第27話 優しさと熱さのあいだ

 キッチンのシンクには、まだ使い終わった食器が山のように積まれていた。

 山本はソファに沈み込んだまま、久米が作成したクライアント向けの会議報告書に目を通しており、その眉間の皺は見るたびに深くなっている。

 久米はざっとテーブルを拭いてから、ソファ前の床にぺたんと座った。


 全力を尽くしてクライアントを繋ぎ止めたつもりだが、状況はどうにも芳しくない。久米は気まずそうに言った。


「さすが山本さん、特許の件まで気づかれるなんて……」


 山本の視線が、うつむいた久米の頭に止まる。ふうとひと息ついて、静かに言った。


「うちはプロジェクトを作る側だ。まずそういう視点を持って当然だろう。悠人、お前はいつも視野が狭すぎる。自分の分だけ早く終わればいいと思ってるんじゃないのか」


 名前を呼ばれた瞬間、久米の胸の奥がじんわりと痺れた。怒られていようが何だろうが、山本に名前で呼ばれるだけで全てがどうでもよくなる。

 彼は山本の膝に顔をうずめるように倒れ込み、頬をぴったりと膝に押し当てた。


「はいはい、仰る通りでございます!」


 山本は脚を引こうとしたが、久米は離れようとしない。何度か押し引きした末に、山本は諦めたようにため息をつき、丸い頭をぽんぽんと撫でた。


「明日、村田っていうデザイナーから何パターンか図案が届く。お前がそれを持って、エイス製作所に行って、テスト製造の話をしてこい」


「……村田って誰?」


 久米は顎を上げ、どこか警戒するような目を向ける。


「この案件はもともと俺と真吾、あと何人かで立ち上げたチームで進めていた。お前が配属してからは現場配属だったから、チームもそのまま待機状態になってた。――だから、財務の浅間以外はまだ紹介してなかったな。悪い」


