。


 山本は唇を噛みしめ、声を出せないまま、じっと耐えていた。

 だが、下着の中に忍び込んだ久米の指が、熱を帯びたものに触れると、まつげが震え、そっと目を閉じた。


 口づけは唇から顎、耳元へとゆっくり移動し、耳たぶをかすめる吐息がふっとかかる。


「……っん」


 指先が敏感なところをなぞるたび、思わず声が漏れる。


 なおも抵抗するように久米の肘を押したが、久米はその手をそっと取って、自分の手の上に重ねた。


 山本の体が崩れそうになるのを感じながらも、久米は支えることなく、手の動きを止めなかった。


「……や、出……っ、く、る……っ……バカ……っ」


「出していいですよ」


 久米は囁きながら、山本の身体の反応をそっと受け止めていた。


 やがて、その指の間に伝わるぬるりとした感触に応じて、山本の身体が微細に震えた。

 微かに開かれた唇から、かすかな吐息が漏れた。


「……服、汚しちゃいましたね、山本さん」


「……バカ」


 久米は山本の目尻に唇を寄せ、声を落として言う。


「汚れたなら、脱げばいいんです」


「……は?」


 山本が目を開くと、久米の熱っぽい視線に思わず頬が紅く染まる。

 久米は自分のベルトに手をかけ、下に引き下ろすと、そこからはっきりと気持ちが伝わる状態であることが見えた。


「お前――」


 その言葉が終わる前に、久米は山本の手を取り、自分の身体の上にそっと導いた。驚いたように瞳を揺らす山本に、久米は仕事で叱られたときのような小さな声で呟く。


「……ちょっとだけ……見るだけでも、触れてくれたら……」


 その震えるような瞳に、山本は視線を逸らしながらも、指先だけでそっと触れた。


 静かな室内に、久米の呼吸が少しずつ荒くなっていく。

 指に伝わる気持ちが、拒絶しきれないほどに確かなものだった。


「山本さんの指……冷たいな」

 久米は肩の力を抜き、山本の肩に顎を乗せながら、小さく洩らす。


「……黙れ」


「へへ……かわいいな」


 久米が首筋に頬をすり寄せながら言うと、山本の手に、ぎゅっと力が入る。


「誰がかわいいって?」


 根元をぎゅっと握られ、久米は慌てて身を引いて首を振った。


「お、おれだってば!」


 そのまま山本の頬にそっと唇を落とし、掠れる声で願った。


「…優しく、してください…」


 山本は目を上げて久米を見つめ、大きく息を吐く。


「もっと近くに来い」


 久米が少し戸惑いながらも顔を寄せてくると、山本は静かに目を閉じ、自ら唇を重ねてきた。


 そのやさしい口づけに、久米は目を閉じながら、胸の奥で「かわいいな」という言葉をそっと呟いた。声には出さず、ただ甘く反響するだけだった。


 山本の手は、時に力を込め、時に緩めながら、まるで壊れ物を扱うように慎重に、久米を受け止めていた。

 久米はその手の温もりに身を任せながら、指を後頭部にまわし、柔らかな髪をゆっくりと撫でる。


 もっと――もっと近くにいたい。

 息が詰まるほどの口づけでも、離れたくなかった。


 そのとき、小さく落ちた滴が、山本のシャツの裾を濡らし、太ももへと静かに流れた。


 久米はようやく唇を離し、荒い呼吸を繰り返す山本を見つめる。頬の赤みに手を伸ばし、優しく撫でながら言った。


「これでお互い汚れましたね」


「……お前、ほんと、バカだな」


 山本は顔を背け、久米の手のひらに頬を預けるようにして隠した。長い睫毛が、手の甲にくすぐったく触れた。


 久米はその手を下ろし、シャツのボタンに手をかけたところで、山本が驚いて手を掴んだ。


「何もしないって言っただろ?」


「……服が汚れたら、脱ぐしかないじゃないですか」

 久米はきょとんとした顔でそう答えた。


「脱いでどうするんだ」


「……お風呂ですよ」

 少しだけ目をそらして笑った久米は、すぐに山本の顔を見て言った。

「明日、映画に行くんですから。風邪、ひいたら嫌です」


 山本は呆れたように襟を直し、背を向けて浴室の扉を開いた。


「……自分で洗う」


「はいはい。じゃあ僕、こっち片付けておきますから」


 床に落ちた瓶や、洗濯機の上でまだ垂れている液体を指さして、久米が申し訳なさそうに言う。


 山本はそれをちらりと見て、ぼそっと一言。


「当たり前だろ」


 そう残して、浴室に入り、扉を閉めた。

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