第12話 進捗と、キスと
三人の工場スタッフが加わったことで、作業の進行は一気に加速した。倉庫内の雰囲気も、どこか賑やかになってきた。
伊藤は水を買いに行ったり弁当を手配したりと、右に左に駆け回っている。
手に持った補給用の食べ物を山本に渡し、「車で休んでおいで」と促す。
山本の背中が倉庫の扉の隙間に消えたのを見届けると、伊藤は久米の隣に腰を下ろした。
「仲直り、できたの?」
不意打ちの問いかけに、久米は危うく手に持ったガラスコップを床に落とすところだった。
――まあ、そもそも『仲直り』って話でもないけれど。
それでも、顔を赤くしながらコクンとうなずく。
伊藤はほっとしたように息をつき、ぐしゃぐしゃと久米の頭を撫で回した。
久米は、伊藤が横の箱からコップを取り出す様子を見ながら、口を開こうとして、結局閉じた。
伊藤はざらついた紙をはがし、コップの表面を指でなぞりつつ、ぽつりと口を開いた
「……何でこんなことしてんのか、聞きたい?」
久米はコップを丁寧にしまいながら、こくりとうなずいた。
「こんな大事な時期に、チームの空気がギスギスしてたらさ……詰むだろう」
相変わらず軽い調子で言いながらも、伊藤は久米の真剣なまなざしに目を細めた。
指先でなぞっていたコップの一筋の傷――特に目立つその部分を指差す。
「見てみな、これ。いわゆる不良品ってやつ。」
久米は、分かったような分からないような顔で、またうなずく。
伊藤はコップを箱に戻し、少し顔を寄せて、じっとその傷を見つめた。
「どんなものでも、一度ヒビが入ったら、元通りにはならないんだよ。」
淡々とした口調でそう言うと、久米もコップに視線を落としたまま、ぽつりと尋ねる。
「つまり……伊藤さんと、主任って……昔、そういう関係だったり……します?」
伊藤は目を閉じ、軽く肘で久米の胸を突く。
「……そういうストレートな言い方、やめてくんない?」
天井に近い倉庫の小窓に目を向ける。夜の闇が、そこからじわりと滲んでくる。
「ずっと立ち止まってても、俺にも、あいつにも……良いことなんかないんだよ。」伊藤は久米に向き直り、珍しく優しい声で続けた。
「……だろ?」
「……はい。」
久米はまたコップを見下ろす。
胸の奥に引っかかっていた感情が、まるでこのガラスの傷みたいに、見えているくせに認めたくないものだと、ようやく気づく。
「お前はバカだけど、あいつもお前が思ってるほど賢くないからな。」
伊藤はコップを片付け、箱ごと脇に押しやると、大きく伸びをしながら奥の段ボールの山を見やった。
「バカ二人がくっついてるのも、案外悪くないもんだろ?」
「……ふざけないでください。」
久米はぷいと顔を背ける。
「お前も少し休め。一時間後に交代だ。」
伊藤は腕時計をちらりと見て、作業中のスタッフたちに視線を向けた。
「プロはやっぱ違うな。俺たちの倍は速い――朝までには片付くだろ。」
久米を送り出したあと、伊藤は再び、不良品の箱に目をやった。
過去のこと――自分のも、山本のも――できることなら、この箱みたいに、さっさと回収して、処理してしまいたい。
営業用携帯の着信音が、上着のポケットから鳴り出す。
液晶に映る「吉田課長」の文字を見つめながら、伊藤は口元に薄い笑みを浮かべた。
――やっぱり我慢できなかったか。
欠伸を噛み殺しながら、久米は凝り固まった肩を揉む。
精神的にも肉体的にも、今日一日はまさに「疲労困憊」という言葉がぴったりだった。
夜の闇に沈む車体の中で、白い光がゆらりと揺れている。近づいてみれば、それは山本の膝上に置かれたノートパソコンの光だった。
後部ドアを開け、久米は山本の隣の空席にぐったりと座り込む。
山本は画面に目を落としたまま、キーボードを叩きながら小さく呟く。
「お疲れさま」
……この主任には、ほんとうに感心する。
朝の会議であれだけ詰められ、午後は体力仕事、この時間になってもまだ目を開けて残業している。
正真正銘のスーパー社畜への進化形態だ。
つい視線が山本の唇に滑り、胸の奥が熱くなる。慌てて顔を背け、倉庫の方を見る。
「……主任も、お疲れさまです。」
目蓋が重く、ついには閉じたまま、ぼんやりと呟く。
「主任、休まなくていいんですか?」
「部長に進捗を聞かれるから、報告書急がないと。」
山本の指は休むことなくキーボードを打ち続ける。
その打鍵音を聞きながら、久米の意識はどんどん遠のいていった。
夢とも現実ともつかない意識のなかで、ぽつりと呟く。
「……今日の伊藤さん、ほんとに……かっこよかった……会議中の主任も……最高に……」
まぶたの裏で景色が揺れる。
「……僕、何の役にも立てなかったな……」
その瞬間、隣のキーボードの音がぴたりと止まった。
ひんやりとした指先が、頬に触れる。
もう、避ける力なんて残っていない。ただ眠りたい。ただ、少しでも長く、この瞬間のままでいたい。
