第25話 清水の刃、久米の矛

 久米は会議室に入り、プロジェクターとPCの接続設定を始めた。

 視線の端で、吉田と談笑している清水の姿が見える。……清水さん、クライアントどころか、この案件の命運握ってる人じゃんか……!

 ふと、先日の居酒屋で見た伊藤と清水の妙に親しげな空気を思い出し、心の中で密かに感嘆した。


 ーーさすが伊藤さん……

 やっぱり、あの距離感も計算のうちか。


 老獪な狐、とはまさにこのことだ。

 けれど冷静に考えれば、一番やりにくいのは清水の方かもしれない。

 表面は涼しい顔で礼儀正しいが、その内側ではどれだけ荒れていることか。


 あの時、伊藤が「工場よりクライアント対応したかったんだけどね」なんて言っていた理由が、ようやく分かった気がする。


 ……来なくて正解だ。

 来てたら、まさに修羅場だった。


 久米は接続確認を終え、深呼吸して席に着く。


 ーーいまは目の前のことに集中しよう。

 ーー帰ったら伊藤に文句を言おう。


「お待たせしました」

 スクリーンの前に立ち、吉田と清水に向かって頭を下げる。


「どうぞ」

 清水は久米の名刺を机に置きながら、静かに答えた。


 長い説明が続く中で、久米は口の中がカラカラになるのを感じた。

 入社以来はそこそこ優秀だったはず。この程度のプレゼンなら本来、苦もなく進められる。

 緊張するのは当然だが、何よりーーこの提案書は、山本さんが手直ししてくれたものだ。

 勝算はある。


 説明を終え、椅子に腰を下ろして言う。


「清水さん、今回の提案について、何かご不明点やご要望があれば、遠慮なくお申し付けください」


 清水はうつむいたまま、資料に目を通す。前髪がその表情を隠す。

 久米は無意識に指先を握りしめた。


「……まず、失礼ながら――」


 ようやく清水が顔を上げ、久米を真っ直ぐに見据える。


「今回の責任者ですが、久米さんでしょうか?」


 ――来たか。


 久米は一瞬、息が詰まった。すぐに湯呑みに手を伸ばし、落ち着くふりで一口含む。


「……本来、この案の責任者を担当させて頂いた伊藤は出席予定でしたが、シーブイ工場にてサンプル検品の確認で不具合が出まして、

 急遽、現場対応に向かっております」


……やはり、そういうことか。

久米が出てきた時点で、大方の察しはついた。真吾を表には出せない分に、こちらも正面からは攻められない。

相手に、計算された。……いや。

ーーたぶん、この子の……上層部の策だな。


 清水はふと視線を落とし、カバンから細身のボールペンを取り出す。ノートの端に何かを走り書きしながら、顔を上げずに小さく息を吐く。


 ……余計な詮索をすれば、こちらの火種にもなりかねない。

 真吾との関係を、万一上に嗅ぎ取られでもしたら。

 あくまで“確認”という体で揺さぶるに留める。今は、それ以上は踏み込まない。


 清水は頷きつつも、声色は探るようなものになる。


「では……今回はお一人でのご対応ということで、少々ご負担が大きいかもしれませんね」


 柔らかく笑いながら、確実にプレッシャーをかけてくる。


 久米は咳払いして答える。


「山本が急な体調不良で、本日は私が代理を務めさせていただくことになりました。至らぬ点があるかと思いますが、何卒よろしくお願いいたします」


「ああ、それは大変でしたね。でも、若手にここまで任せるなんて、なかなかの信頼度ですよ」

 吉田が茶をすする音が聞こえた。


 久米は視線を吉田に向けるも、すぐに逸らす。

 ーー山本さんが言っていた通りだ。

 会社は今回は本当に、俺たち三人だけに丸投げしている。


 ……だって会社を出る時、誰もこっちを見ようとしなかったわけだ。


「……君か」

 清水は笑っているが、その声色は感情の読めないものだった。