「謝ることないじゃないっすか……」


 久米は体をずらしてソファに這い上がり、山本の胸に顔を埋めた。


「……それで、他には誰がいるんですか?」


「法務の大平、あと最近忙しくて顔出してない品質管理の黒瀬さん。次の会議には参加してもらう予定だ」


 山本は久米の頭を片手でぐっと押し出した。


「――お前、暑くないのか?」


 久米はその手のひらに額を預けたまま、半眼で鋭く問いかけた。


「……その人たちと、山本さんはどんな関係なんですか?」


 山本の手に力が入らなくなり、久米の顔がまた胸元に戻ってくる。暑さではない。じんわりとした温かさ。

 それが、誰かに気にかけてもらえるという感覚なのだろう。山本は目を伏せながら、ぽつりと答えた。


「――同僚だよ」


「なら、いいです」


 久米はさらに体を寄せながら、何かを思い出したように身を起こし、興奮した様子で言った。


「そういえば、クライアント側、清水さんだったんですよ!!」


 大事なことを言い忘れていた。


 その名前を聞いた山本は、舌打ち混じりに顔をしかめた。……真吾の野郎、あの手この手でやりたい放題しやがって……相手が市の案件だと分かってて、なおふざけるとは。


 久米の戸惑ってる視線に気づき、山本は思考を止めて咳払いした。


「――そっちはひとまず置いといて。明日のエイス製作所とのやり取りが、今回の鍵だ」


「はい」


 久米が素直に頷き、山本は報告書を閉じた。しかし久米は立ち上がる気配を見せない。怪訝に横を見ると、彼はこちらをじっと見つめていた。


「……何だ?」


 山本が一歩引こうとした時、久米がそのまま顔を寄せてきた。半分だけ見開いた目が、熱を帯びた光を宿している。


「……話、終わりました?」


 息がかかるほどの至近距離。逃げ場のないソファの背。山本はこくりと頷き、小さな声で「……ああ」と返した。


「体調は?」


「……だいぶ良くなった」


「それなら……よかったです」


 唇と唇の間に残されたわずかな隙間を、久米の口づけがゆっくりと埋めていく。


 それは本来、優しいキスであるはずだった。だが、山本がかすかに応じた瞬間、熱が弾けるように空気が変わった。


 唇と舌が交差するだけでは足りないとでも言うように、久米は山本の手を取り、自分の背中へと導いた。パーカーの裾から忍び込ませた指先が、山本の背筋をなぞる。


「んっ……!」


 指先が小さな膨らみの端をかすめた瞬間、山本の体がぴくりと跳ねた。強引に口を離し、胸元の手を押さえて睨みつける。


「……お前、何してんだ」


 頬を赤らめた山本に、久米は構わず顔を埋めて唇を落とす。手を掴まれたまま、親指の位置をそっとずらすだけで――


「……あっ」


 爪先が端を引っかくと、山本の体がぴくりとした。


 久米の唇は山本の喉元へと降りていく。山本の呼吸の震えを感じ取りながら、ゆっくりと首筋にキスを落とす。


「……ま、待て、悠人――」


 言い切る前に、パーカーの裾が捲り上げられ、山本の胸に熱が走る。胸元に唇を寄せると、山本は身をよじった。


 視界に映るのは、久米の睫毛と唇の動き。舌が一撫でするたびに、山本の目尻が熱くなる。


 必死に呼吸を整えようとするが、背中に汗が滲み、肩が震える。だが、どうしても突き放せない。


 この、膝の上にいる図々しい丸い頭を睨みつけて、ようやく一言だけ絞り出した。


「……お前、犬かよ」


 久米は山本の首元に頬をすり寄せ、低く囁いた。


「……はい、山本さんの犬に……なりたいです」


 山本は小さく鼻を鳴らし、久米の頭を引き離す。パーカーの裾を直して、体を起こした。


「……ふざけんな。ここ数日でエイス製作所について調べたが、小規模で古いが、確かに職人仕事だ。――MOQ(最小発注数量)を抑えられるかは、お前の腕にかかってる」


「……分かってます。設備は古いけど、不良率に関しては、対応可能だと見てます」


 今、唯一の選択肢だ。


 久米は半分目を伏せ、思案するような顔をしていた。

 山本はようやく息を吐き、立ち上がってキッチンに向かった。洗い物の残るシンクを見つめながら、自分の胸が未だに火照っているのを意識して、軽く舌打ちする。


 このクソガキ、バカだと思ってたけど……本性、隠すのうまいじゃねぇか。

 というか、こんなことしておいて、すぐ仕事モードに戻れるって何なんだよ。


 水道の蛇口を捻ろうとしたとき、ふと顔を上げると、久米の視線とぶつかった。


 慌てて目を逸らし、床に滑り落ちた久米は、ローテーブルのノートパソコンを開き、明日のエイス製作所のサブ案を打ち始めていた。


 山本は静かに笑みを漏らした。


 ……やっぱり、こいつもまだまだだな。


※なんで山本は帰らないのか問題


久米「……なんでずっとここにいるんですか? 山本さん、家あるでしょ。」


山本「……仕事の情報が一番早く手に入る場所だから。」


久米「はあ? それだけですか?」


山本(カップに口をつけながら)「他にもあるけど、それを聞いて嬉しくなるタイプ?」


久米「……言ってくれないと分かりませんけど?」


山本(くす、と笑ってソファに座る)「……じゃあ、もうちょっと甘えてみれば?」


久米「え、なにそれ……条件付き?」


山本「甘えられたら弱いタイプだからな、俺」


久米「……じゃあ、膝枕してもらってもいいですか?」


山本「甘えるって、そういう意味か?」


久米「そういう意味ですけど?」


山本(片眉を上げて)「……朝から面倒なやつだな」


久米(小声で)「じゃあ夜にします……」


山本「……ちゃんと報告しろよ、仕事の進捗」


久米(ちょっとだけ赤くなって)「はいはい……」

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