山本はじっと久米の寝顔を見つめ、わずかに唇を歪める。
「……こいつ、ほんとに……」
息を吐くように呟きながら、ぼそりと続けた。
「まあ、今日だけは……頑張ったし。少しくらい、褒めてやるか……」
身体がそっと内側に引き寄せられる。夢と現実のあわいで、唇に柔らかな感触が触れる。
湿った舌先が、ひんやりとした息と共に、ゆっくりと自分の唇を割って、深く侵入してくる。
全身に、じんわりと熱が広がった。
これが夢なら、どうか醒めないで――
無力に持ち上がった腕は、山本の襟足にぽとりと落ちる。シャツの生地の下、指先に触れるのは、温かく滑らかな肌だった。
どれほどの時間が経ったのか。
山本は、だらんと肩に乗ってきた久米の腕をそっと外し、目の前で口を半開きにして眠るその顔を見つめる。
くすっと笑いながら、まるで甘やかすような声で吐き捨てる。
「……キスしながら寝落ちとか、役に立つわけないだろう。」
前席にかけていた自分の上着を、そっと久米の体にかけてやると、再びノートパソコンに視線を戻す。
柔らかな光が、彼の瞳に広がった。
右下の時刻表示が、19時59分から、20時ちょうどへと切り替わる。
騒がしい人声に、久米はふと目を覚ました。
隣の席が空いていることに気づき、一瞬、全身が強張る。
ほんの少し前まで、隣にぬくもりがあったような気がしてーーそれが夢だったのか、思い出せない。
外はまだ真夜中。軽く首を振って、ドアに手をかけた。
車を降りると、ちょうど伊藤が段ボール箱をシーブイ工場マークのついたトラックに積み込んでいるところだった。
伊藤は手についたほこりをはたきながら、声をかける。
「お、起きたか」
「……何してるんですか?」
眠そうな声で問いかけながら、久米は顔をこする。
「さっき吉田さんから電話があってな。木曜の午後、向こうが面談したいってさ」
伊藤は言いながら、久米の表情を見て補足する。
「だから、さっき工場に連絡して、俺たちが『良品』って判断したロットを、もう一回機械で検査してもらうことにした」
「……いつもそんなに頼れる人でしたっけ、伊藤さん……」
思わず親指を立てたくなる久米。
「じゃ、これ運んで戻るわ」
運転席の工員が窓を開けて声をかけてくる。
「おお、よろしくお願いします」
伊藤は手を振り、車の後ろ姿が夜の田んぼ道に消えていくのを見送った。
夜風が肌にひんやりと心地よい。
倉庫に戻ると、久米は疑問をぶつける。
「……でも、なんで急に向こうが会いたいなんて言い出したんですか?」
山本は手を止め、答える。
「不良が出たのに気づくのが遅かった。……でも、先方が払った金はもう戻ってこない。だから今、焦ってる。」
「そもそも、あれは先方が急いでいたからだ。予算の都合か、他の事情か……契約より納品を優先させたのは、向こうの判断だよ。」
久米は目を瞬かせ、山本の横顔を見つめる。
「じゃあ……あのときの“先行生産”って……」
「ああ。あれは“市の都合”で始まったことだ。伊吹が口頭で確認を取って、それに基づいて俺たちは作った。
――形式的には全部、筋は通ってる」
山本は目の前の、まだ未開封の段ボールの山を指差す。
「……まだ開封されてないロットも残ってるからな」
「ーーただ、筋が通ってるからって、誰も責任を取りたがらないのが現実だけどな。」
納品は済んでるけど、検品は全部終わってないってことか……
「つまり……裏をかこうとしてる?」
久米は拳を手のひらに叩きつけ、はっとする。
「お前、市内のニュース、見てるか?」
伊藤はスマホを取り出しながら聞いた。
「……すみません、見てないです……」
久米はうつむき、小さく答える。
「社会人として、仕事に関係なくても時事ニュースくらいチェックしろ。」山本が厳しい声で言い放つ。
「はい、はい」
伊藤が笑いながら助け舟を出し、スマホの画面を久米の目の前に突き出す。
ようやく山本の説教から解放された久米は、ちょっと身を引きながらその画面を読む。
『日南市、来月からシングル家庭への5万円支援を決定』
読みながら、意味は分かるのに、何かが繋がらない感覚に襲われる。文面を何度も反芻した末、思わず口にした。
「これ……僕たちと何の関係が……?」
山本がそっと隣に立ち、久米の手元を一瞥してから、静かに言葉を紡ぐ。
「国の決定による予算措置だ。……急な支出があれば、どこかで金が足りなくなる」
「……その分、別の予算が削られたってことですか?」
「新しい補助が始まると、こういう案件が降ってくる」
さっきまで笑っていた伊藤も、もう何も言わずに段ボールのラベルを剥がしている。
その一言に、久米はぱちぱちと瞬きを繰り返し、伊藤、山本と順に見比べた。
「ウチの納品先……役所だったんですか!?」
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