……探るなら、今だ。

どこまでがこの子の言葉で、どこからが“上の意志”なのか。


「そうですか……では、今後は御社の体制についても、少しずつ理解を深めていかないといけませんね」


 久米の指先が一瞬止まる。

 ――成果を踏まえて、クライアントの目的を見直す。

 頭の中で、反復する。


「……私もまだ異動して間もない身でして、大したことは言えませんが……

 ただ、この件に関しては、単なる社内調整の問題ではなく、しっかりと成果を出すことを最優先に考えております」


 資料をめくりながら、言葉を続ける。


「特に第一ロットの生産戦略については、いくつかのシミュレーションを経て、最もリスクの少ない処理案を選択しました」


 清水はページをめくり、微かに眉を上げる。


「そうですか。……ですが、我々から見れば、

“成果を出す”のは御社の当然の責務であって、交渉材料ではありません」


「もちろんです」


 久米は一拍置いて、まっすぐ清水を見つめる。


「だからこそ、あえてお伺いしたいのですが――

 清水さんが今回、重視されている“成果”とは、在庫をすべて処理することなのか、それとも次フェーズの定量維持なのか……

 どちらでしょうか?」


 清水は無言のまま、数ページ先のプランシートをめくる。


「……ところで」


 指先で資料を軽く叩きながら、言う。


「こちらに記載されている、第一ロットの在庫500個――

 別販路での販売をご検討とのことですが、この商品に使用されている設計図、御社の社内デザイナーによるものですよね?」


「はい」


「つまり、このグラスの形状や厚み、底部のカーブ、

 いずれも御社設計で、変更はされていない?」


 久米の胸の奥がざわつく。


「……はい、その通りです」


 清水の声は柔らかい。けれど、その言葉の隙間には鋭さがある。


「では、外販されるご予定とのことですが、仮に同一仕様ですと、当方としては若干の混乱が生じる可能性も考えられますが…

 我々としては、将来的に当プロジェクトとの誤認が発生しないか、懸念せざるを得ません」


 ――まずい。

 ――商品そのものを突けば、実績ごと値を下げられる。

 そういう手できたか。


 久米は唾を飲み込み、できるだけ平静を装う。


「……この件については、社内のデザインチームと協議済みです。

 現段階では、商標回避の範囲で、

 構造面に微調整を加える方向で進めています」


 そう言って、資料から一枚の書類を取り出し、清水の前に置く。


「二次確認プロセスも進行中で、

 必要に応じて法務からのリスク回避文書も添付予定です」


「それは御社内でご判断ください」

 清水は茶を一口飲み、伏し目がちに続ける。


「私が求めているのは、最終的な結果だけです。

 我々のブランドイメージに影響が及ぶ可能性も否定できませんので……

 ただ一つの要望として――

 販売先が我々のブランドイメージに抵触しないよう、サンプルと流通チャネルの概要を事前にご提示いただけますか?」


「……承知しました」


 久米はぐっと歯を食いしばり、心の中で

 ――伊藤さん、時間稼ぎはこれでいいですか――

 と叫ぶ。


「他にご質問は……?」


 言ってから、これは未熟な聞き方だったと、すぐに気づく。


 清水が名刺を指先でくるりと回しながら、微笑む。


「そういえば、次回以降は第二、第三ロットが、新しい協力工場との連携になるとか」


 久米は唇を引き締め、心の中で反芻する。


 ――自社リソースの配分可能な範囲を明確にする、自社リソースの配分可能な範囲を明確にする……


「……はい。どうぞご質問ください」


 清水はわざとゆっくりと言葉を紡ぐ。


「そのエイス製作所、量産実績は?

 特にガラス製品では、温度変化による微小寸法誤差が問題になりますが?」


「……小規模ではありますが、対応力はあります。

 本日、サンプルをお持ちしました」


 久米は鞄から小さな箱を取り出し、清水の前にそっと置いた。


 清水は箱を開け、包装紙を丁寧に剥がし、じっとグラスを眺める。


 久米はその隙に茶を一口飲む。

 ――持ってきておいて、本当に良かった。


 清水はグラスを元に戻し、再び久米を見る。


「……サンプルは合格です。

 ただ、次回第二、三ロットでも不良が出た場合、補填体制は万全ですか?それとも、また別販路への振り替え対応ですか?」


 久米は唇を震わせながら答える。


「……量産時の品質安定には最善を尽くします。耐熱テストも再度実施します。

 ……少しだけ、お時間をください」


 空気が一瞬、張り詰める。


 清水は椅子に背を預け、静かに久米を見つめる。


「……まあ、言うことは言えるようになったじゃないか」


 久米は無言で、小さく笑ってみせた。

 ――ここで余計なことは言わない。それが一番。


「ただ……」


 清水は資料をめくり、山本の名前が視野に入って、わざとらしくため息をつく。


「そちらの山本主任が用意された案、内容としては非常によく整理されていますが、現場レベルでの実行にはもう少し柔軟性が必要かもしれません。

 実際に、現場のリスクに即して動ける内容かどうかは、まだ分かりませんね」


 久米は用意していた補填案資料を二枚抜き取り、差し出す。


「こちらは、市場シミュレーションを踏まえた最新案です。

 完璧とは言えませんが、前回のボトルネックを踏まえ、実効性を重視した作りになっています」


 清水は書類の端をトントンと叩きながら、じっと見下ろした。


「……つまり、以前の失敗は、我々の責任ってこと?」


「そういう意味ではありません」


 久米は目を伏せ、落ち着いた声で続けた。


「……ただ、我々も学びました。

 次回以降の協業がうまくいくかは、“問題”からどれだけ脱却できるか次第だと」


 清水は数秒黙り、やがて口元に微かな笑みを浮かべた。


「なるほどね。

 ……理解はしました。ただし、それが“容認”を意味するわけではありませんが」


 資料を閉じ、こう付け加える。


「では、こちらの立場も貴方から山本さんと伊藤さんにお伝えください。

 来週木曜までに、正式なリスク回避補足案を提出していただきたい。

 その説明は、責任者本人の口から聞かせてもらえればと」


 ようやく、終わった。


 久米は深々と頭を下げ、

「……ご理解、ありがとうございます」と呟いた。


「次は、ちゃんと責任者が来るといいですね、久米君」

 吉田が冗談めかして笑う。


 久米は微妙な顔で吉田に頭を下げ、資料を手早くまとめる。


 ――疲れた……でも、とにかく……

 ――無事に乗り切った。

……今すぐ山本さんに会いたい。

ちゃんと褒めてって、言ってしまいそうで怖い。


 久米の胸の奥に、ほんの少しだけざわつきが走った。吉田と一緒に清水を送り出したあと、黙って自分の荷物をまとめはじめる。


 今日の会議で、心も体もすっかり疲弊してしまった。まさか清水という人間が、初対面の印象とあれほど違うとは――


 あんなに柔らかい雰囲気をまとっていたのに、言葉はまるで刃のように鋭い。久米はノートパソコンを閉じ、それをバックパックに丁寧にしまい込んだ。


 そこへ吉田が歩み寄ってきて、ぽんと久米の背中を軽く叩いた。


「いやあ、さすがだな。ますます久米くんをうちに引き抜きたくなるよ」


 久米はさりげなく半歩身を引いて距離をとり、軽く頭を下げながら言った。


「とんでもありません。私など、まだまだです」


 そして身体を起こし、柔らかく笑みを浮かべて続ける。


「優秀な上司に導いていただいているおかげで、ようやく少しずつ成長できているんです」


 吉田の内心に、ふとした驚きが浮かぶ。たった一週間前とは、まるで別人のようだ――


 久米という男が、どこか、山本という男に通じるものがある気がした。

 

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